第三章 水の聖域「瑠璃色の海」 第十一話 波なき静寂と、冷たい透明 パート1
第三章 水の聖域「瑠璃色の海」
第十一話 波なき静寂と、冷たい透明
パート1
――からん、と。
見慣れたカフェの扉についた真鍮のベルが、どこか遠い、透明な音を響かせた。
その音色を置き去りにするように、エリアとレオンは、足元をすり抜けて先を行くコハクを追い、眩い光の向こう側へ踏み込んだ。
瞬きを一つ、二つ。
目が光に慣れたとき、エリアの口から小さく息が漏れた。
「……きれい……」
視界のすべてを染めていたのは、果てしない青だった。
足元から水平線の彼方まで、波ひとつなく広がる、透き通った瑠璃色の海。
見上げれば雲ひとつない空が広がり、水面はその青を映す巨大な鏡となっていた。
空と海の境界さえ定かではない。
まるで世界にたった一人、巨人の持つ青いガラス玉の中へ閉じ込められたかのようだった。
しかし、一歩を踏み出そうとしたエリアは、奇妙な違和感に襲われ、足を止めた。
(……音が、しない?)
海に来たはずだった。
なのに、寄せては返す波の音が、一切聞こえない。
頬を撫でる潮風もなければ、塩気を含んだ海の匂いもしない。
ただ、どこまでも冷たく澄んだ『静寂』だけが、重たく肌へ張り付いていた。
エリアは、そっと足元を見下ろした。
靴底は、水面の上にしっかりと立っている。
底まで見通せそうなほど透明な水は、彼女の体重を受けても揺らぐことなく、波紋ひとつ立てなかった。
「本当に……水の上に立ってる……」
「そうだね。僕たちが知っている海とは、まるで違う場所だ」
隣に立つレオンが、低く静かな声で答えた。
深手を負った背中の痛みを押し隠すように、わずかに重心を落とし、周囲へ鋭い視線を巡らせている。
エプロンを脱いだその姿は、いつもの『カフェの店長』ではなく、一人の旅人そのものだった。
「風も、波もない。……水が、死んでいるみたいに動かないんだ」
レオンは静かに息を整え、続けた。
「僕の『調律』でも、この世界の波長をほとんど捉えられない。それくらい、深くて冷たい静寂が満ちている」
彼は胸のポケットに収めた銀の音叉を、そっと上から押さえた。
根元に深い亀裂の入ったその音叉は、いつもなら微かに震え、世界律の波を教えてくれる相棒だった。
けれど今は、冷たく黙り込んでいる。
ルナという絶対的な守護者がいない、初めての異界。
今度は、自分たちの判断だけで進まなければならない。
その重みが、じわりとエリアの肩にのしかかった。
(怖い……)
胸の奥が、きゅっと縮む。
それでも、エリアは胸元で青く神秘的な光を放つ『月響の鈴』を握りしめた。
指先はわずかに震えていたが、その手を離すことはなかった。
(でも、立ち止まるわけにはいかない)
瑠璃色に目覚めたこの鈴だけが、ルナを救い、世界を調えるための希望なのだから。
「にゃあ」
張りつめていた二人の間を割るように、可愛らしい声が響いた。
白黒のハチ割れ猫、コハクだ。
コハクはおもむろに顔を上げると、左右で色の異なる瞳をきらりと輝かせた。
右の琥珀色の瞳は古代の記憶を探り、左の瑠璃色の瞳は、この波なき海に隠された道筋を見通している――エリアには、そう思えた。
「コハク、どこに行けばいいか分かるの?」
エリアが尋ねると、コハクは自慢げに尻尾をピンと立てた。
そして、水の上であることなど微塵も気にせず、タタタッと鏡のような海面を駆けていく。
波ひとつない青の奥へ、二人を導くように。




