第八話 雨宿りの客と、割れなかったカップ パート2
第八話 雨宿りの客と、割れなかったカップ
パート2
扉を叩く音のあと、レオンが入り口へ向かう。
扉が開くと同時に、からん、と真鍮のベルが鳴った。
柔らかな音が雨音に交じり、静かな店内へ響いていく。
「いらっしゃいませ。猫カフェ『ルナ』へ」
レオンがいつもの穏やかな声で迎える。
扉の向こうに立っていたのは、雨に打たれ、ずぶ濡れになった若い女性だった。
ベージュのトレンチコートは雨水を吸い、重たげに体へ張りついている。力なく落ちた肩には、隠しきれない疲れがにじんでいた。
「ひどい雨ですね。まずは、こちらで水気を拭いてください」
レオンが温かなタオルをそっと差し出す。
女性は「……どうも」と小さく呟いただけだった。タオルを受け取ると、上の空のまま店の奥へ歩いていく。
一番奥の丸テーブルへたどり着くと、どさりと腰を下ろした。
「ふうっ……」
ひどく重たい溜め息が、口元からこぼれる。
その瞬間だった。
(あ……)
カウンターから水を運ぼうとしていたエリアは、胸の奥がざわつくのを感じて立ち止まった。
女性の周囲から、苛立ちや不安がにじみ出している。
冷たい水面へ雫が落ちたように、目には見えない感情の波紋が、じわじわと店内へ広がっていた。
仕事で失敗したのだろうか。それとも、人間関係に疲れてしまったのだろうか。
女性からこぼれた負の感情が、世界律に小さな濁りを生んでいる。
そのかすかな乱れが、針の先で触れるように、エリアの感覚をちくちくと刺激した。
(初めて接客した、あのお客さんのときと同じだ……)
エリアは無意識に、水の入ったグラスを両手で握り締めた。
あのとき、エリアは他人の心の揺れに引きずられ、自分の『破壊の力』を抑えきれなかった。
手にしていた白いティーカップは、一瞬で粉々になった。
心を乱した客と向き合うことは、他人の感情に引っ張られやすいエリアにとって、何よりも怖いことだった。
グラスを持つ手が、かすかに震え始める。
布手袋越しに触れる冷たいグラスが、今にも指の間で砕けてしまいそうに思えた。
(また壊しちゃったら、どうしよう……。せっかくの静かな朝なのに)
足がすくんだエリアの横を、ぽてぽてと小さな影が通り過ぎた。
三毛猫のニケだった。
ニケは迷うことなく女性の足元へ向かうと、雨に濡れた足首へ、すり、と頭をこすりつけた。
「……え?」
女性が驚いたように目を落とす。
「にゃあ」
ニケは甘えるようにひと声鳴くと、女性の靴へ前足を乗せ、ゴロゴロと喉を鳴らした。
女性の強張っていた表情が、ほんのわずかに緩む。
そのささやかな触れ合いに、店内へ広がっていた感情の波紋も、少しずつ穏やかになっていった。
エリアはゆっくりと息を吸い、静かに吐き出した。
(大丈夫。砂漠では、あれほど大きな影を壊しながら、自分の力を制御できた)
震える指に、そっと力を込める。
(だから今度こそ、このグラスは絶対に割らない)
恐怖が消えたわけではない。
それでもエリアは、無理に作ったものではない、まっすぐな笑顔を浮かべた。
そしてグラスを両手で支えながら、女性のテーブルへ一歩を踏み出した。




