第九話 黒い霧の強襲と、落ちた黒猫の鈴 パート2
第九話 黒い霧の強襲と、落ちた黒猫の鈴
パート2
エリアは小さく息を吸い、両手の布手袋をゆっくりと外した。
あらわになった白く細い指先が、恐怖にわずかに震える。
「大丈夫……壊すものは、私が選ぶ」
自分に言い聞かせるように呟き、女性の足首へ絡みつこうとしている黒い霧へ手を伸ばす。
砂の廃都で、ノアを縛っていた鎖だけを壊したときのように。
霧を形づくる核だけを『破壊』し、黒い悪意をただの靄へ散らす。
しかし、指先が霧に触れた瞬間――。
ぞわり。
氷のように冷たく、泥のようにどろりとした悪意が、指先から腕へ、腕から胸へと這い上がった。
『――お前の力は、壊すだけだ』
耳で聞こえた声ではなかった。
脳の奥底へ、低く湿った声が直接染み込んでくる。
「え……?」
ノクスは、女性の不安に絡みつき、それを増幅し、エリアへ流し込んでいた。
狙っているのは、彼女のいちばん弱い場所。
自分の力への恐怖。
『お前が守りたいものほど、お前の手で壊れる』
『砂漠でうまくいったのは、ただの偶然だ』
声が響くたび、黒い霧は蛇のようにエリアの腕へ巻き付いていった。
「ちがう、私は……!」
『違わない。お前は、ただの不器用な破壊者だ』
霧が腕を締め上げる。
次の瞬間、エリアの視界が黒く塗り潰された。
レオンの淹れた紅茶が、真っ黒に濁って弾ける。
温かなカウンターが砕け、星形のクッキーが黒い灰になって崩れる。
自分の力が暴走し、猫カフェ「ルナ」を木っ端微塵に吹き飛ばしてしまう幻。
その中で、レオンが失望した目でこちらを見ていた。
ルナは青銀色の光を失い、床に倒れている。
首元から外れた小さな鈴が、からん、と乾いた音を立てて転がった。
絶対に起きてほしくない光景が、現実と見まがうほど生々しく、エリアを呑み込んだ。
『お前がいなければ、この店は平和だったのだ』
「あ……ああ……っ」
エリアは琥珀色の瞳を、絶望に見開いた。
「いや……いやだ!」
心が激しく揺さぶられ、恐怖と自己嫌悪が限界を超えた。
その瞬間、エリアの意志に反して、内側にある『破壊の力』があふれ出す。
ピキッ。
みし、みししっ。
エリアの足元の古い床板が悲鳴を上げ、細い亀裂が走った。
カウンターの上のグラスに、蜘蛛の巣のようなひびが広がる。
壁の漆喰が白い粉をこぼし、客席のテーブルの脚が嫌な音を立てて軋んだ。
守りたかったはずの場所に、エリア自身の力が傷を刻んでいく。
「やめ、て……! 止まって!」
必死に両手を胸の前で握り締めたが、力の逆流は止まらなかった。
(私が……私がお店を壊しちゃう……!)
「エリア!」
レオンの切羽詰まった声が飛ぶ。
レオンは音叉で黒い霧を押し留めたまま、エリアへ駆け寄ろうとした。
その一瞬、彼の背中が霧にさらされる。
女性を守っていた銀色の波紋が、わずかに揺らいだ。
床を這っていた黒い霧が、音もなく鎌のような形へ変わる。
そしてノクスは、その一瞬を見逃さなかった。




