第七話 砂の廃都と、忘れられた祈り パート4
第七話 砂の廃都と、忘れられた祈り
パート4
それはもはや、エリアたちを傷つける獣ではなかった。
かつてこの都で助けを待ち続け、ついには砂に呑まれた人々。
その、誰にも届かなかった祈りの残滓だった。
「もう大丈夫。もう、怖くないよ」
エリアは黒い靄へ向かって、静かに呼びかけた。
小さく深呼吸をし、早鐘を打つ胸を落ち着かせる。
そして今度こそ、両手にはめた布手袋を、ゆっくりと引き抜いた。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、レオンの調律とルナの導きがあれば、この力を誰かを救うために使える。
今は、そう信じてみようと思えた。
エリアは、黒い靄へそっと歩み寄る。
靄の中心には、砂粒ほどの黒い結晶が浮かんでいた。
それは、悲しみをこの地へ縛りつけている、古い呪いの核だった。
エリアは震える指先を、その黒い結晶へ触れさせる。
――ピキッ。
薄氷に細い亀裂が走るような、繊細な音がした。
今度は、すべてを吹き飛ばすような衝撃ではない。
エリアの『破壊』は、悲しみそのものには触れなかった。
ただ、それを縛りつけていた古代の呪いだけを、静かに砕いていく。
黒い結晶に入った亀裂が広がり、淡い光となって消えた。
「あとはお願い、レオンさん」
「うん。……よく頑張ったね、エリア」
エリアの言葉に頷き、レオンが一歩前へ出た。
彼はエプロンから魔法瓶とグラスを取り出し、よく冷やしておいたミントティーを注ぐ。
乾いた廃都の空気に、涼やかなミントと、はちみつの甘い香りがふわりと広がった。
レオンは、ひびの入った銀の音叉を指先で小さく弾く。
――チィン……。
澄み切った音色とミントティーの香りが、砂漠の風へ溶け込んでいった。
レオンの『調律』が、ささくれ立っていた廃都の響きを、一つずつ整えていく。
その穏やかな波が、行き場を失っていた悲しみを優しく包み込んだ。
「もう、ひとりで待たなくていい」
レオンは、黒い靄を見つめながら語りかける。
「君たちの祈りは、ちゃんと僕たちに届いたよ」
その声に応えるように、黒い靄が淡い黄金色の光へ変わった。
一つ。
また一つ。
数えきれないほどの小さな光が、砂漠の空へ昇っていく。
それらは温かな光の帯となり、やがて世界律の中へ静かに還っていった。
砂の上には、もう悲しみの影はない。
残されたのは、確かな輪郭を取り戻した、古びた銀色の欠片だけだった。
『鈴の欠片が、人々の祈りを引き寄せていたのか……?』
ルナが小さく呟く。
その声音には、守護者である彼女にも答えの分からない戸惑いが滲んでいた。
やがてルナの首元で、青い鈴が静かに鳴る。
――ちりん。
銀色の欠片が淡い光に包まれ、砂の中からゆっくりと浮かび上がった。
『これで、一つ目だ』
欠片がルナの前へ収まるのを見届けた途端、エリアは全身から力を抜いた。
「はぁ……」
その場へ、ぺたりと座り込む。
じりじりと照りつける太陽。
乾いた砂の匂い。
初めての聖域での任務は、エリアが想像していた以上に過酷だった。
「さあ、帰ろうか。みんなが待っている」
レオンが優しく手を差し伸べる。
エリアはその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
振り返ると、砂丘の真ん中に、彼らがくぐってきたカフェの木の扉が立っている。
何の支えもない扉は、蜃気楼のように揺らめいていた。
エリアは重い取っ手へ手をかけ、ゆっくりと回す。
――からん。
真鍮のベルが、懐かしい音を立てた。
扉の向こうから流れ込んできたのは、雨上がりの森の涼しい風だった。
その風が、砂と汗にまみれた三人の体を優しく包み込む。
焙煎したコーヒー豆の香り。
懐かしい古木の匂い。
いつもの猫カフェの空気だった。
「……ただいま」
レオンが静かに呟いた、その瞬間。
店内のあちこちで留守番をしていた猫たちが、一斉に顔を上げた。
「にゃあ!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、三毛猫のニケだった。
嬉しそうに喉を鳴らしながら、砂まみれになったエリアの足元へ、何度も体を擦りつける。
「あはは、くすぐったいよ、ニケ」
茶トラのマロンも、遅いぞとでも言うように、レオンの足首へ尻尾を絡ませた。
その後ろから、ほかの猫たちも次々と集まってくる。
あっという間に、エリアとレオンは温かな毛並みと、ゴロゴロという心地よい喉鳴りの海に包まれた。
先ほどまでの張り詰めた戦いが、まるで遠い出来事のように思える。
どれほど過酷な世界へ旅立っても、この扉を開けば、必ず温かな日常が待っている。
「……お疲れさま、二人とも」
カウンターの上へひょいと飛び乗ったルナが、尻尾をゆらりと揺らして目を細めた。
エリアとレオンは顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく、深い安堵の笑みをこぼした。
森の奥の小さな猫カフェからつながる、果てしない世界への旅。
世界の悲しみを癒やす彼らの旅は、まだ最初の一頁をめくったばかりだった。




