第五話 壊す手と、調える音 パート3
第五話 壊す手と、調える音
パート3
ノアを縛り付けていた鎖は、消え去った。
しかし、それを作っていた『ノクス』そのものが消滅したわけではない。
行き場を失った黒い泥水の残滓は、空中で形のない靄となり、親を失った子どものように、悲痛な不協和音を上げて震えていた。
――寂しい。
――痛い。
――苦しい。
ノアの心の傷に共鳴したその「響き」は、このまま放っておけば、再び誰かの心の隙間に入り込み、暴走を始めてしまう。
破壊の力で殻を壊すだけでは、本当の意味では救えない。
「大丈夫。もう、無理に隠れなくていいからね」
レオンは、暴れる黒い靄に向かって、迷うことなく両手を伸ばした。
彼が目を閉じると、足元の古木の床から、ふわりと温かな金色の光の波が広がっていく。
それは、いつも彼が店内でさりげなく行っている『調律』の力。
他者の感情の乱れを読み取り、世界律の響きへ、穏やかに馴染ませる魔法だった。
ただし今回は、一杯の紅茶や灯りの加減といった、ささやかな気配りではない。
レオン自身の魔力を、ノクスのむき出しの悲しみへ直接注ぎ込むのだ。
「レオンさん……っ」
エリアが息を呑んで見守る中、レオンの指先が黒い靄に触れた。
瞬間、レオンの顔がわずかに苦痛に歪む。
他人の痛みを引き受けることは、その絶望や孤独を、自分の心で直接受け止めることに等しい。
普通の人間なら、あっという間に心を壊されてしまうほどの重圧だった。
けれど、レオンは決して手を引かなかった。
レオンの深い青色のエプロンが、かすかな風に揺れた。
彼はただ静かに、泣き叫ぶ影を抱きしめるように、魔力の波を送り続けた。
「君の痛みは、僕が聞くよ。だから、もうひとりで泣かなくていい」
レオンの優しく、けれど芯のある声が響く。
すると、耳をつんざくようだった不協和音が、少しずつ、少しずつ、穏やかな和音へと変わっていった。
どろどろと黒く濁っていた靄は、朝靄のように白く柔らかな光へと変わり、やがて店内の空気の中に静かに溶けて消えていく。
「……すごい」
エリアがぽつりと呟いた。
彼女の『破壊』が固い殻を割り、レオンの『調律』が、その奥にあった痛みを受け止める。
二つの力が合わさることで、初めてノクスの悲しみは世界律へと還っていくのだ。
それは、何百年も一人で戦ってきたルナが、ずっと求めていた「完璧な調和」の形だった。
ピキリ、とひび割れていた窓ガラスが、淡い光に包まれて元の丸く滑らかな形へ戻っていく。
結界が修復され、いつもの猫カフェの空気が戻ってきた。
古木の香りと、ミルクティーの甘い匂い。
「……あ……」
ノアが、へなへなとその場に座り込んだ。
黒い影の恐怖から解放されたと同時に、彼の心を分厚く覆っていた「泣いてはいけない」という氷の壁も、レオンの調律によって、ゆっくりと溶け始めていた。




