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18.容姿だけ

隣に座るノアは、馬車の窓から流れる景色にじっと視線を向けたまま、エマの方を一切見ようとしなかった。


その横顔には感情の色が薄く、まるで仮面のように整っていたが、目元のわずかな陰りが、彼の疲労と緊張を物語っているようにも見えた。


エマもまた、疲労がたまり心身が重く、とくに会話を交わす気にもならず、沈黙のまま馬車は静かに進んでいた。


しかし、しばらくするとノアが低く、静かな声でぽつりと口を開いた。


「門番は、新人が配置されていたようです。騎士の制服を纏った者たちの真贋を見抜けなかったのも、無理はありません」


その声には悔しさと、自身への責任を感じている響きがあった。


「当日は、ベテランの門番もいたのですが……アーチーが裏で手を回して騒ぎを起こし、門を一時的に新人だけにさせたようです」


「策略とはいえ、不審者を城内に入れた責任は私たち騎士のものです。…申し訳ありませんでした」


そう言ってノアは、深く頭を下げた。


王直属の騎士が、深く頭を下げる姿を目の前にエマも恐縮する。


「い、いえ、ノア様が頭を下げることではありません」


その時、ノアのまなざしがふいに彼女の顔に向けられた。彼の視線が頬に注がれ、すぐに小さな驚きと憂いがその表情に浮かぶ。


「……頬を打たれたのですか?」


エマの左頬がうっすらと赤くなっているのに気づいたのだ。アーチーに殴られた痕だった。


「大したことではありません」


エマは事もなげにそう言った。荒くれ者に囲まれた領地で育った彼女にとっては、貴族の気まぐれな平手打ちなど取るに足らない。


だが、ノアの顔は急に険しくなった。まるで、ひとごとでは済まされないような痛みを感じているかのように。


「大問題です。貴方は……女性なのですよ?」


ノアの声は低く、どこか切実だった。


眉をわずかに下げたその表情は、怒りというよりも、深く思いやる気持ちが滲んでいるようだった。


ノアはそっと手を伸ばし、エマの頬に触れた。


指先は冷たかったが、触れ方は驚くほど優しかった。


「……すみません。あとで治療してもらいましょう」


短くそう言ってノアはすぐに手を引き、再び窓の外へ視線を向けた。


ノアの横顔を見つめながら、エマの心にふと小さな心の違和感がを感じる。


(……なんだろう、疲労のせいか?)


――自分を案じて駆けつけてくれた騎士。身分の低い令嬢である自分に頭を下げ、傷ついたことを心から悲しんでくれる、心優しい青年。――


それはエマが今まで抱いた事も触れた事もない不思議な感情・・・


エマはゆっくりノアの肩に自身の体を預ける。


「っ……」


ノアが息を呑んだのが分かる。突然の接触に驚いたのだろう。だが、彼は体を硬くしたまま、拒絶することもなく、そのまま受け止めてくれた。


馬車の中に広がる、ほのかに揺れる沈黙。規則正しく響く車輪の音と、わずかに感じるノアの体温が伝わってくる。


華奢ながらも確かな強さを感じさせる体にそっと身を預け、エマは静かにまぶたを閉じた。





アーチーとデイジーが王城へ連行されてから一週間後、ついにイザベラが王城に姿を現した。


その日、証人として呼び出されたエマは、広間の重々しい空気に肩を強張らせながらも静かに席に着いた。イザベラの汚点を暴き失脚させようと意気込むリアムの狙いは明白だったが、それを見透かすかのように、イザベラは悠然とした足取りで現れた。


「久しぶりだな、リアム王」


その声は上品さを装いながらも、底知れぬ冷たさを纏っていた。


「ああ、暫く顔を合わせる機会がなかったからな」


リアムは努めて平静を装ったが、その声には棘が滲む。互いに交わす言葉は丁寧ながらも、心の内では剣を突き付け合っているようだった。


イザベラは変わらぬ優雅な微笑を浮かべながらも、蛇のように鋭い瞳で一同を見回した。


「私の家族たちが迷惑をお掛けしたようで、申し訳ない」


その言葉の端々から、本心が感じられない。イザベラの余裕ぶりにリアムは不快そうに眉をひそめる。


隣席のオリビアが、リアムの手にそっと自分の手を重ねる。彼女の小さな仕草が、苛立ちに火をつける寸前だった王を僅かに落ち着かせた。


「それで?私の愛しい人たちはどこに?」


イザベラはわざとらしく辺りを見渡し、やがてその視線はエマに止まる。鋭いまなざしに、エマの背筋が冷たくなる。


「ノア」


リアムの低い一声で、ノアが無言のまま騎士たちに合図を送り、アーチーとデイジーが連行されてきた。


アーチーの顔は無残に腫れ上がり、かつての甘い面影は見る影もない。一方、デイジーは影のように俯き、まるでその場に存在していないかのように沈んでいた。


「イザベラ! やっと来てくれたんだね!」


アーチーは懸命に声を上げ、イザベラのもとへ駆け寄ろうとするが、騎士たちに阻まれる。それでも彼は諦めず、哀れに尻尾を振る。


「イザベラ! 君がいないと僕は駄目なんだ。家に帰ろう。君の好きな紅茶を入れてあげるから、ね?」


かつてオリビアに執着していた男とは思えぬほど、アーチーはイザベラに縋りついていた。


一方、デイジーはただじっと俯き、父の声にも反応しない。彼女の華奢な体はさらに痩せ細り、エマは胸が締め付けられるのを感じた。


「……ね、イザベラ、早くリアム王にお願いして。僕を家に帰してって」


アーチーの懇願にも、イザベラは沈黙を守る。その様子に、誰もが違和感を覚えた。これまでなら、イザベラはどんな手段を使ってでも家族を守り抜いてきたはずだ。


リアムが静かに宣告する。


「彼らの身柄はこちらで拘束させてもらう。貴女との交渉次第で、処遇を決めよう」


しかし、その言葉をイザベラの冷たい声が遮った。


「いや、必要ない」


会場が静まり返る。


(まさか、交渉すらしないつもりか)


リアムが苛立ちを隠さず、鋭く問う。


「必要ないとはどういう意味だ」


だが、イザベラは涼しげな顔でふっとため息をつき、アーチーに視線を向けた。


「醜い」


指さされたアーチーは呆然とした。


「え……イザベラ、今なんて?」


イザベラから否定的な言葉を向けられることなど一度もなかったアーチーは、まるで信じられないといった表情を浮かべる。


「醜いな。見るに堪えない」


その言葉に、アーチーの顔から血の気が引く。


「ぼ、僕がこうなったのは、あの騎士のせいだ! そいつが僕の顔を……!」


必死にノアを指さし糾弾するが、ノアの冷ややかな視線に晒され、アーチーは口をつぐむ。


(ああ、アーチー様の唯一の価値が……)


イザベラの冷淡な態度を見て、エマは驚くと同時に、妙な納得感を覚えた。顔という唯一無二の価値を失った瞬間、イザベラの心も音を立てて崩れたのだろう。


「……この男のことは、もはやどうでもいい。問題は娘」


リアムはデイジーを指し、交渉を続けようとする。


デイジーは虚ろな瞳で俯き続け、母に視線を向けることすらしない。


イザベラはふむ、と考え込むように顎に手を添えた。その横顔には、冷酷な判断を下す者の顔があったが、それでも娘を見放す気配は微かに見えなかった。


「デイジー様の身柄に関して、ご提案がございます」


静寂を破ったのは、意外にもオリビアだった。


その声は柔らかでありながら、一歩も退かぬ強さを帯びていた。


「オリビア、一体何を言うつもりだ?」


リアムは動揺を隠せず、声を荒げた。イザベラも思わず眉をひそめ、オリビアへと視線を向ける。


「彼女の身柄は、ソフィア・クレメントが引き取りたいと申し出ております」


「っ!!?」


その名が告げられた瞬間、沈黙を貫いていたデイジーの肩が震え、色のなかった頬にふわりと赤みが差した。虚ろだった瞳がゆっくりと見開かれ、そこに涙が滲む。


「ソフィアが……?」


掠れた声で呟いたその響きは、まるで凍っていた心が溶け出すかのように温かく、微かな希望を含んでいた。


「ほお、ソフィアが……オリビア妃とも旧知の仲だったな」


リアムが呟くように言葉を漏らすが、その声音には警戒の色が滲む。


「なぜその者が、マリアーノ家の娘を欲しがる?」


リアムの疑念は当然だ。罪人となったデイジーを引き取る理由など、王族にとっては理解しがたい。


「彼女は今もなお、デイジー様の教育係であると考えております。正式な解雇を受けた覚えはないと」


「こんな状況で、教育係など意味がないだろう」


リアムの言葉は冷ややかだ。王に仇なした娘に、もはや社交界での振る舞いなど教える意味はないという論理は尤もだった。


「そういえば、そうだったな。私も彼女を解雇した記憶ない」


イザベラはまるで他人事のように呟くが、その目は冴え冴えとしていた。


「だからと言って、マリアーノ家の罪が消えるわけではない。彼女が何者に引き取られようと、家の名に刻まれた汚名は拭えぬ」


リアムの声が一段と鋭さを増す。


しかしイザベラは、ふっと唇を吊り上げ、艶やかに言い放つ。


「ならば、私は彼女との縁をここで切り、ソフィア夫人に明け渡す事としよう」


その言葉に、デイジーの表情が一瞬曇った。


実の母からの“見捨てる”という宣告。それがどれほど重く、どれほど痛いかは計り知れない。しかし、イザベラの目には一片の迷いもない。


「だからどうした。彼女が罪を犯した時、その名を背負っていたのはマリアーノ家の紋章だ。ならば罰を受けるのもまた、その家柄の者であるべきだ」


リアムは厳しく宣告する。


だが、その瞬間。イザベラの顔から笑みが消え、鋭い光がその双眸に宿った。


「ほお……ならば、国家裁判にでもしてみるか?王宮の門を不審者が簡単に突破したという、王家の失態を世に晒す裁判を」


空気が凍りつく。


「オリビア妃が最近ようやく社交界に顔を出すようになった様だが、皇帝と私の不仲がどのような影響をもたらすか、知らないとでも?」


イザベラは緩やかに微笑む。その微笑は、深く冷たい底なし沼のようで、誰もが言葉を失った。


「そんな脅しが通用するとでも……!」


リアムが声を荒げるが、オリビアがそれを遮るように悲しげに呟いた。


「それは困りますわ……せっかく社交界でお友達が出来ましたのに」


その一言が、場の空気を大きく揺らした。


イザベラは薄く笑みを浮かべ、リアムはオリビアの横顔を見て顔色を変える。


エマは、彼らのやり取りを静かに見つめながら思った。


(さすが、旧知の仲――)


イザベラとオリビアは、まるで舞台の上で役を演じるかのように巧みに言葉を交わし、リアム王の暴走を抑え込んでいた。


それは、単なる脅しでも駆け引きでもない。


「女たちの誇り」としての、静かな戦争。


エマは、その一幕を目の当たりにし、改めてイザベラの恐ろしさと、オリビアの聡明さを思い知ったのだった。


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