第五話 壊す手と、調える音 パート1
第一章 森の奥の猫カフェ
第五話 壊す手と、調える音
パート1
ピシッ、ミシッ……。
不吉な音が、猫カフェ『ルナ』の店内に響き渡った。
古代文明から続く、誰も傷つかないはずの結界が、ノクスの放つ底知れない悲しみに耐えきれず、悲鳴を上げていた。
ノアの足元から這い上がった黒い泥水は、今や太く冷たい鎖のような形へと変わり、ノアの小さな体を床へ縫い付けていた。
顔のない影が、ノアの耳元で何かを囁いている。
――お前はどこにも行けない。
――誰も、お前を助けられない。
「いやだ……っ、ごめんなさい、ぼくのせいで……!」
ノアは恐怖と罪悪感で顔をくしゃくしゃにし、必死に泥の鎖を振りほどこうともがいている。
しかし、ノアが怯えれば怯えるほど、ノクスはそれに共鳴し、鎖はさらに強く体を締め付けていった。
『くっ……! この程度の泥水に、月の結界が押し負けるというのか!』
ルナが鋭い牙を剥き出しにし、全身から銀色の魔力を放ってノクスを抑え込もうとする。
しかし、彼女の小さな体は限界を迎えつつあった。
首元の鈴が、警告するようにけたたましく鳴り続けている。
「ルナちゃん!」
エリアが叫んだ。
彼女の目には、必死に少年を守ろうとする小さな黒猫の背中と、絶望に呑み込まれそうなノアの姿が焼き付いていた。
(どうしよう。どうすればいいの?)
エリアは震える両手を、胸の前で固く握りしめた。
自分の持つ、『触れたものを壊してしまう』力。
それが恐ろしくて、彼女は外出時も接客中も、手袋を欠かさなかった。
素手で何かに触れることも、ずっと避けてきた。
少しでも心が揺れれば、大切なものを一瞬で粉々にしてしまうかもしれない。
――お前の力は壊すだけだ。
――大切なものほど、お前の手で壊れる。
ノクスの影から漂う冷たい空気が、エリアの心の奥底に沈めていた恐怖を、容赦なく抉り出してくる。
一歩踏み出せば、ノアごとすべてを壊してしまうかもしれない。
そう思った瞬間、足が床に縫い付けられたように動かなくなった。
だが、その時。
「……助けて」
ノアのかすれた声が、エリアの耳に届いた。
それは、世界から見放されたような、ひどく小さく、孤独な響きだった。
エリアの脳裏に、つい先ほど、温かいミルクティーを前にして少しだけホッとしたように微笑んだ少年の顔が浮かんだ。
まだ幼い子どもなのだ。
ここで誰かが助けなければ、彼は本当に、自分の悲しみに押し潰されてしまう。
(……嫌だ)
エリアは、ぎゅっと唇を噛み締めた。
自分の力が怖い。
それは変わらない。
けれど、目の前でこの小さな男の子が泣いているのを、ただ見ているだけなのは、もっと嫌だ。
「エリア」
隣に立つレオンが、静かに彼女の名前を呼んだ。
彼の蜂蜜色の瞳は、深く、穏やかな信頼をたたえていた。
『君が願うなら、僕が必ず音を整える』
先ほど、秘密の部屋で彼が言ってくれた言葉が、エリアの胸の奥で温かく響いた。
「……うん」
エリアはひとつ深呼吸をすると、震える指先で、両手にはめていた布手袋の端を掴んだ。




