第九話 黒い霧の強襲と、落ちた黒猫の鈴 パート3
第九話 黒い霧の強襲と、落ちた黒猫の鈴
パート3
「くっ……!」
レオンの肩が、大きく跳ねた。
背中を丸め、喉の奥からくぐもった呻きが漏れる。
エリアを抱き留めようとした、その背中へ。
黒い霧が刃のように跳ね上がり、深い青色のエプロンを引き裂いていた。
布の裂け目から、じわりと赤い血が滲む。
「レオンさん……っ!?」
エリアは琥珀色の瞳を、限界まで見開いた。
自分の力が、店を傷つけた。
そのせいで生まれた隙が、最も頼りにしていた温かな背中まで傷つけた。
エリアには、そう見えてしまった。
――いや、違う。
レオンを刺したのはノクスだった。
それでも、恐怖で正常な判断を失ったエリアの目には、すべてが自分のせいのように映っていた。
『ほら見ろ。お前が動けば、大切なものが壊れる』
ノクスの湿った声が、追い打ちをかけるように脳の奥へ響いた。
「ああ……あぁぁっ……!」
エリアはレオンの腕から逃れるように後ずさりし、自分の両手を見つめて震えた。
もう、何も信じられない。
壊すものを選べると思った自分も。
守れると信じた希望も。
足元の古い床板が、耐えきれないように裂ける。
亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、エリアの罪悪感をそのまま形にしたようだった。
「エリア、自分を責めるな! これは君のせいじゃない!」
レオンは痛みに顔を歪めながらも、残された力を振り絞った。
銀の音叉を、強く弾く。
――チィンッ!
無理に絞り出した『調律』の波が、エリアにまとわりつく黒い霧を強引に弾き飛ばした。
だが、音叉はその無茶に耐えられなかった。
根元にあった小さな亀裂が、ぴしり、と広がる。
澄んでいた音色に、濁った震えが混じった。
一瞬、店内の猫たちの喉の音が止まる。
『レオンの音叉が……!』
結界を維持していたルナが、悲痛な声を上げた。
『調律』の要である音叉が砕ければ、レオンの防壁は二度と響かない。
それでもレオンは膝をつき、荒い息を吐きながら、エリアを守るように音叉を構え続けていた。
『させぬ……この聖域だけは、決して渡さぬ!』
ルナは金色の瞳に、決死の覚悟を宿した。
小さな黒猫の体から、青銀色の光が柱のように立ち上がる。
毛並みから光の粒が剥がれ、首輪の鈴が震えた。
数百年分の古代記憶も、黒猫としての小さな器も、すべて燃やし尽くすように。
ルナはノクスの霧を押し返した。
「ルナちゃん、だめ! そんなに力を使ったら……!」
エリアが叫ぶ。
ルナの放つ青銀色の光は、一瞬だけノクスを退けた。
だが、その光は長く続かなかった。
ノクスは、光に悲しみを絡ませた。
救われなかった声が幾重にも重なり、青銀色の輝きすら黒く濁らせていく。
ばちんっ。
張り詰めた糸が切れるような嫌な音がして、店を覆っていた青銀色の結界が砕け散った。
「にゃああっ……!」
ルナの小さな体が弾き飛ばされ、古い床板へ叩きつけられる。
青く光っていた首輪が、ぷつりと千切れた。
そこに付いていた銀の鈴が、床へ落ちる。
からん……。
空虚な音を立てて、鈴は黒く染まりゆく床を転がっていった。
その音だけが、エリアの耳にいつまでも残る。
「ルナちゃん……っ!」
エリアの叫びは、黒く染まりゆく店内に吸い込まれていった。




