2.再び帰郷
花街を人質に脅され、利益をよこせとでも言われるかと思ったのだが、オーウェンの様子を見る限り、どうやらその意図はないようだった。
むしろ彼は、花街の存在そのものを秘匿したままでいようとしているように見える。あの嫌味な笑みを浮かべながらも、一言も「公表する」などとは口にしていない。
それどころか——イザベラでさえも、花街の存在を黙認しているという。少なくとも花街の存在がマリアーノ家にとって都合の悪いものではないことは確かだ。
おそらく、今回の視察をあっさりと認め、しかもその理由を問うことすらしなかったオリビアも、すでに全てを把握した上で動いているのだろう。
だが一つだけ確信できるのは——
花街で起きている人身売買という忌まわしき出来事は、マリアーノ家にとっても思わしくない状況の様だ。
カールソン領までは、王都から馬車で丸一日かかる。
王家の資金は潤沢であり、視察という名目で同行する者たちにはそれぞれ専用の馬車が支給された。エマはゆったりとした内装の馬車の中で脚を伸ばして座ることができた。広々とした座席に沈みながら、揺れの少ない王家仕様の馬車の快適さに、思わず深いため息を漏らす。
だが、その安堵もつかの間、馬車の外を流れる風景とは裏腹に、胸の奥に引っかかる棘のような不安が消えなかった。
「まさか、彼まで来るとはな……」
エマは思わず独り言のように呟いた。
オーウェンが乗る馬車とは別に、もう一台、王直属の騎士であるノアが乗った馬車が列を成している。
今回の視察に際し、リアム王が特別にノアを派遣したと聞いた時、エマとオーウェンは顔を見合わせ、ほとんど同時に渋い顔をした。
正直、ノアの同行はオーウェンにとってもエマにとっても予想外であり、しかも極めて厄介な出来事だった。
花街の存在——そしてそこで起きている違法な取引を、王に忠誠を誓う王専属騎士に知られるわけにはいかない。花街に関わるすべては、王の方針にも、理想とする統治にも真っ向から反するものなのだ。
表では誰よりも真面目で、規律と忠誠を重んじる男。それがノアという存在である。
(どうにか……どうにかして彼にだけは知られず、視察を終えなければならない)
エマは窓越しに見える馬車の列の最後尾、ノアの乗る車両の存在を確認しながら、頭の中でいくつもの対応策を巡らせていた。
カールソン領は、いつもながらの賑わいを見せていた。今はちょうど秋の収穫期。黄金色に実った麦畑と、土の香りが漂う畝に腰を下ろした村人たちは、皆一様に額に汗を光らせながらも、手際よく働いている。鍬の音と子どもたちの笑い声が、豊穣の季節の訪れを喜ぶように大地に響いていた。
そんな中、エマの姿を見つけた村人たちは、まるで家族に再会したかのように次々と明るい声で挨拶を投げかけた。
恐らくグレルからエマの帰郷と都からの使者については聞いていたのだろう。
領民達はオーウェンとノアの存在に対し言及する事なく、礼儀正しく首を垂れる。女性達は凛とした雰囲気で馬を引くノアの姿に気づくや、いっせいに頬を染め、視線を交わし合って小さなざわめきが起こしていた。
「いやぁ、まさかノア君も一緒だなんて。やっぱり君はどこに行っても女性の心を奪うんだな」
領民の様子を眺めながら、口元に笑みを浮かべて軽口を叩くオーウェン。その声にはどこか意地悪な調子が含まれているが、真意は読めない。
それに対してノアは何も言わず、ただ薄く笑みを浮かべて返しただけだった。その静かな笑顔の裏に何があるのか、オーウェンでさえ推し量れなかった。
今回の視察におけるノアの同行理由は、表向きはエマとオーウェン両名の護衛。しかし、王都から離れたこの土地に王専属騎士を送るなど、リアムが今回の件を極めて重要視している証でもある。
実り豊かな畑の間を進んでいると、突然道の向こうから、ひときわ目立つ狐顔の男が土煙をあげて走ってきた。
「えまたぁぁぁん!!」
両腕を広げ、満面の笑みを浮かべて駆けてくる姿は、誰が見てもグレルその人。豪快な勢いでエマに飛びつかんと突進してくる――が。
「お久しぶりです。お父様」
エマはひらりとその場で身を翻し、見事に回避。勢い余ったグレルは、地面に膝から滑り込むようにスライディングし、顔面を土にめり込ませることとなった。
「うう、エマタン……会えて嬉しいよぉ……!」
地面に顔をこすりつけたまま、それでも喜びの声を漏らす父に、エマは呆れたようにため息をつく。
「お久しぶりです、グレル様」
その様子を面白がるように笑みを浮かべながら、オーウェンが近づいてきた。顔を地に埋めたままのグレルに対して、やけに丁寧に声をかける。
「ああ、久しぶりですね……オーウェン様。すみません、できれば……起こしていただけますか?」
ぬかるんだ地面の上で、もぞもぞと動くグレルが助けを求める。
「もちろん」
オーウェンはそう言うと、一歩引いて、無言のままノアの方を見やった。
「お手をどうぞ」
ノアは無言で近づき、無駄のない動作で手を差し伸べる。その仕草はまるで、落ちた剣を拾うように淡々としていた。
「ああ、有難い。……おや?どこかで見たような……」
ノアの手を借りて立ち上がったグレルは、しげしげと彼の顔を見つめる。おそらく、デイジーの婚約者としてのノアの記憶が曖昧なのだろう。後方で控えていた存在として、印象が薄かったのかもしれない。
「オーウェン様とお知り合いなのですか?」
ノアのことはともかく、父がオーウェンの名を知っていたことにエマは驚きの視線を向けた。
「ああ、彼はカールソン領の作物流通を手伝ってくれていてね。かなり前からの付き合いさ。それよりさあ、早く家に帰ろう!メルリダが待ってるんだ!」
客人であるオーウェンやノアをほとんど気に留めることなく、グレルは娘であるエマを中心に動き出した。
「さあさあ、エマタン、こっちこっち!馬車なんかじゃなくて、歩いた方が景色も空気もいいからね!」
意気揚々と先導するグレルに、エマは半ば呆れながらも足を進める。オーウェンとノアは顔を見合わせ、無言で後に続いた。
家に着くまでの道のり、グレルは終始ひとりで喋り続けていた。
「エマタンがいない間、寂しくて寂しくて、僕は何度メルリダに泣きついたか……ああ、でもね、あの人、最近ますます綺麗になってるんだよ。どうしよう?本当に惚れ直しちゃうよね。ふふふ、恋ってやつかな?」
「……はいはい」
エマは淡々と相槌を打ちながら、父の話を右から左へ受け流していた。道中、畑の様子や村人たちの表情に目を向けたかったのに、父の私情ばかりが耳に入り、肝心の領地の状況は何ひとつ伝わってこない。
「それでね、メルリダが作るアップルパイがまた絶品で!あれはもはや国宝レベルだよ。今度王宮にも持っていってあげようか?あっ、でもあれは僕だけの特別かも……悩ましいなあ……」
「……お母様の話は後で伺います」
そう言って早足になるエマの後ろで、グレルは「え〜っ」と情けない声をあげるが、その歩みを止めることはなかった。




