第九話 黒い霧の強襲と、落ちた黒猫の鈴 パート1
第九話 黒い霧の強襲と、落ちた黒猫の鈴
パート1
ことり。
ティーカップがソーサーへ戻され、ささやかな音を立てた。
雨宿りに訪れた女性の表情は、もうすっかり和らいでいる。両手には湯気の立つカモミールティーのカップがあり、小皿には星形のクッキーがひとつだけ残っていた。
足元では三毛猫のニケが丸くなり、満足げに喉を鳴らしている。
(よかった……)
カウンターの奥でグラスを拭きながら、エリアはほっと胸をなで下ろした。
砂漠の聖域から帰還した、その翌日。
疲れの残る体でもグラスをひとつも割らず、客の笑顔を見ることができた。
(私の力は、もう暴れるだけのものじゃない)
エリアは、自分の内にある『破壊の力』を、ようやく少しだけ信じ始めていた。
この力でも、誰かを守れる。
そう思えた、まさにそのときだった。
――ピキッ。
それまでの穏やかな音を断ち切るように、不吉な亀裂音が店内を走った。
「えっ?」
エリアが顔を上げる。
店の象徴である丸窓に、一本の鋭い亀裂が走っていた。
窓を伝う雨粒が、黒い泥のように濁っている。
その向こうでは、銀葉の森が黒い染みへ呑まれ始めていた。緑も銀色の葉も、端から順に塗り潰されていく。
「うそ、でしょ……?」
エリアの声が震えた。
ひび割れた窓の隙間から、真っ黒な霧がぬるりと染み込んでくる。
床へ落ちた霧は、生き物のようにうごめきながら、店内を這い始めた。
ノクス。
誰にも受け止められなかった悲しみの集合体が、安全なはずの猫カフェの結界を食い破っている。
(どうして……よりによって、今なの!?)
混乱が胸の奥へ押し寄せ、エリアはその場に立ち尽くした。
ようやく、この手で誰かを傷つけずに済んだ。
誰かを笑顔にできた。
なのに、何より守りたかった居場所が、今まさに目の前で壊されようとしている。
「きゃあああっ!」
女性が悲鳴を上げた。
黒い霧の一部が細い腕のように伸び、女性の足首へ絡みつこうとする。
ニケが鋭く毛を逆立て、女性の前へ飛び出した。
「下がって!」
鋭い声とともに、レオンがカウンターを飛び越えた。
深い青色のエプロンのポケットから、ひびの入った銀の音叉を抜き放つ。
――チィンッ!
澄んだ音色が店内を走り、『調律』の波紋が幾重にも広がった。
銀色の波紋が透明な壁となり、女性へ迫っていた黒い霧を寸前で押し留める。
だが、霧は消えなかった。
音に触れた部分だけが一瞬薄れ、すぐに周囲の闇を吸い込むように元の濃さへ戻っていく。
「そんな……『調律』が効いていない?」
レオンの表情から、いつもの穏やかさが消えた。
『させぬぞ、ノクス!』
窓辺からルナが跳躍する。
青銀色の光が小さな黒猫の体から弾け、店内を覆う新たな結界へと変わった。
「ルナちゃん!」
「エリア、お客さんを安全な場所へ!」
額に汗をにじませながら、レオンが叫んだ。
音叉の波紋とルナの結界が重なり、黒い霧を入り口側へ押し返していく。
しかし、霧は床や壁に染みつくように広がり、結界の内側から黒い亀裂を刻み始めた。
みしり。
青銀色の結界が、不吉な音を立てて軋む。
(私にも、何か……!)
エリアは、布手袋に包まれた両手をぎゅっと握り締めた。
怖い。
力を誤れば、守りたい店を自分の手で壊してしまう。
砂漠で力を制御できたからといって、今度もうまくいくとは限らない。
それでも――。
エリアは奥歯を噛み締め、震える膝へ拳を当てた。
背後には、怯える女性とニケがいる。
前には、レオンとルナを押し潰そうとする黒い霧がある。
「この場所だけは……絶対に壊させない!」
エリアは猫カフェを背にし、黒い霧の前へ一歩を踏み出した。




