第八話 雨宿りの客と、割れなかったカップ パート3
第八話 雨宿りの客と、割れなかったカップ
パート3
「お待たせいたしました。お冷です」
エリアは女性のテーブルの前に立ち、グラスを両手でゆっくりと差し出した。
布手袋に包まれた指先は、まだかすかに震えている。
女性からにじむ苛立ちと疲労が、目に見えない波となって押し寄せていた。その感情が世界律を濁らせ、呼応するようにエリアの指先で『壊す力』がざわめく。
(大丈夫。大丈夫。私の力は、もう暴れるだけのものじゃない)
砂漠で、ノアを縛っていた巨大な泥の鎖だけを砕き、砂の獣を覆う鎧だけを壊したときの感覚を思い出す。
あのとき、力は確かにエリアの意志に従っていた。
力を押さえつけるのではない。
何を壊し、何を壊さないのかを、自分で選ぶのだ。
エリアは、グラスの底がテーブルへ触れる瞬間まで、じっと手元に意識を集中させた。
そして――。
カツン。
グラスの底が木のテーブルに触れ、ごく当たり前の小さな音を立てた。
グラスは砕けなかった。
ひびひとつ入らず、静かにテーブルの上に立っている。
(……できた!)
たったそれだけのことが、今のエリアには大きな勝利だった。
心の中で「よっしゃ!」と叫び、テーブルの陰でそっと拳を握る。
他人の不安に飲み込まれ、力を暴れさせるだけだったあの頃とは違う。
エリアはもう、自分で壊すものを選べる。
砂漠で誰かを守るために力を使った経験が、今も震える指先を支えていた。
「あの……」
不意に声をかけられ、エリアは顔を上げた。
女性が、不思議そうにこちらを見上げている。
「あなた、手が少し震えているけれど……大丈夫?」
「えっ!」
エリアは慌てて両手を背中へ隠した。
グラスを無事に置けた安堵で、張り詰めていた力が一気に抜けてしまったらしい。
「す、すみません! その、ちょっと緊張しちゃって……。でも、もう大丈夫です!」
顔を真っ赤にしながら、それでもエリアは懸命に笑った。
その飾り気のない姿を見て、女性の強張っていた口元が、ふっとほころぶ。
「ふふ。変な店員さん」
それは、女性がこの店へ来てから初めて見せた、自然な笑顔だった。
足元では、ニケが甘えるようにひと声鳴き、女性のストッキングへすりすりと頭をこすりつけている。
その様子をカウンターの奥から見ていたレオンが、静かに微笑んだ。
特別な魔法などなくても、エリアの不器用で真っすぐな接客は、女性の心を縛っていた糸を少しずつ緩め始めていた。
「お飲み物は、温かいものになさいますか?」
元気を取り戻したエリアが尋ねると、女性は小さく頷いた。
「ええ。……なんだか、とても疲れてしまって。少し甘いものが飲みたいわ」
「かしこまりました! それなら、とっておきの一杯をお持ちしますね!」
エリアは満面の笑みを浮かべて頷くと、弾む足取りでカウンターへ戻っていった。
その背中を見送る女性の表情には、先ほどまでの張り詰めた色はもうなかった。
テーブルの上では、割れなかったグラスが、雨の日の淡い光を受けて静かに輝いていた。




