1.視察
王から側室解放の命が下され、集められていた令嬢たちはそれぞれの領地へと戻っていった。
もちろん、ただ帰されたわけではない。王族の人脈を活用して、それぞれに釣り合った婚約者があてがわれたため、領主たちからの反感も少なく、むしろ歓迎されたほどだった。
そして、王妃オリビアから「信頼に値する者」として認められた令嬢たちは、引き続き王城に身を置き、必要に応じて社交界や地方領地へと赴くなど、王妃の手足として活動を続けていた。
その中には、エマの旧友であるエミリアやアイラの姿もあり、エマにとっては、劇的に何かが変わったという感覚はあまりなかった。ただ、穏やかに日々が流れている──そんな感覚だった。
側室としてあてがわれていた部屋を出て、今では王妃の側近として、新たに与えられた部屋に身を落ち着けている。
以前の部屋とは比べものにならないほど広く、どこを見ても上品で贅沢な造りだ。寝室はもちろん、専用のバスルーム、広々としたクローゼット、さらにはプライベートなティールームまで備えられている。
そんな完璧な空間のティールームに、獲物を見定める猛禽類のような鋭い目をした紳士が、平然と座っていた。
「いやあ、さすが王妃の側近ともなると、素晴らしいお部屋に通されるのですね」
品の良い所作で紅茶を啜る男──オーウェン・マリアーノ。洗練された外見と、隙のない振る舞い。だが、その笑顔の裏に何を秘めているか分からない、どこか得体の知れない空気をまとっていた。
「お褒めに預かり光栄です、オーウェン様」
エマもまた、完璧な礼儀で応じる。だがその内心は決して穏やかではなかった。
この男と直接顔を合わせるのは、オリビア妃主催の舞踏会以来だ。オリビアからは婚約候補として名前が上がっているとは聞いていたが、エマにとってはそれよりもずっと気になることがあった。
──花街の存在。エマの実家、カールソン領の中にある秘密の一角。一般には公開されていないその場所の存在を、王族である彼が知っているという事実は、あまりにも危うい。
(あの街の存在を、リアム王に知られるわけにはいかない)
売春を禁じた現国王リアムは、女性を物のように扱っていた父王に強い憤りを抱いていた。だからこそ、王の政策では女性の尊厳を守ることが最優先されている。しかし現実には、生活に困窮した女性たちが体を売らなければ生きられない場面もある。
とくに、離縁され、頼れる家族もいない女性たちにとって、花街は最後の砦なのだ。貴族社会の裏で、女性一人で生き抜くことの難しさが、静かに存在し続けていた。
「しかし意外ですね。あの王が、側室を手放すとは……男というのは美しいものに囲まれるのが好きな生き物だと思っていたのですが」
オーウェンの言葉には、軽口とは思えぬ探るような意図が見え隠れしていた。
「……それで、本日はどのようなご用件でしょうか」
あえて真正面から問いかける。まどろっこしいやり取りは性に合わない。
オーウェンは言葉を止めると、ふっと口元を歪めた。先ほどまでの模範的な笑顔が、どこか挑発的な色を帯びる。
「いやぁ、カールソン嬢はやはり話が早い。これは気が合いそうですね」
そう言ってから、紅茶のカップを静かに置いた。
「今日来たのはですね──花街にまつわる、ある“噂”をお耳に入れておいた方がいいと思いまして」
「噂……ですか?」
エマの警戒心が、静かに高まる。
「ええ。花街は本来、男どもに一時の夢を見せるための場所。しかし最近、その夢を“持ち帰ろう”とする者が出てきているそうですよ」
オーウェンの話によれば、花街で働く娼婦たちの数が、ここ最近になって急激に減り始めているという。
彼女たちの元を訪れた男たちは、高額の金をちらつかせ、その金と引き換えに、女たちの身柄を“買い取って”いるという。つまり、
「人身売買ですか」
「そういうこと。花街は王も認知していない、ある意味無法地帯だからね。やりたい放題ってわけさ」
「そんなことを、父からは何も聞いてませんが」
強かな笑みを浮かべる狐顔が脳裏をよぎる。
「最近になって表沙汰になったようでね。それに王城に花街に関する手紙なんて出せないでしょう」
オーウェンがどこまで真実を語っているのか、判断がつかない。だが、少なくとも花街に深く関与していることだけは確かだ。
「……それで?」
エマが問い返すと、オーウェンはまた、先ほどのような笑みを浮かべながら、すっと顔を近づけた。
「母上の命で僕が視察に行くことになりまして、貴方にも同行して頂きたいのです」
その言葉に、エマの胸に、静かに、しかし確実に不穏な空気が流れ込んだ。
「オーウェン様の動向ですか?」
リアム王の執務室にて、ノアが静かに問いかけた。窓から差し込む陽の光が、重厚な机の上に広がる書類に陰影を落としている。
リアムはペンを置き、机に肘をついて少し身を乗り出した。
「ああ。最近、奴の動きに妙な点が多いと報告を受けている」
その声には確かな警戒心がにじんでいた。
「今までは商売一筋、貴族社会にも社交界にも興味を示さなかった男が、ここ数ヶ月で頻繁に顔を出すようになった。前回のオリビアの舞踏会にも姿を見せていただろう?」
リアムはマリアーノ家を快く思っていない。特にオーウェンのように、一見柔らかく見えるが中身の読めない男には強い不信感を抱いていた。
「確かに……いらっしゃいましたね」
ノアの表情が一瞬険しくなる。舞踏会の裏で、エマに詰め寄っていたオーウェンの姿が脳裏をよぎった。あの不躾な態度は、いかに王族であっても看過できるものではなかった。
「どうやら、一部の貴族に対し探りを入れているようなのだが……その目的がまだ見えてこない」
リアムは机の上に置かれた報告書を指で叩いた。情報網がどれほど優れていても、イザベラの息子である以上、容易に核心を見せるような真似はしない。
「だが、奴が次に接近する相手は分かった」
「どなたでしょうか」
ノアの問いに、リアムは目を細めて言った。
「カールソン家だ。奴はカールソン嬢と共に、領地への“視察”を希望し、しかもそれにオリビアから許可を取ってきたらしい」
「カールソン家、ですか」
リアムの口から出たその名に、ノアは反射的に紫色の髪と無表情な少女の顔を思い浮かべた。
どこか他人と壁を作るような、けれどときおり垣間見える芯の強さ。そんな彼女の姿が、脳裏に色濃くよぎる。
確かにオーウェンは、貴族でありながらも商才に長けた男だ。
だが、彼がこれまで取引してきた相手は、どれも王都に拠点を置く大規模商家や名の通った領地ばかり。
今さら、さほど目立った収益を出しているとは思えないカールソン領に目をつけたというのは、どうにも腑に落ちない。
「ノア、お前もその視察に同行しろ。オーウェンの本当の狙いを暴いてこい」
リアムの命に、ノアは静かに一礼した。
「……はい」
簡潔な返事の裏に、彼の決意がにじんでいた。
王の元から自身を手放してまで赴かせるというのは、それだけこの件をリアムが重く見ている証拠でもある。
(彼女はどこまでを把握しているのだろうか……)
オリビアの側近となったとはいえ、イザベラの血を引くオーウェンと行動を共にすることに、王としての不信感は強いはずだ。
ましてや、カールソン領がマリアーノ家の思惑に加担している可能性すらあるのならば、なおさらだ。
もし本当に彼女の故郷が敵の側についたならば、その報いは避けられない。
複雑な思いを抱えながら、カールソン領へと向かうのだった。




