第十話 月響の鈴と、ふたつの時を宿す猫 パート3
第十話 月響の鈴と、ふたつの時を宿す猫
パート3
――カァァァンッ……!
透き通った瑠璃色の輝きとともに、鈴の音が弾けるように広がった。
それは耳で聞く音ではなく、二人の魂そのものを震わせるような、深く、果てしなく澄んだ響きだった。
光の奔流に呑み込まれ、エリアは思わず目を閉じた。
次に目を開けたとき、彼女の視界に広がっていたのは、見慣れた地下神殿の青白い石壁ではなかった。
「え……ここは……」
足元には、どこまでも広がる瑠璃色の海がうねっていた。
かと思えば、景色は瞬きする間に切り替わる。
肌を切り裂くような吹雪の吹き荒れる、凍てつく雪原。
巨木が立ち枯れ、命の気配が途絶えた灰色の谷。
無数の人々が行き交いながらも、誰もが足元に重たい泥のような影を引きずっている、どこか遠くの巨大な街。
それは、猫カフェという小さな居場所から旅立ったエリアが、初めて肌で知る『世界』の広さだった。
『――痛い』
『――ひとりにしないで』
『――どうして、私だけが』
圧倒的な光景とともに、無数の声が津波のように二人の意識へ押し寄せた。
世界各地で誰にも受け止められず、黒い湖の底へ沈められてきた、悲しみの声。
ノクスたちの、途方もない量の悲鳴だった。
「あ、あぁっ……!」
あまりの痛みの量に、エリアは息が詰まり、立っていられなくなりそうになった。
隣を見ると、レオンもまた青ざめた顔で唇を噛み締め、今にも意識を手放しそうになっていた。
他人の痛みに寄り添う『調律』の力を持つ彼にとって、世界中の悲鳴を直接浴びることは、自分の輪郭をすり潰されるほどの負荷に違いない。
(私一人じゃ、この悲しみに壊されてしまう。レオンさん一人じゃ、痛みに溶けて消えてしまう……!)
世界は、あまりにも広くて、悲しすぎる。
圧倒的な絶望の波に呑まれそうになった、その瞬間。
ぎゅっ、と。
エリアの右手を、温かく、力強いものが握り返した。
「……大丈夫だ、エリア。君は、一人じゃない」
荒い息を吐きながら、レオンが掠れた声で言った。
彼の震える手が、エリアの小さな手をしっかりと掴み、つなぎ止めている。
その確かな熱と重みが、冷たい悲しみの奔流の中で、唯一の『現実』としてエリアの心をつなぎ止めた。
「レオンさん……っ」
エリアもまた、震える指先へぎゅっと力を込め、彼の手を握り返す。
そうだ。
もう彼にだけ、痛みを引き受けさせたりはしない。
恐怖は消えていない。
それでも、エリアの胸の奥で『守りたい』という意志が、恐怖よりも強く熱を帯びた。
「私が、壊します。レオンさんを苦しめる、理不尽な悲しみの殻を……壊せるところから、ひとつずつ!」
つないだ手から、エリアの熱い波長がレオンへと流れ込む。
レオンは深く息を吸い込み、閉じかけていた蜂蜜色の瞳をまっすぐに開いた。
「なら僕は、君が壊したその先に残る痛みを……何度でも、優しく調えよう」
二人の意志が、ひとつの響きとして重なった。
エリアの『破壊』が、悲しみを縛りつける絶望の殻にひびを入れる。
レオンの『調律』が、露わになった痛みを温かく包み込み、世界律の穏やかな流れへと還していく。
不協和音のように重なっていた無数の悲鳴。
そのうちのいくつかが、かすかな和音へと変わり、瑠璃色の海や雪原の空へ溶けていった。
すべてを救えたわけではない。
けれど、鈴は確かに、悲しみへ届く道筋を示していた。
ふっと、周囲の光が収束する。
意識が急速に現実へ引き戻され、エリアとレオンは『記憶の泉』のほとりへ立ち尽くしていた。
「はぁっ、はぁっ……」
「戻った……のか」
二人はつないだ手を離し、荒い息を整えながら足元を見た。
エリアの手のひらには、もう元の銀色ではない鈴があった。
内側から月光を放つような瑠璃色の鈴が、静かな温もりを宿している。
「見事だ。お前たちは、世界中のノクスの声に触れ、それでも己を見失わなかった」
巨大な白竜アルカディアが、満足げに喉を鳴らした。
「月響の鈴は、真の担い手たちの手によって目覚めた。……さあ、地上へ戻るがいい。お前たちの旅を始めるために」
「はい!」
エリアとレオンは顔を見合わせ、深く頷き合った。
大切な居場所だったカフェの惨状を思い出し、胸が痛む。
それでも、立ち止まっている時間はもうない。
彼らは前を向き、地上へ続く白い石の階段へと足を向けた。




