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16.お人形


正に物語の佳境と言える場面だった。


オリビアとの密談を終えたエマは、夕暮れ時の薄暗い廊下をひとり歩いていた。


女性同士の腹を割った話は、リアムやノアに聞かれたくないとオリビアは考え、あえて護衛を付けず、静かな庭園にエマを呼び出したのだ。そのため、エマは自らの足で自室まで戻らねばならなかった。


(むしろ好都合かもしれない)


本来なら、ノアが「護衛」という名目でついてきただろう。けれど、彼と顔を合わせる度に、エマは何とも言えない居心地の悪さを感じていた。妙に意識してくるその態度が煩わしく、今は一人でいたいと思っていた。


オリビアの提案は重く、その余韻がまだ胸の内で渦巻いている。リアム王妃として、国の未来を背負い、イザベラと共に陰から王を支えるという役割。そこに自分も加わることの意味と重さ。


そして、頭をよぎるのは、カールソン領を虎視眈々と狙うオーウェンの存在。息子との縁談話を諦めないイザベラ。舞踏会で声を震わせ、追い詰められたような顔で叫んでいたデイジーの姿。


(気掛かりなことばかりだ)


思考を整理しようと、エマはあえて遠回りし、宮殿内をぐるりと歩いていた。けれど、考えれば考えるほど、思考は絡まり、纏まるどころか余計に重たくなるばかりだった。


(せめて、あの子の顔だけでも見て癒されよう)


カールソン領にいた頃は、気晴らしに乗馬を楽しんでいた。愛馬のたてがみを撫でるだけでも心が落ち着く。今は乗ることができなくとも、顔を見てやるくらいは許されるはずだと、厩舎に向かおうと足を進めた。


その瞬間だった。


「カールソン嬢」


聞き覚えのない、しかし不快な響きを孕んだ声が、エマを呼び止める。


「あなたは?」


振り返ったエマの視線の先にいたのは、騎士服に身を包んだ数人の男たちだった。だが、その顔に浮かべられた品性の欠片もない下卑た笑みは、彼らが本物の騎士でないことを一目で悟らせた。


上質な生地に王家の紋章が刺繍された制服も、彼らの薄汚れた存在感を隠しきれない。エマの問いかけにも答えることなく、男たちはいやらしい笑みを浮かべながら、じりじりと距離を詰めてくる。


しかし、エマは動じなかった。背筋を伸ばし、凛とした視線で彼らを真っすぐに見据える。


「ここは王の御前。王の庭です。ここでの不正は、王に対する重大な侮辱行為とみなされます。加えて、騎士服を纏い身分を偽る行為は、詐欺罪として厳罰を免れません。報告すれば、貴方方の首など、簡単に刎ね飛ぶでしょう」


冷静に事実を並べ立てるエマ。しかし、男たちはその警告をあざ笑うかのように、さらに詰め寄ってくる。


(こいつら……王宮の警備を潜り抜け、堂々とここに現れた。騎士の制服はどこから手に入れた? それ以上に、なぜ私の顔を知っている?)


エマの脳裏で警鐘が鳴る。浮かぶのは、王に仇名すことを恐れず、王宮にまで刺客を送り込む存在。


「ご主人がお待ちです」


男のひとりが不気味に口を開く。


その瞬間、舞踏会で耳にしたあの声が、脳裏に蘇った。


――― 平民上がりのオリビアだって! この国の王妃になれるはずがないのよ!!


「あ……」


デイジー。


その名を思い浮かべた瞬間、エマの意識はぷつりと途切れた。


続く場面では、エマはイザベラの私室と思しき上質な空間で目を覚ます。


重厚な革張りのソファ、完璧に磨き上げられたテーブル、そして、エマが寝かされている絨毯さえ、触れただけで高級品とわかる逸品だ。質素に見えても、細部までこだわり抜かれた調度品の数々が、イザベラの審美眼を物語っている。


(やはりイザベラ様は見る目がおありだわ……男以外は)


そんなことを考えながら、エマは視線を動かす。


その先には、父娘そろって甘く歪んだ笑みを浮かべる二人の顔があった。デイジーと、その父アーチー。二人同時に対峙するのはこれが初めてだが、やはりデイジーは父親によく似ていた。整った顔立ち、我儘そうな雰囲気、そして、自身の思い通りにならなければ子供のように怒りを爆発させる短絡さ。


「お久しぶりです。アーチー様。デイジー様」


体を縛られ、床に転がされたままでも、エマは動じずに挨拶を返す。その様子にアーチーの顔が曇った。


「久しぶりだね、カールソン嬢。まさか、君のような地味な女に、ここまで邪魔をされるとは思わなかったよ」


表情は険しく、それでも作り笑いで毒を吐くアーチー。だが彼が言う「邪魔」が指すものは、あまりにも多すぎる。アジトの壊滅、横領の告発、娘への暴行の阻止……思い当たる節がありすぎて、エマは無言を貫くことにした。


デイジーもまた、父親の横でじっと黙っている。その表情は、怒りというより、虚ろさを湛えていた。


(ああ、この子は……)


エマは理解した。デイジーは壊れている。父親の愛情を渇望しながら、決して満たされない絶望の中で。


「君のおかげで、全てが台無しだよ。リアムを失脚させ、僕が王になるはずだった。イザベラのような才女を妻に持つ僕こそ、王に相応しいのだから」


酔った勢いもあるのか、アーチーはワインを片手に、夢物語を語り始める。


「……では、オリビア妃を王妃に迎えたリアム王は、王に相応しくないと?」


エマが静かに問いかける。


その瞬間、アーチーの表情が激変し、持っていたグラスが床に叩きつけられる。


「オリビアは王妃に相応しい!! 彼女以上の女性などいない!!」


激情に駆られたアーチーが、エマの肩を乱暴に掴み、揺さぶる。だが、その背後でデイジーがどんな顔をしているかなど、彼の目には入っていなかった。


「お前に彼女の何が分かる!」


アーチーの怒号が、重たく淀んだ空気を震わせた。


「平民出でありながら持ち合わせた気品!美しさ!どんな人間にも向けられる美しい微笑!」


叫ぶその声は、崇拝とも執着ともつかない、どす黒い感情を孕んでいる。


「彼女の隣には僕がいるはずなんだ……リアムなんかじゃない。僕が彼女の隣で微笑んで……」


絞り出すように吐き出されたその言葉は、もはや自分に言い聞かせるための呪文のようだった。現実を否定し、願望に縋りつく、醜悪な執着。


「……っが!……お前……よくそんな事、娘の前で言えるなっ!」


エマの怒声が、わずかに掠れた。アーチーの荒々しい手が彼女の肩を乱暴に揺さぶる度に、目眩がする。だが、それでもエマの視線は逸らさない。


その視線の先には、蒼白な顔で立ち尽くすデイジーの姿。


泣きもせず、怒りもせず、ただ虚ろに何かを失った目で父親を見つめる少女の姿。


あの時、舞踏会で見せたあの表情と同じ。


この世の全てを失い、この世の全てから見放されたような―――。


絶望。


「っ!!?デイジー!!……違うんだ!」


ようやくデイジーの存在に気付いたのか、アーチーは顔色を変えた。


慌てて彼女に手を伸ばし、弁明を続ける。


「私はお母さんの事を一番愛しているよ!!」


――― 『私はこの世界の誰よりもノアの味方だよ』。



「家族が一番大切なんだ!デイジー!わかるでしょ?僕は家族を守るためにリアムを王から失脚させようとしたって言ったよね!?」


――― 『恥になんてならないよ!エマタンを恥だと思う様な奴、僕が全員潰すから!!』


「イザベラやデイジーを守るために危険を冒して作戦を実行したのだよ!?僕はいつだって家族の事を考えているのだから!」


――― 『貴方の事を一番に思っているのは、私達ですから』


「家族なら支え合うのが普通でしょ?僕はいつだってそうしてきたよ!デイジーが兄弟から無視されてた時だって、従者達から意地悪された時だって、ずっといい子いい子してきたのは僕だよね!?」


自分の言葉に縋るように、アーチーはデイジーの頭を乱暴に撫で、抱きしめる。だがその手は、父親としての慈しみとはかけ離れていた。


デイジーの体は、まるで命のこもらない人形のように、ただ形だけを保っている。


小さな爪は、ほんのりと桃色に染められ、彼女の好む花の模様が丁寧に描かれている。


ドレスは新調されたばかりのシルクで、刺繍も、レースも、完璧に手入れされたもの。


磨かれた靴のつま先が、冷たい床に揃えられている。


薄化粧を施された頬に浮かぶ色彩は、まるで仮面のように張り付いている。


(なんて滑稽で、哀れなんだろう)


完璧に飾り立てられた彼女は、まさに「人形」だった。


美しさに執着する父親のためだけに、形だけを保ち続けるためだけに、磨き上げられた存在。


(ああ……この子は、こうして壊れていったのか)


エマは悟った。


マリアーノ邸には、デイジーの涙を拭ってくれる者は誰一人いなかった。


泣いても、怒っても、ただ着飾られ、飾り物として微笑むことを求められた。


だからこそ、彼女はノアに縋り、社交界に縋り、そして自分自身の「美しさ」そのものに縋りついてきたのだ。


いつか、誰かが、心から自分を愛してくれると信じて。


それは痛々しいほどに、切実な願いだった。


アーチーが口にする「家族」の言葉が、どれほど空虚かを理解しながらも、デイジーはもう、泣くことさえできなくなっていた。


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