第九話 黒い霧の強襲と、落ちた黒猫の鈴 パート4
第九話 黒い霧の強襲と、落ちた黒猫の鈴
パート4
からん……。
銀の鈴が、古い床板の上を転がっていく。
その澄んだ音色には、もうかつての魔力は宿っていなかった。
「ルナちゃん……っ!」
エリアの悲鳴が、黒く染まりゆく店内に響いた。
結界を破られたルナは、床に倒れたまま動かない。
レオンもまた、引き裂かれた背中の痛みに耐えかね、片膝をついている。
頼りにしていた大人と、店を守ってきた小さな黒猫。
一人と一匹が倒れた今、黒い霧の前に立てるのは、自分の力を恐れて震える不器用な少女だけだった。
『――終わりだ。お前には何も守れない』
黒い霧が、冷たい嘲笑とともにうねりを上げる。
ノクスは、魔力を失った銀の鈴を真っ先に呑み込もうと、鋭い泥の触手を伸ばした。
その鈴は、ルナがこの店に結びつけていた最後の響きだった。
呑み込まれれば、猫カフェ『ルナ』は今度こそノクスの闇に沈む。
(どうしよう……私のせいで、また……)
エリアの足がすくむ。
手袋を外したままの両手が、情けないほど震えていた。
けれど、ふと視界の端に映ったものがあった。
床に散らばった、白いカップの破片。
蜘蛛の巣のようなひびが走ったカウンター。
脚を軋ませるテーブル。
自分の力が傷つけてしまった、大切な場所の姿だった。
『君に、大切なものまで壊させたりしない!』
血を流しながらも自分を庇ってくれた、レオンの声が胸の奥に蘇る。
(……ちがう)
エリアは、強く唇を噛み締めた。
私は、店を壊してしまった。
レオンさんが傷つく隙まで、作ってしまった。
けれど、レオンさんは私を見捨てなかった。
ルナちゃんも、命懸けで私たちを守ろうとしてくれた。
なら、ここで泣いたまま何もしなければ、本当に全部が「私のせい」で終わってしまう。
「……そうだよ」
エリアは震える両手を、強く握り締めた。
「私の力は、壊すことしかできない。だったら――」
顔を上げる。
琥珀色の瞳に浮かんでいた絶望の涙が、すっと引いていく。
代わりに宿ったのは、決して譲れないものを守るための、揺るがない意志の光だった。
「壊すしかできないなら、壊してみせる」
エリアは、銀の鈴へ伸びる黒い霧を睨み据えた。
「この理不尽な絶望だけを!」
エリアは床を蹴った。
布手袋を外した素手のまま、銀の鈴へ伸びる黒い霧へ一直線に駆ける。
『愚かな!』
黒い霧が無数の棘へ変わり、エリアの細い体を串刺しにしようと襲いかかった。
だが、エリアは逃げなかった。
鈴を呑み込もうとしていたいちばん太い触手を、両手で掴み取る。
「――っ、ああああああっ!!」
指先から、凍りつくような悪意と悲しみが一気に流れ込んできた。
それでも、エリアは手を離さない。
痛みに耐え、自分の奥底にある『破壊の力』を解き放つ。
暴れさせない。
壊すのは、目の前の黒い霧の形だけ。
鈴も、店も、誰の体も壊さない。
ただ、ノクスがこの場所を侵すための形だけを壊す。
ピキッ……。
ピキィィィンッ!
店内に、巨大なステンドグラスが砕けるような、甲高く透き通った音が響いた。
エリアの指先から放たれた力が、黒い霧の輪郭だけを砕いていく。
触手がほどける。
棘が崩れる。
店内に満ちていたノクスの形が、細かな黒い粒へ散っていった。
「ギ……ァァァァァッ……!」
形を保てなくなったノクスが、悲痛な叫びを上げる。
黒い霧はひび割れた窓の隙間へ吸い寄せられるように流れ、森の奥へ霧散していった。
「はぁっ……はぁっ……」
静寂が戻った店内には、エリアの荒い息遣いだけが響いていた。
ノクスは退いた。
けれど、勝利と呼ぶにはあまりにも痛ましかった。
床板は裂け、壁は剥がれ、カウンターには無数のひびが残っている。
星形のクッキーは床に落ち、白いカップの破片が黒く濡れた床に散らばっていた。
エリアはふらつく足で歩み寄り、床に落ちていた銀の鈴をそっと拾い上げた。
鈴はひんやりと冷たい。
指先でかすかに揺らしても、何の響きも返さなかった。
「ルナちゃん……レオンさん……」
動かない小さな黒猫。
痛みに耐えながらも、かすかに微笑む青年。
その前で、エリアは銀の鈴をぎゅっと胸に抱き締めた。
涙が、一粒、また一粒と頬を伝う。
いちばん安全だった居場所は、陥落した。
それは、彼らが本当の意味で『世界を救う旅』へ踏み出すための、残酷な始まりの合図だった。




