20.婚約者候補
招かれたのは、王宮の奥深くに位置する温室。
手入れの行き届いた花々が咲き誇り、柔らかな陽光がガラス越しに差し込む、まるで別世界のような場所だった。
テーブルの上には上品な茶器と、香り高いハーブティー。
しかし、そこに座る王妃――オリビアの微笑みは、花々よりも一層の輝きを放っていた。
「貴方が言う通り、社交界に私が顔を出す事で貴族達とのつながりが出来ました。改めて、お礼を言わせてください」
オリビアはその美しい微笑みをたたえながら、丁寧に頭を下げる。
「いえ、私は何も。オリビア様ご自身のお人柄が皆を惹きつけたのです」
エマは控えめに返しながらも、真実を込めた言葉を口にした。
温室の中には、オリビアとエマ、そして控えに立つノアの三人だけ。
(彼がいるという事は、先日持ち掛けられた"あの話"の続きではないようだ)
エマは密かに胸を撫で下ろした。
王の暴走を陰から抑えるという重大な役割。その返事をまだ返していない自分に対し、今日ここで結論を迫られるのではないかと警戒していたのだ。
「今回の貴族との繋がりを見た王は、側室を解放するそうよ」
オリビアの言葉に、エマの表情がわずかに動く。
側室とは名ばかりの、貴族令嬢たちを集めた"飾り"のような存在。
その本当の役割は、オリビアに味方する勢力を作るための駒であったことを、エマは理解している。
「さようでございますか」
淡々と返しながらも、その胸中では自らの今後について考えを巡らせていた。
令嬢たちが解放されれば、自身もまたカールソン領へと戻るのだろう。
だが、オリビアが提示した条件――王妃の庇護下で国政に関わる役割――それを受ければ、領地を守ることができる。
だがその代償として、王の暴走を抑える"盾"になる事を、未だに迷っている自分がいる。
「貴方には、私の元にいてほしいの」
オリビアの声音が、そっと心に触れる。
「貴方は聡明で、今何をすべきか冷静に判断し、実行できる。そんな人が傍にいてくれることが、私にとってどれほどの支えになるか……」
「それは……」
エマは言葉を詰まらせた。
ノアが控えるこの場で、王の抑制という話を続けるわけにもいかず、思考がまとまらない。
「王妃に仕えるのは、大変な責任を伴うことだとは理解しています」
オリビアは静かに続けた。
「けれど、貴方の行動は、必ず貴方の領地にも恩恵をもたらすわ。そして、私は約束します。決して貴方を危険な目には遭わせません」
優しい眼差しで、オリビアはそっとエマの手の上に自身の手を重ねる。
その温もりが、胸に染み渡る。
(この方は……本当に優しい)
本音を言えば――
オリビアはエマに、王の暴走を共に抑える盾となって欲しいのだろう。
無謀な改革を推し進めるリアムの行動を、時に冷静に、時に強かに軌道修正する役目を。
それはこれまでもイザベラが担ってきたものだし、オリビア自身も覚悟している。
だが、オリビアはあくまで優しさを選んだ。
「共に戦ってほしい」
そう押し付けることはしない。
王の側室という立場を名目に王城へと残っていたエマが、側室の開放によって領地へ戻される――その流れを避けるため、あえて「庇護下に置く」という名目を掲げたのだ。
権力を振りかざすことなく、あくまで個人として手を差し伸べる。
もしこれがイザベラであれば、既に力でねじ伏せ、強制的に協力を強いたのだろう。
しかし、オリビアは違った。
平民出身の彼女は、貴族のように強権を振るうことなく、ただ誠意をもって人と向き合う。
その優しさこそが、オリビアを特別な存在にしているのだ。
「私でよろしければ……」
オリビアの望む条件を飲まずに庇護下に置かれる事に心苦しさを感じながらも返答する。
まるで一輪の花が静かに咲き誇るように、美しく、穏やかにオリビアは、柔らかく微笑んだ。
「そしたら、こちらの話も進めないとね」
オリビアは穏やかに笑いながらも、しっかりと次の話題へと舵を切る。
「ノア、先程の書類を持ってきてもらえるかしら?」
「はい」
ノアは静かに一礼し、用意していた分厚い書類の束を手に取ると、無駄な動き一つなくオリビアへと差し出した。
「こちらを見て欲しいの」
促されるままエマは書類を受け取り、ページを開く。
その中には、若々しく整った顔立ちの男性達の肖像画が整然と並んでいた。
(仕事の資料……? けれど、これは……)
「マクレーン・アルベルト様は農地改革を掲げている貴族のご子息。カールソン領と協力関係を結べば、食糧事情の改善が期待できるわ」
オリビアは楽しげに、一枚一枚を丁寧にめくりながら説明を続ける。
「ジョンストン・グラハム様は貴族ではないけれど、若くして商家を継ぎ、今では世界中に販路を持つ有力な方。この人脈は必ず貴方の助けになるわ」
微笑みながら続けるオリビアの声はどこまでも柔らかい。
「そしてこの方は……イザベラ様からの推薦よ。オーウェン様、王族の血を引きながらも商売に強い興味をお持ちで、個人でいくつもの事業を手掛けていらっしゃるそうよ」
その横顔は、まるで良縁を願う母親のように優しかった。
「……あ、あの、これはいったい?」
流石に困惑したエマは、オリビアの手を止め、戸惑いを隠せずに問いかける。
「えっと、これはね……エマさんの婚約者候補よ」
あくまで自然に、悪びれもせずに告げるその言葉に、エマは一瞬耳を疑った。
「へ?」
間の抜けた声が自分の口からこぼれる。
「だって、側室ではなくなったのだから、きちんとした婚約者が必要になるでしょう?」
オリビアは淡々と続ける。
「王の側室であった事実は簡単には消えないわ。だからこそ、相手側も慎重になるでしょうし、貴方の名誉を守るためにも私の人脈を使って信頼できる相手を——」
「マクレーン様は、農作元を安価で市場に流す運動を推進しており、そのため農家の皆様からはあまり良く思われていないようです」
低く抑えられた静かな声が、エマの背後から不意に響く。
驚いて振り返れば、いつの間にかノアがすぐ後ろに立っていた。彼は手元の書類を器用にめくりながら、涼しい顔で言葉を続ける。
「ジョンストン様はお父上から家業を継がれたばかりですが、販路の多くはご父君の代からのもの。ご本人は商売よりも書斎で過ごすことを好まれているようです。そして……オーウェン様。彼はイザベラ様のご子息。リアム様とは幼少の頃からそりが合わず、今もあまり良い関係とは言えないとか」
急な割り込みに、オリビアは一瞬言葉を失う。
優雅に進めていた婚約者候補の紹介が、冷や水をかけられたように一変した空気に、エマも思わず息を飲んだ。
しかしノアはまったく悪びれた様子もなく、自身の意見を述べ終えると、静かにオリビアへと視線を向けてにこりと微笑んだ。
その微笑には、嫌味でも反抗でもなく、ただ事実を伝える騎士としての忠義と誠実さが滲んでいた。
「そ、そうね……」
わずかに引きつった表情を浮かべながらも、オリビアはすぐに態度を立て直す。
「もう少し、しっかりと選考してから、改めてご提案させていただくわね」
そう答えると、ノアはエマの手元からそっと書類を受け取り、丁寧にそれらをまとめる。
そして、先ほどまで何事もなかったかのように、静かにオリビアの背後へと戻っていった。
会話の流れを断ち切り、空気を変えたにもかかわらず、ノアの存在はすぐにその場に馴染んでいく。
残された二人は互いに苦笑いを浮かべ、ただただ気まずい空気だけが温室に流れていった。




