第十一話 波なき静寂と、冷たい透明 パート3
第十一話 波なき静寂と、冷たい透明
パート3
黒い水の巨手が、瑠璃色の空を覆い尽くしていた。
振り下ろされれば、エリアもレオンも、コハクも、跡形すら残らない。
「っ……!」
レオンはとっさにエリアの前へ立ち、彼女を庇うように両腕を広げた。
だが、その足元がわずかに揺らぐ。
胸元から取り出した銀の音叉には、根元まで達する深い亀裂が走っていた。それを握るレオンの手もまた、かすかに震えている。
降りてくる巨手は、ひどく遅く見えた。
それなのに、逃げることができない。
体が水底へ引かれるように重く、足元へ縫い止められていた。
『お前は疲れているのだろう、調律者よ』
感情のない声が、耳ではなく心の奥へ直接染み込んでくる。
『他人の痛みを引き受け、己をすり減らすことに、何の意味がある』
その響きは、単なる威圧ではなかった。
誰もが一度は願うはずの――もう傷つきたくないという弱さを、優しく撫でるような声だった。
『もう、何もしなくていい』
黒い巨手が、じわりと距離を縮める。
『何も感じなくていいのだ』
レオンの呼吸が浅くなる。
『この静寂へ沈めば、お前はもう二度と、何ものにも傷つけられない』
囁きは、レオンが隠し続けてきた疲労へ深く入り込んだ。
他人の痛みを感じすぎる恐怖。
誰かの悲鳴を聞くたびに、自分の心まで削られていく苦しさ。
すべてを投げ出し、何も聞こえない場所へ逃げたいという願い。
(そうか……)
レオンの蜂蜜色の瞳から、すっと光が失われかけた。
(僕がずっと欲しかったのは、この「何もない静寂」だったのか……?)
音叉を握る指から、力が抜けていく。
『調律』の障壁を展開しようとしていた魔力も、霧が晴れるように消えかけた。
その瞬間。
「さっき言ったでしょう、レオンさん!」
高く澄んだ声が、レオンの心を覆う迷霧を切り裂いた。
はっとして振り返る。
エリアは両手の布手袋を外し、白い素手をさらしていた。
怯えは消えていない。
それでも彼女は、空を覆う黒い巨手をまっすぐに睨みつけていた。
「私は――私たちは、心を捨てたりしない!」
エリアは手袋を水面へ投げ捨てる。
「傷つくのが怖くても、誰かを大切に思った気持ちまで、なかったことにはさせない!」
水面を強く蹴った。
足元から生まれた波紋を置き去りにして、エリアの小さな体がレオンの前へ飛び出す。
「エリア、駄目だ……!」
レオンの制止は間に合わなかった。
エリアは降りてくる巨手へ両腕を伸ばし、その表面を覆う水の繭――『静寂の蓋』を、真正面から受け止めた。
――ピキッ。
素手が触れた瞬間、乾いた音が響いた。
音のなかった海に生まれた、最初の破壊音。
硬い水の繭に、小さな亀裂が走っていた。
「くっ……!」
だが、黒い巨手の質量はあまりにも大きい。
エリアの細い腕が軋み、膝が水面へ沈みかける。
『無駄だ』
ノクスの冷たい声が響く。
『波なき海では、破壊さえ広がらぬ』
巨手の重圧が、さらに増した。
エリアの足元から広がっていた波紋が押し潰され、消えていく。
「くぅぅっ……!」
両腕が悲鳴を上げる。
それでも、エリアは手を離さなかった。
「負けない……!」
指先から『破壊』の魔力を送り込み続ける。
「私だって……守るんだから……!」
亀裂が、もう一本増えた。
しかし、それ以上は広がらない。
エリアの力が足りないのではない。
静寂が、破壊の波を亀裂の先へ進ませないのだ。
(彼女が起こした波を、僕まで消してどうする)
レオンは強く唇を噛んだ。
傷つくことを恐れて、目の前の少女を一人にするわけにはいかない。
エリアは、自分を救うために前へ出た。
ならば今度は、自分が彼女の力を支える番だ。
レオンは、震える手に握った銀の音叉を見つめた。
亀裂は、すでに根元まで達している。
次に鳴らせば、今度こそ砕けるかもしれない。
長いあいだ、世界律の波を教えてくれた相棒。
その最後の一音になるかもしれなかった。
それでも、レオンは音叉の片方の枝へ指をかけた。
「君の力は、僕が必ず支える」
迷いを断ち切るように、強く弾く。
――チィンッ!
亀裂だらけの音叉から、奇跡のように澄んだ一音が放たれた。
高く、まっすぐな響きが、押し潰されかけた静寂を切り裂いていく。
音はエリアの背中を通り抜け、その指先へ。
そして、止まっていた破壊の波へと重なった。
低く荒々しい『破壊』の波。
高く澄み切った『調律』の音。
異なる二つの響きが重なり、一つの和音へ変わっていく。
水面に、新たな波紋が生まれた。
一つ。
二つ。
幾重にも重なり、瑠璃色の海の彼方へ広がっていく。
「いけ、エリア!」
レオンが叫ぶ。
「君が起こした波を、僕が必ず届ける!」
音叉の一音が、亀裂の中へ滑り込んだ。
静寂によって止められていた破壊の波が、水の繭の奥深くまで一気に駆け抜ける。
ピキッ。
ピキピキッ――!
細い亀裂が枝分かれし、『静寂の蓋』全体へ瞬く間に広がっていった。
『何故だ』
ノクスの声が、初めて揺らいだ。
『何故、波が広がる』
「一人じゃ、届かなかったかもしれない……」
エリアは歯を食いしばりながら、さらに両手へ力を込める。
「でも、今は一人じゃない!」
指先から、瑠璃色の光が弾けた。
「あぁぁぁああぁっ!」
エリアの叫びとともに、『破壊』の力が亀裂のすべてへ流れ込む。
――パァァァンッ!
硬い水の繭が、内側から弾け飛んだ。
感情を閉じ込めていた『静寂の蓋』が、無数の瑠璃色の破片となって空へ舞い上がる。
音を失っていた海に、砕け散る水晶のような響きが降り注いだ。




