第十一話 波なき静寂と、冷たい透明 パート2
第十一話 波なき静寂と、冷たい透明
パート2
「あっ、待って、コハク!」
エリアは慌てて声を上げ、前方へ駆けていく小さな背中を追いかけた。
本来なら、パシャリと水の跳ねる音がするはずだった。
だが、靴底が水面を叩いても、音ひとつ立たない。
波紋すら生まれず、硬く冷たいガラス板のような感触だけが、エリアの足裏を押し返した。
「エリア、慌てないで。足場はひとまず安定しているけれど、この世界の法則がいつ変わるか分からないからね」
すぐ後ろから、レオンが静かな足取りでついてくる。
旅人の装いに戻った彼の背には、まだ痛々しい包帯が巻かれていた。
ノクスの爪に深く抉られた傷が、わずか数時間で癒えるはずもない。歩くたび、レオンの眉がわずかに歪む。その横顔を見て、エリアの胸がきゅっと痛んだ。
「レオンさん、やっぱり、まだ背中が痛むんじゃ……」
「大丈夫だよ」
レオンは足を止めることなく、穏やかに答えた。
「……それに、痛むということは、僕がまだここに生きていて、自分の足で歩いている証拠だ。カフェで他人の痛みを引き受けてばかりいた頃より、ずっと心地いいくらいさ」
そう言って、蜂蜜色の瞳を柔らかく細める。
その微笑みには、痛みを隠す強がりよりも、何かを受け入れた者の穏やかさがあった。
エリアはそれ以上何も言えず、ただ力強く頷いた。
ふと前方へ目を向けると、コハクが十メートルほど先で立ち止まり、こちらを振り返っていた。
白黒のハチ割れ模様をした小さな体が、どこまでも広がる瑠璃色の世界に、ぽつんと浮かんでいる。
コハクの首が、何かに導かれるようにすっと動いた。
次の瞬間、左の『瑠璃色』の瞳から青い光が伸び、海の彼方を一直線に指し示した。
その光を目で追う。
茫洋とした水平線の向こうに、うっすらと白い影が浮かび上がっていた。
「あれは……建物?」
「行ってみよう。コハクが案内してくれている場所なら、きっと何かがある」
二人は水面を踏みしめ、白い影を目指して歩を進めた。
近づくにつれて、その正体が明らかになっていく。
それは、海上に浮かぶように佇む巨大な古代遺跡だった。
純白の石柱が、かつての秩序を残すように整然と並んでいる。
だが、その多くは中ほどから折れ、あるいは斜めに傾き、静まり返った瑠璃色の水面へ歪な影を落としていた。
風ひとつ吹かないこの世界で、なぜ柱は崩れたのか。
まるで時そのものが、かつて大きな災厄が起きた瞬間に凍りついてしまったかのようだった。
「ここも……古代文明アルテミアの遺構なのかな」
「おそらくね。砂漠の廃都と同じ、かつての『水の聖域』の姿だろう」
二人は崩れた列柱の間を抜け、水上に円形に広がる石畳の中央へ足を踏み入れた。
足元に広がる水は、恐ろしいほどに透明だった。
深ささえ測れないほど遠い海底へ、光だけがどこまでも届いている。
エリアはふと足を止め、おそるおそる水底を覗き込んだ。
「……っ!?」
息が止まった。
透き通った海の、はるか深層。
そこに、真っ黒な『何か』が沈んでいた。
巨大な油膜を凝縮したような塊が、重たく海底を覆っている。
黒い塊はゆらゆらと蠢きながら、海底を埋め尽くすように、ゆっくりとうねっていた。
黒い泥ではない。
――ノクスだ。
カフェを襲ったあの黒い霧と同質の、底知れぬ悪意と悲しみの残滓。
それが、この美しい瑠璃色の海の底に、膨大な量となって封じ込められていた。
「レオンさん……下……っ!」
「見えているよ。……これは、ひどいな」
レオンの声から、いつもの穏やかさが完全に消えていた。
彼の手が胸元へ伸び、ポケットに収めた亀裂の入った銀の音叉に触れる。
「上から見れば、息を呑むほどきれいな海だ。だけど、その底には誰の目にも触れないように、冷たい悲しみが沈められている」
レオンは海底の闇を見据えたまま、低く続けた。
「足の踏み場もないほどにね」
そのときだった。
「ニャァー……」
コハクが、重く低い声で鳴いた。
普段の愛らしい声とは似ても似つかない。
太古の鐘を思わせる、低く深い響きだった。
コハクは二人の前でくるりと向き直ると、ちょこんと水の上に座り直した。
右目――果てしない時を閉じ込めた『琥珀色』の瞳が、カッと強く脈動する。
ヴィン、と空間が揺れた。
その音は耳を通らず、古い記憶の映像と無数の声となって、二人の頭へ直接流れ込んできた。
『――もう、誰も傷つかなくていいように』
灰色の空の下、傷ついた人々が泣いていた。
『――悲しいと思うから、苦しいのだ』
崩れた街で、誰かが動かなくなった家族を抱きしめていた。
『――感情なんて、波立たせるから心が割れてしまうのだ』
無数の悲痛な叫びと、すべてを諦めた声。
『いっそのこと、全部捨ててしまおう』
人々が胸元から淡い光を取り出し、海へ放り投げていく。
『怒りも、寂しさも、誰かを愛する喜びさえも……』
沈んでいく光へ、黒い泥が絡みついた。
『すべてをこの海へ沈め、波を殺してしまえば、永遠に平穏でいられる』
最後の光が沈んだ瞬間、海から波が消えた。
風が止まり、潮騒が途絶える。
人々の顔からは、涙とともに笑みまで消えていった。
――ぞわり、とエリアの背筋を冷たい汗が伝った。
コハクの琥珀色の瞳が見せているのは、この『瑠璃色の海』が生まれた理由だった。
はるか昔、度重なる災厄と争いに傷つき果てた人々がいた。
彼らは二度と傷つかないために、心を波立たせる『感情』を自ら切り離した。
悲しみも、怒りも、痛みも。
喜びや、誰かを想う気持ちさえも、重い蓋の下へ封じて海底へ沈めたのだ。
そうして命の波動を失った海は、風を失い、潮騒を失い、死んだように透き通る『波なき海』へと姿を変えた。
「そんな……っ」
エリアは言葉を失った。
手袋をはめた自分の両手を見つめる。
不器用で、感情が揺れるたびに何かを壊してしまう自分の力。
――感情なんて、なければいいのに。
エリア自身も、これまで何度そう願ったか分からない。
もし自分が彼らと同じ場所に立っていたなら、この海へ心を投げ捨てることを、救いだと思っていたかもしれない。
「感情を殺して、何も感じなくなれば……確かに、傷つくことはない」
レオンが、ぽつりと呟いた。
蜂蜜色の瞳は、海底で蠢く黒い澱をじっと見つめている。
「自分の心に蓋をして、空っぽのまま安全な場所に閉じこもる。……それは、僕がずっとやってきたことと同じだ」
足元の水面に、かすかな震えが走った。
「他人の痛みを『調律』するふりをしながら、自分自身の本当の心からは逃げていた。……この海は、僕の心の鏡みたいなものなのかもしれないね」
レオンの声には、自嘲だけではないものが混じっていた。
海底のノクスたちの痛みへ、自ら沈んでいこうとするような危うさ。
黒い澱が、その声に呼応するように脈打った。
「違います、レオンさん!」
エリアは思わず、レオンの腕を強く掴んだ。
手袋越しにも伝わる彼の冷えた体温へ、自分の熱を注ぎ込むように。
「傷つかないために心を捨てるなんて……そんなの、生きてるって言えません!」
エリアの声に反応し、足元に小さな波紋が生まれた。
この海へ来て初めて生まれた、ほんのわずかな波だった。
「泣いたり、怒ったり、怖がったりするから……だから、誰かが優しくしてくれたときに、あんなに温かい気持ちになれるんです!」
エリアの脳裏に、壊れたカフェの光景がよみがえった。
失敗して落ち込んだ自分を責めることなく、温かいハチミツレモンを淹れてくれたレオンの笑顔。
「人間は面倒だ」と言いながら、いつもそばにいてくれたルナのぬくもり。
「私は……壊してしまうのが怖くて、ずっと逃げていました」
声が震える。
けれど、レオンの腕を掴む手は離さなかった。
「でも、自分の手でノクスを壊して、レオンさんと手をつないだとき……すごく怖かったけど、それでも、すごく嬉しかった!」
水面の波紋が、二人の足元からゆっくりと広がっていく。
「悲しいことや、痛いことがあるからこそ……大切なものが何なのか、分かるんじゃないですか!」
エリアの叫びが、波ひとつなかった海を震わせた。
その瞬間。
ゴゴゴゴゴ……ッ!
静まり返っていた水面が、激しく振動し始めた。
遺跡の石柱が軋み、砕けた石片が水面を跳ねる。
海底を覆っていた黒い澱が、怒り狂ったように渦巻いた。
「エリア、下がって!」
レオンはエリアを庇い、後ろへ押しやった。
二人が立っていた円形遺跡の中央。
その真下から、海底に沈んでいた黒い澱が、爆発するように噴き上がった。
水と黒泥が絡み合い、とぐろを巻きながら巨大な形を成していく。
やがて現れたのは、顔のない巨大な人型だった。
その全身には、不気味な水の帯が幾重にも巻きつき、内側で暴れる何かを固く封じている。
押し殺された怒り。
沈められた悲しみ。
忘れられた痛み。
そのすべてを閉じ込めた巨像。
――『静寂を強いるノクス』。
頭部にあたる場所から、冷たく感情のない声が響いた。
『――何故、波を立てる』
その声だけで、瑠璃色の海全体が震える。
『――何故、痛みを呼び覚ます』
黒い水で形作られた巨大な腕が、ゆっくりと持ち上がった。
『――静かに沈め』
開かれた掌が、空を覆い隠す。
『――何も感じぬ、無の平穏の中へ……』
巨大な手が、二人と一匹をまとめて押し潰そうと、轟音とともに振り下ろされた。




