3.欺き
「ようこそいらっしゃいました、お二人共」
淡々とした声でそう言ったのは、グレルの妻・メルリダだった。
感情の起伏をあまり表に出さない整った顔立ちは、どこかエマと通じるものがある。
玄関に現れた彼女は、無駄のない動きで頭を下げると、静かに二人を中へと招き入れる。
その背後では、何もしようとしないグレルに向かって、調理用のフライパンが容赦なく振るわれていた。
「いったぁ……! メルリダ、客の前で……」
「黙って下さい。誰もあなたに期待していません」
短い言葉を投げて、彼女はまた表情ひとつ動かさずに視線をノアとオーウェンに戻す。
「お世話になります」
ノアが深く礼をすると、メルリダは再び静かにうなずいた。
「いやあ奥方様は、グレル様が仰っていた通りお美しい方ですね」
オーウェンが柔らかい笑みを浮かべながら言うと、隣でグレルが自慢げに鼻を鳴らす。
だが、褒め言葉を受けた当の本人は微笑みもせず、「そうですか」とわずかにうなずいただけだった。
オーウェンはその反応に戸惑うことなく、逆に少し興味深げな表情を見せた。
(父とは顔を合わせていたが、母とは初対面らしいな)
エマはそのやりとりを見ながら、オーウェンが接触を持っていたのはやはりグレルのみであると察する。
「夫が何かとご迷惑をおかけしているようですね。領地のご案内は、息子が代わりにさせていただきますので」
感情を感じさせない口調ではあったが、言葉の選び方にはきちんと礼儀があった。
それが彼女なりの“歓迎”の仕方なのだろう。
彼女が視察の本当の目的まで理解しているかは定かではない。
だが少なくとも、表向きの視察対応として、必要な体制を整えていることは伝わってくる。
滞在期間は限られており、エマは屋敷に残され、ノアとオーウェンが視察に出ることが決まっていた。
オーウェンも多忙で長居はできず、ノアも王の元をそう長く離れるわけにはいかない。
「困ったね。皇帝の方からも視察が来てしまうなんて」
屋敷を出た二人を見送った後、グレルがぽつりとつぶやいた。
「追い返すこともできませんからね。どうにか穏便に済ませましょう」
メルリダは淡々と答えながら、夕食の下ごしらえを始める。
その動きには一切の無駄がなく、まるで感情すら排除した機械のような正確さだった。
「そうだねぇ、もし相手が普通の役人だったら、薬でも持ったところだけど……ノア・ロックウェルはそう簡単な相手じゃない」
グレルが冗談とも本気ともつかぬ口調でつぶやく。
「ご存知なのですか?」
「彼は有名だからね。王に忠誠を尽くす騎士で、前の戦争ではかなりの戦果を挙げたって話だよ」
グレルは椅子に深くもたれかかりながら、ぽつりと続けた。
「……最近、婚約破棄をしたらしいね。相手は確か、マリアーノ家のお嬢さんだったとか」
語る口調はあくまで軽やかで、世間話をするような雰囲気だったが、明らかにオーウェンとの関係を意識しての発言だった。
情報の精度は高く、ただの噂話では済まされない深さがある。
にもかかわらず、そこに特別な感情は見えなかった。敵意も、警戒心もない。
ただ、知っておくべき情報として自然と頭に入っている――そんな風に、ごく当然のように語っている。
まるで情報を扱うことが、彼の日常の一部であるかのように。
「彼をどこまで欺けるかは分かりませんが……やれるだけ、やってみましょう」
そう言ってメルリダは包丁を研ぎ直しながら、グレルに一瞥をくれる。
その瞳はまるで氷のように澄み、冷たく、それでいて揺るぎない意志が宿っていた。
視察を終えたノアとオーウェンを出迎えるように、カールソン家ではささやかな歓迎会が催された。
用意された料理は、全てカールソン領で収穫された新鮮な食材を使ったもので、メルリダが直々に腕を振るった品々が並ぶ。見た目も鮮やかで香り豊かで、来訪者の舌を喜ばせるのに十分な出来栄えだった。
さらに、エマとグレルが張り切って取り寄せた酒が加わり、宴席の賑やかさに一層拍車をかけていた。
「いやあ、カールソン領は食事も酒もうまいですね」
オーウェンは満足そうに杯をあおり、口元には自然と笑みが浮かぶ。その顔は緊張感を忘れた、どこか子どものような表情さえ見せていた。
「オーウェン様は飲みっぷりがいいですねぇ。あ、これは妻の得意料理でして!」
隣ではグレルが同じように酒をあおりながら、いかにメルリダの料理が絶品であるかを自慢気に語っていた。酔いもあってか、その声はどんどん大きくなり、いつしか場の笑いを誘う。
村の者たちも集まり、和やかで温かな宴席。笑い声と食器の音が交差し、宴は順調に進んでいた。
「このお料理、すごく美味しいですよ。私の手作りなんです」
「あの……こっちのも、私が作ったのです。ぜひ食べてください!」
一方、ノアの周囲では村の娘たちがさりげなく自分の作った料理をアピールしていた。ノアは困ったように微笑みながらも、決して誰の皿も否定せず、丁寧に口をつける姿勢を崩さなかった。
「確かに、どれも素晴らしく美味しいですね」
「ほ、ほんとに?嬉しいっ!」
「ねえ、騎士様、どれが一番気に入りました?」
ノアの穏やかな態度に惹かれてか、女たちの輪はじわじわと広がっていく。そしてその中に、なぜか紛れ込んでいるのがエマの兄弟たちだった。
「お前たち、何してるの……」
エマが眉をひそめる中、彼らはちゃっかりと女の子たちの隣に陣取って、ノアと一緒に“騎士様効果”を堪能しているらしい。そこだけ異様に密度の濃い空間が出来上がっていた。
「こら、あなた!飲みすぎですってば! オーウェン様もそろそろお部屋に戻られてはいかがですか?」
酔いのせいでろれつの回らなくなったオーウェンとグレルに、ミランダが苦笑しながら声をかける。
「ふぅ……この様子じゃお開きにしたほうが良さそうね。二人とも部屋へ運びましょう」
ミランダの一言で村の若者たちが動き出し、ふらふらのグレルとオーウェンを抱えるようにして立たせる。指示を受けたエマは、オーウェンの部屋がある離れへと案内する役を引き受けた。
その様子を見て、ノアがゆっくりと席を立とうとする――が、
「お、お兄さん、ちょっと!この後、一緒にお話しませんか?」
「ノアさん、もう一杯いかがですか~?」
エマの兄弟たちと村娘に囲まれ、まさかの引き留めを受ける羽目に。
普段のノアであれば、軽く振り切って追いかけていたかもしれない。だが、ふらつきながら運ばれるオーウェンの様子を見て、すぐに警戒すべき状況ではないと判断したのだろう。
一度だけ目を細めてそちらを見やると、ノアはその場に留まることを選んだ。体をくるりと戻し、差し出された杯を丁寧に受け取る。
その行動に、誰もが安心したように笑みを浮かべた。




