第十話 月響の鈴と、ふたつの時を宿す猫 パート1
第十話 月響の鈴と、ふたつの時を宿す猫
パート1
いちばん安全だった居場所は、陥落した。
けれどそれは、彼らが本当の意味で『世界を救う旅』へ踏み出すための、残酷な始まりでもあった。
激しい攻防の末、ノクスの黒い霧は一時的に退いた。
けれど、猫カフェ『ルナ』の店内は、もう見る影もなかった。
蜘蛛の巣のようなひびが走ったカウンター。
脚を軋ませているアンティークのテーブル。
床に散らばった、白いカップの破片。
陽だまりのように温かかった日常は、一瞬にして剥ぎ取られてしまった。
「ルナちゃん……っ!」
エリアはふらつく足で歩み寄り、床に倒れたまま動かない小さな黒猫をそっと抱き上げた。
艶やかだった黒い毛並みは生気を失い、金色の瞳は固く閉じられたままだ。
首輪から外れた銀の鈴は、古い床板の上で、もう動きを止めていた。
エリアは震える手で、その鈴を拾い上げる。
ひんやりと冷たい金属からは、世界律の軋みを伝えていたあの不思議な響きが、もう一切感じられなかった。
「ルナちゃん、ごめんね……。私たちが、弱かったから……」
ぽろぽろと大粒の涙がエリアの頬を伝い、ルナの黒い毛並みに落ちていく。
自分が恐怖に囚われ、力を暴走させてしまったから、お店をこんな目に遭わせてしまった。
ルナちゃんに、こんなに無理をさせてしまった。
押し寄せる罪悪感で、エリアの胸が張り裂けそうになる。
「エリア、自分を責めないで……。君のおかげで、ノクスは退いたんだ」
低く、掠れた声が響いた。
振り返ると、レオンが痛みに顔を歪めながら、壁に背を預け、何とか上体を起こそうとしていた。
「レオンさん! 動いちゃダメです!」
エリアは慌ててレオンのもとへ駆け寄った。
深い青色のエプロンは無残に引き裂かれ、その下から赤い血がじわりと滲み出している。
ノクスが刃のように尖らせた触手で、彼の背中を深く刺したのだ。
エリアは救急箱を引っ張り出すと、震える手で包帯と消毒液を取り出した。
いつもなら、手当てをしてくれるのはレオンのほうだった。
なのに今は、エリアが震える手で彼の傷に触れている。
不器用な手つきで、それでも必死に傷口を押さえて止血し、包帯を巻いていった。
「痛い、ですよね……。ごめんなさい。私がもっと、ちゃんと自分の力を扱えていれば……」
「……ありがとう、エリア。ずいぶん楽になったよ」
レオンは青白い顔に、いつものひだまりのように穏やかな微笑みを浮かべた。
そして、エリアの頭にそっと手を置く。
「君のせいじゃない。僕の『調律』が、ノクスの不協和音を抑えきれなかった。それだけだよ」
「でも……」
「それに、君が最後にあの霧を壊してくれなければ、僕もルナも、今頃どうなっていたか分からない」
レオンはそう言って、自分のエプロンのポケットに手を伸ばした。
取り出したのは、手のひらほどの古びた銀の音叉。
本格的な『調律』を行うための大切な魔術具だったが、その根元に入っていた小さなひびは、今や中央にまで深く達し、完全に二つに割れかけていた。
「そんな……」
エリアは息を呑んだ。
レオンが他人の痛みに寄り添い、世界律を整えるために使い続けてきた大切な道具が、限界を迎えている。
二人は、静まり返った店内を見渡した。
ニケやマロン、セレスたちも、ノクスの残滓に怯えるように、部屋の隅で身を寄せ合っていた。
これまでずっと、この温かい空間と、そこに集まる迷い人たちを、ルナはたった独りで守り続けてきたのだ。
数百年の間、誰にも頼ることなく。
孤独な守護者として、この店を守り続けてきた。
(ルナちゃんは、どれだけの重荷を、独りで背負っていたんだろう……)
エリアは、胸元に提げた祖母の銀の指輪をきゅっと握り締めた。
もう片方の手には、光を失った銀の鈴がある。
恐怖が消えたわけではない。
自分の中に眠る『破壊の力』は、今でも底知れず恐ろしい。
けれど、レオンが身を挺して自分を庇ってくれた。
ルナが命を削って結界を張ってくれた。
「レオンさん」
エリアは涙を拭い、琥珀色の瞳に強い光を宿してレオンを見つめた。
「私、もう逃げません。お店が壊されて、ルナちゃんが倒れて……すごく悔しいです。悲しいです」
一度、言葉が震える。
けれどエリアは、胸の奥からもう一度声を絞り出した。
「でも、だからこそ、今度は私たちがルナちゃんを守る番だと思うんです」
レオンはエリアの言葉に、はっとしたように目を瞬かせた。
いつも皿を割るたびに泣きそうな顔をして、自分の力を恐れていた少女の面影は、そこにはなかった。
まっすぐに絶望を見据え、それでも前へ進もうとする、一人の強い人間がそこにいた。
レオンは自嘲気味に、ふっと息を漏らした。
(僕はいつも、他人の痛みを薄めることで、自分自身の空っぽな心から目を背けていたのかもしれない。……だけど、この子は違う)
「そうだね、エリア。僕たちの居場所は、僕たちの手で取り戻さなきゃいけない」
レオンは蜂蜜色の瞳に、いつもとは違う、静かで熱い決意を灯した。
他人のためだけではない。
自分たちの未来のために、立ち上がる覚悟。
「ルナの鈴をもう一度響かせる。そのために、世界各地に散った『鈴の響き』を集めよう」
レオンはひび割れた音叉を握り、静かに続けた。
「まずは、アルカディアのもとへ行こう。白竜の聖域なら、僕の傷を抑える術も、鈴を蘇らせる手がかりも見つかるはずだ」
「はい!」
エリアは頷いた。
意識を失ったルナを毛布で優しく包み、カウンターの奥に休ませる。
それから、手の中の銀の鈴を強く握り締めた。
二人は、普段は猫たちの隠れんぼの場所になっている、火の入っていない暗い暖炉の前へ向かった。
エリアが魔力を込め、暖炉の煉瓦に触れる。
――ピキィン。
エリアの『破壊』の力が、隠し通路を閉ざしていた空間の境界を静かに砕いた。
暗かった壁が水面のように揺らぎ、淡い光を放つ白い石の階段が姿を現す。
二人は顔を見合わせ、深く頷き合った。
そして、闇の底へと続く階段を、一歩ずつ下り始める。
目指すのは、古代の記憶を湛える、地下の『白竜の聖域』。
月の守護者から意志を受け継いだ二人の、本当の戦いがここから始まろうとしていた。




