第八話 雨宿りの客と、割れなかったカップ パート1
第八話 雨宿りの客と、割れなかったカップ
パート1
銀葉の森は、朝から冷たい雨に包まれていた。
木々の葉を打つ静かな雨音が、開店前の猫カフェ「ルナ」の店内を心地よく満たしている。
「いたた……っ」
客席のテーブルを拭いていたエリアは、小さくうめいて動きを止めた。
砂漠での任務を終えた翌朝。慣れない過酷な旅のせいで、体のあちこちに軽い筋肉痛が残っている。エリアは布巾を置き、凝り固まった腕をぐるぐると回した。
「大丈夫かい、エリア。無理して急がなくてもいいよ」
カウンターの奥から、ひだまりのように穏やかなレオンの声が届いた。
「大丈夫です! でも、砂漠の砂って、歩くだけでこんなに体力を使うなんて思いませんでした……」
エリアが苦笑すると、レオンは深い青色のエプロンを揺らしながら、湯気の立つグラスを二つ運んできた。
「お疲れさま。特製のハチミツレモンだよ。疲れに効くから、少し休もうか」
「わぁ、ありがとうございます!」
グラスを受け取ると、甘酸っぱく爽やかな香りが鼻をくすぐった。
一口含めば、温かな甘さが筋肉痛の残る体へじんわりと染み渡っていく。
窓辺のクッションでは、黒猫のルナが丸くなり、静かな寝息を立てていた。その隣では、茶トラのマロンが大きなあくびをしている。
昨日のひりつくような戦いが、まるで嘘だったかのように穏やかな朝だった。
エリアはグラスを持ったまま、自分の手のひらへ目を落とした。
布手袋を外した、白く小さな手。
昨日、その手が、ノクスの影に操られた巨大な砂の獣を打ち壊したのだ。
(あんなに大きなものを壊したのに、今日はただのアルバイト店員なんだな)
昨日は死と隣り合わせで、今日はハチミツレモンを飲んでいる。
そのあまりにも大きな隔たりを、エリアは静かに噛み締めた。
「レオンさん」
「ん?」
「私、このお店の朝の時間が、すごく好きです」
レオンは少し驚いたように目を丸くした。それから、いつものように優しく微笑む。
「僕もだよ」
二人が小さく笑い合う。
その声に、ルナは片耳だけをぴくりと動かし、何事もなかったかのように再び眠りへ落ちていった。
世界を救う旅の合間にだけ訪れる、ちっぽけで温かな時間。
それが今のエリアには、何よりも愛おしかった。
――そのとき。
静かな雨音に交じって、店の扉を叩く音が響いた。




