表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
52/52

第十三話 氷の聖域と、凍てつく共鳴 パート4

第十三話 氷の聖域と、凍てつく共鳴


パート4 素手の温もりと、真実の響き




『エリア……触れるな……』


氷の底へ沈みかけたレオンの声が、かすかに響いた。


「にゃあぁっ!」


コハクも鋭く鳴き、エリアの足元へ飛び出した。


行くな、と訴えるように背を弓なりにし、氷狼と化したノクスへ牙を剥く。


氷狼の口元へ集まる白い霧は、ただの冷気ではない。


触れた者から感情の熱を奪い、孤独の底へ引きずり込む、ノクスの呪いそのものだった。


それでも、エリアの足は止まらなかった。


「レオンさんは、私を助けてくれました」


凍てつく氷床を、一歩踏みしめる。


「だから今度は、私が助けるんです!」


エリアはコハクの横を抜け、氷柱の一部になりかけているレオンへ駆け寄った。


霜に覆われた銀の音叉を握る、凍りついた手。


そこへ、むき出しの両手を重ねる。


「……っ!」


触れた瞬間、刃物で切り裂かれたような痛みが指先を貫いた。


凍気だけではない。


レオンが胸の奥へ押し込めてきた感情が、触れた手を通じて一気に流れ込んでくる。


空虚さ。


罪悪感。


誰かへ近づけば、また傷つけてしまうという恐怖。


その一つ一つが鋭い氷の棘となり、エリアの胸を突き刺した。


『……僕に、構うな……』


レオンの弱々しい声が、意識の奥から聞こえる。


『また……君を、傷つけてしまう……』


「怖くても、離しません!」


エリアは痛みに顔を歪めながら、冷え切った手をさらに強く握った。


自分の体温を、脈打つ心臓の熱を、指先から伝えるように。


「私だって、ずっと怖かったんです!」


琥珀色の瞳からこぼれた涙が、レオンの手の甲へ落ちる。


涙はたちまち凍り、小さな結晶となって二人の手の間に残った。


「自分の力で、カフェも、ルナちゃんも、レオンさんも壊してしまうんじゃないかって……」


エリアの声が震える。


「だから、手袋の中に隠れて、何にも触れないようにしていました」


猫カフェ『ルナ』で過ごした日々が、胸の奥に蘇る。


割れた皿を前に立ち尽くしていた自分。


そんなエリアを責めるより先に、怪我をしていないかと手を差し伸べてくれたレオン。


恐怖で眠れない夜には、何も聞かず、甘い紅茶を差し出してくれた。


「でも、レオンさんが教えてくれたんです」


エリアは凍りつく指へ力を込めた。


「壊すのが怖くても、手を伸ばしていいって」


一人で抱え込まなくていい。


誰かを頼ってもいい。


傷つくことを恐れて、最初から何も選ばない必要はない。


それを言葉ではなく、レオンはずっと行動で教えてくれていた。


「今度は、レオンさんが私を頼ってください!」


胸元で、『月響の鈴』が淡く揺れた。


――チリン……。


凍てついた迷宮に、柔らかな鈴の音が広がる。


『海の響き』を宿した瑠璃色の光が、エリアの腕を伝い、重なった二人の手へ流れ込んだ。


その光に触れた瞬間、エリアの中へ入り込んでいた無数の感情が、異なる響きとして聞こえ始めた。


弱々しく、それでも消えずに鳴り続ける、温かな音。


レオン本来の響きだ。


そして、その音へ絡みつくように鳴る、冷たく濁った不協和音。


ノクスの囁きと、レオンの諦めを結びつけている歪んだ共鳴。


二つの響きは、似ても似つかない。


「……分かる」


エリアは目を閉じた。


「こっちが、レオンさんの音」


瑠璃色の光の中に、蜂蜜色の細い輝きが浮かんでいる。


弱ってはいても、失われてはいない。


自分が何度も救われてきた、優しく穏やかな響きだった。


「そして、これが……レオンさんを閉じ込めている音」


蜂蜜色の光へ、黒い氷の鎖が何重にも絡みついている。


エリアが壊すべきものは、レオンの心ではない。


身体を覆う氷そのものでもない。


彼の諦めへ寄生し、孤独の底へ引きずり込もうとする、この歪んだつながりだけだ。


「私の力は、壊すものを選べる」


エリアの両手から、琥珀色の光が静かに広がった。


激しく爆発することはない。


その光はレオンの身体を傷つけることなく、氷の奥へ細く潜り込んでいく。


狙うのは、ただ一つ。


「レオンさんとノクスをつないでいる、その不協和音だけを――」


エリアは指先へ意識を集中させた。


「壊す!」


ピシッ――。


細い亀裂が一本、氷の内側を走った。


そこから枝分かれするように、琥珀色の光が広がっていく。


『何をした、破壊の娘!』


氷狼が怒りの咆哮を上げた。


『その男は、自ら孤独を選んだのだ!』


「違います!」


エリアは両手を離さなかった。


「怖くなって、立ち止まっているだけです!」


ピシッ。


ピキッ。


黒い氷の鎖へ、次々と亀裂が走る。


それでも、レオンの蜂蜜色の響きには、傷一つつかない。


『やめろ!』


氷狼の口元から、凍てつく吹雪が放たれた。


「にゃあっ!」


コハクの『真実の窓』が眩い瑠璃色の光を放つ。


吹雪の流れの中に隠されていたわずかな隙間が見え、白い風がエリアの左右へ分かれていった。


すべてを防ぐことはできない。


冷気が頬を切り、むき出しの指先から感覚を奪っていく。


それでも、エリアはレオンだけを見つめていた。


「レオンさん、帰りましょう」


震える声で呼びかける。


「あの店へ帰って、今度は一緒に紅茶を淹れましょう」


暗い氷の底へ、エリアの声が届いた。


レオンの意識の中に、小さな光が灯る。


カウンター越しに笑うエリア。


初めて紅茶を淹れたのだと、誇らしげに報告してくれた姿。


倒れた自分を、迷うことなく素手で抱き止めてくれた温かさ。


自分が与えてきたと思っていたものは、いつの間にか、もっと大きな温もりとなって返ってきていた。


(僕の中には……)


蜂蜜色の光が、氷の底で揺れる。


(君からもらった温もりがある)


閉ざされていたレオンの瞳が、ゆっくりと開いた。


失われかけていた蜂蜜色の輝きが、そこへ戻ってくる。


「……届いたよ、エリア」


かすれた声だった。


それでも、確かにレオン自身の声だった。


「君の温もりが」


レオンの指が、ほんのわずかに動く。


凍りついていた手が、エリアの両手を優しく握り返した。


「レオンさん……!」


「ありがとう」


弱々しいながらも、穏やかな微笑みが戻る。


「今度は、僕も一人で抱え込まない」


その瞬間。


レオンの黄金と、エリアの琥珀色の光が、重なった手の間で一つに溶け合った。


瑠璃色の『海の響き』が二つの光を包み込み、澄み切った音となって迷宮へ広がっていく。


――チリン。


月響の鈴が鳴った。


ピキィン――!


ノクスとレオンを結んでいた黒い氷の鎖が、澄んだ破裂音とともに砕け散る。


レオンの身体を覆っていた氷だけが、細かな光の粒となって宙へ舞い上がった。


銀の音叉を包んでいた霜も崩れ落ちる。


その下から、金と銀と瑠璃色の傷跡が、再び静かな光を取り戻した。


『馬鹿な……!』


氷狼が光の波に押され、氷床を大きく滑った。


『空の器が、自ら我らとの共鳴を断っただと……!』


「僕の中には、君たちには凍らせられないものがある」


レオンは荒い息を吐きながら答えた。


背中の傷は、まだ鋭く痛んでいる。


音叉を握る手にも、震えが残っていた。


他者の感情へ触れる恐怖も、消えたわけではない。


それでも、もう一人で抱え込むつもりはなかった。


立ち上がろうとしたレオンの身体が、わずかに傾く。


「レオンさん!」


エリアがすぐにその腕を支えた。


「……ごめん。もう少しだけ、頼らせてくれるかい?」


「もちろんです」


エリアに支えられながら、レオンはゆっくりと立ち上がった。


二人は手を離さないまま、並んで氷狼へ向き直る。


足元では、コハクも低く身構えていた。


「待たせたね、エリア」


レオンは傷跡の残る銀の音叉を構えた。


「今度は、一緒に調えよう」


「はい!」


『おのれ……!』


氷狼が怒りに満ちた咆哮を上げる。


周囲に林立する氷柱が大きく震え、無数の鋭い氷槍へと姿を変えた。


それらが一斉に二人へ放たれる。


レオンは音叉の先端を、指先で弾いた。


――チィィィン……。


これまでになく高く澄んだ音が、氷の聖域へ響き渡る。


傷つくことへの恐怖を消し去った音ではない。


恐怖も、痛みも抱えたまま、誰かと共に歩くことを選んだ響きだった。


黄金の波紋が、飛来する氷槍の群れへ触れる。


耳障りな震えが一つずつほどけ、氷槍は勢いを失って空中へ静止した。


「エリア、今だ!」


「はいっ!」


エリアは凍える両手を構えた。


『月響の鈴』が示すのは、氷狼の身体を縦横に走る黒い不協和音。


壊すべきものは、もう見失わない。


琥珀色の瞳で、その一点を真っ直ぐに見据える。


身体を凍らせる孤独を越えた二人の反撃が、今、始まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ