4.夜の花街
夜の花街は、まるで異世界のように煌びやかだった。
昼間に訪れた際も十分に華やかだったが、今宵の花街はまさに別格。通りの両脇に並ぶ無数の灯籠が柔らかな橙の光を放ち、石畳に揺れる影を落としていた。その光がまるで魔法のように空気を染め、通りを歩く者たちの肌にも艶を与えているかのようだった。漂う甘い香と音楽、笑い声、そして人々の熱気が混じり合い、現実離れした空間を作り出している。
「怪しい人間も多いので、そばを離れないでくださいね」
顔の下半分を布で覆い、すっと近づいたオーウェンが声を潜めてエマにささやいた。夜の喧騒の中でも不思議とその声だけははっきりと耳に届き、エマの胸に小さく緊張が走る。
宴会を抜け出した後、グレル・オーウェン・エマの三人は事前に手配していた馬車に乗り込み、花街へと向かった。車輪の音が規則的に響き、外の夜気がカーテンの隙間から静かに忍び込んでくる。
「お酒は、飲まれていなかったのですね」
ノアを完璧に欺いたふたりの演技力に驚きつつ、エマは遠慮がちに問いかけた。
「いや、飲んでたよ」
オーウェンはあっけらかんと返す。
「あの程度じゃ、飲んだうちに入らないよ。商売人はね、酒に弱くちゃ勝負に負ける。酔ったふりをして相手の本性を引き出すなんて、交渉の基本さ」
横でグレルが笑う。軽妙な口ぶりと、自信に満ちた物腰。その自然なやり取りを見ながら、エマはふたりのあまりに息の合った様子に、まるで血縁ではないかと錯覚すら覚えていた。
「僕は花街じゃ顔が割れてるから、あまり中には入りたくないんだ。案内までしかできないけど、これからの段取りは伝えておくよ」
グレルの表情がやや真剣なものに変わる。
彼の話によれば、花街に頻繁に出入りしている不審人物については、ある程度の目星がついているという。しかし尻尾は掴めておらず、核心に至るにはあと一歩がどうしても足りない。
娼婦たちに注意喚起と情報提供を呼びかけてはいるが、協力してくれる者は限られていた。そもそも彼女たちが体を売るのは、望んでそうしているわけではない。過酷な現実に押し流されるようにして、彼女たちは花街へと辿り着くのだ。
金のため、命のため――危険を承知で、甘い言葉に縋るしかない者もいる。忠告を無視し、そして最終的に「売られてしまう」者が後を絶たないという。
「売り飛ばされる子の安否も心配だけど……このままだと、いずれ王の耳に人身売買の噂が届く。今はまだ水面下の話だけど、遅かれ早かれ、問題になる」
グレルの語尾が、少しだけ重く落ちた。
「しかも、最近では買い取られた娘が国内の貴族にまで売られてるって話もある。関わっているのが誰なのか、まだ掴めてないけどね」
その言葉に、エマは眉をひそめた。花街の存在が、ただの遊び場ではなくなりつつある。
「協力を呼びかけるだけじゃ限界があるからね、潜入調査をしようと考えてるのだけど領民には頼めないし、だから・・・」
言葉を濁したグレルの視線が、自然とエマへと向けられる。その視線には、覚悟と諦めがにじんでいた。
「いやあ、奥様もお綺麗でしたけど、エマ様も大変お美しいですね」
花街の控え室。鮮やかな色合いの衣装に身を包み、化粧を施されたエマを見て、オーウェンが冗談めかして賞賛の声を上げた。
エマはわずかに頬を赤らめながらも、軽く会釈して応じる。
「お褒めいただきありがとうございます。……あの、オーウェン様はなぜそのような格好を?」
先ほどのオーウェンは布で顔の下半分を隠していた。部屋に入り次第その扮装は解いたが、その姿に違和感を覚えたエマが問う。
布の隙間から覗く目は、どこか鋭く冷たさを帯びており、まるで蛇のようだった。
「いやぁ、この街にはね、元・父上の愛人がたくさんいるんだよ。僕の顔が割れると厄介なことになるから」
オーウェンは困ったように頭をかきながら、あっさりととんでもない事情を語る。
以前花街で出会ったデブリンも、アーチーの愛人だった。彼女は自ら花街に流れ着いたのだが、
彼女のように、アーチーの浮気相手はイザベラによって“処分”されたという噂がまことしやかに囁かれていたが、どうやら真実は“追放”だったようだ。
(噂とは、ほんとうに当てにならない……)
そんなことを思った矢先、オーウェンがさらりと追い打ちをかける。
「母上は信徒ですからね。殺生は出来ないのです。けれど、処分場としてこの街は実に都合がいい」
あまりにも平然とした口調だった。
エマは一瞬、オーウェンがこの花街を守ろうとしている理由に疑問を抱いた。
もしかして……イザベラの処分場を確保するため?
「まあ、僕個人としても、ここがなくなると困るんですけどね」
ぽつりと漏らされたその一言に、エマは何も言えなかった。
母のためではなく、自身のため――オーウェンにとって花街とは、何かしら「居場所」に近い意味を持っているのかもしれない。
(……まさか、本当に客だったりして)
そう思ったが、オーウェンの表情からは何ひとつ読み取れなかった。感情の起伏が見えないその横顔に、エマはただ静かに視線を落とした。




