15.王妃との契約
飾り気のない質素な応接間。壁際に整然と並べられた書棚、装飾もなく直線的な意匠のテーブルと椅子。無駄を削ぎ落した機能美こそがイザベラの美学だった。
(居心地が悪いわ……)
デイジーは所在なげに視線をさまよわせた。母の選んだその空間は、彼女にとっては冷たく、鋭利な刃物のように感じられた。
「あの令嬢は、随分厄介な子のようだね」
冷ややかな笑みを浮かべながらアーチーが口を開いた。舞踏会での出来事を報告するデイジーに、興味深そうに目を細める。
デイジーの言葉を聞くうちに、アーチーの顔にじわりと浮かんだのは怒りと侮蔑。己が受けた恥辱と計画の失敗が、その表情を歪めていた。
「デイジーの暴走により静まり返った会場も、結局はオリビアの朗らかな声に飲み込まれてしまった」
誰一人味方はいなかった。残ったのは、あの時自分に向けられたソフィアの悲しそうな視線だけ。彼女の目には、デイジーの愚かさと浅はかさが映し出されていた。
(あの子のせいだ……)
その瞬間、デイジーの胸に黒い憎悪が芽吹いた。自分が傷つけられたのは、エマという女のせいだ、と。
「調べてみたが、カールソン嬢はオリビアともリアムとも良好な関係らしいね。僕を陥れたのも、もしかしたら彼女が関わっているのかもしれない」
アーチーの声にも怒りが滲む。今や彼も、エマという存在を警戒し始めていた。
「はい。私もそう思います。彼女は危険です。でも、今は王宮に住んでいますし、リアムの側室である限り、王都から追放することも難しいです」
俯いたまま呟くデイジーの顔は暗く沈んでいた。あの天真爛漫だった娘はもういない。だが、アーチーはそれに気付かない。自分の怒りと打算しか頭になかった。
「そうだね。追放は難しい……ならば、強制的に退場してもらおうかな」
瞳の奥に妖しく光る光。その口元に浮かぶ笑みは、まるで悪魔のようだった。
柔らかな陽光が降り注ぐ庭園。
「ここに来るのは久しぶりね」
オリビアは優雅な微笑を浮かべ、春の風に揺れる花々を愛でていた。
「はい。王妃様と再び時間を共にできることは光栄でございます」
エマは淡々と答えるが、その声にはどこか硬さが残る。無論、彼女の心にも喜びはあった。だが、社交の場での経験上、それを表に出すことは控えるべきだと心得ている。
先日の舞踏会から数日。デイジーの乱入はあったが、オリビアのお披露目は成功に終わった。多くの貴族たちがオリビアを受け入れ、王への信頼も回復の兆しを見せていた。
「貴方には本当に感謝しているわ。まさかデイジー様が、あんな噂を流すなんて……私たち女性は、互いに協力し合える存在だと思っていたのに」
オリビアの吐息は、春風のように儚い。だがその言葉には、デイジーへの失望だけでなく、まだ信じたいという願いも滲んでいた。
(本当に、優しい人だ)
エマは胸の内で呟く。その優しさが人々を惹きつける一方で、貴族社会では脆さともなる。イザベラのような強かさが、やはり必要なのだと改めて思う。
「彼女はマリアーノ家が対処するでしょう。王妃様が心を痛める必要はありません」
冷たい言葉に聞こえるかもしれないが、これが現実だ。エマの声は冷静だった。
「そうね。そう考えるのが、この世界では普通なのかもしれないわ」
オリビアは微笑みを浮かべたまま、ふと遠くを見つめた。
「エマさん。以前、ここで貴方に聞かれたわね。『なぜ国王様は令嬢たちを集めたのか』と。あの時は答えられなかった。でも今なら、はっきりと話せるわ」
エマは静かに頷く。あの不可解な行動――令嬢たちを側室候補として集めながら、実際には手を出さず、むしろオリビアとの交流を深めさせる王の意図。それを問いかけた時のことは、今も鮮明に覚えている。
「あの時はまだ、状況が整っていなかったの。選別の最中だったのよ。そして今、選び抜かれた者たちだけが王城に残っているの」
その中に、エマも含まれている。
(……つまり、リアム王が見捨てた領地をオリビア妃が拾い上げ、その領地を通じて国を動かそうとしている、ということか)
オリビアの視線が静かにエマを射抜く。
「貴方たちとその領地を、私の保護下に置きます。これは私の個人的な契約であり、国王様が介入することはできません。そして、その権限を持つ令嬢たちには、私の配下として動いていただきたいの」
「配下、ですか」
エマの声が一層冷たく響く。その言葉が意味するところは、彼女がよく知っていた。
「そうです。できれば“協力関係”と呼びたいところですが……立場の違いは、私も理解しているつもりです」
オリビアは一度視線を落とし、優雅な仕草でティーカップを口元に運ぶ。その穏やかな所作とは裏腹に、彼女の言葉には確かな決意が宿っていた。
「私とイザベラ様は、これまで国の情勢、貴族社会の動き、そして国王に関するあらゆる情報を密かに交換し合ってきました。公には表立って動くことはありませんでしたが、裏では常に手を取り合い、支え合ってきたのです」
まるで、当たり前のように告げるオリビア。その静かな語り口は、過酷な現実に慣れた者だけが持つものだった。
「だからこそ、貴方方にも、私たちと行動を共にしてほしいのです」
どうやら彼女たちは、前国王の時代と変わらず、あるいはそれ以上に、王政を陰から支えるために動いているらしい。リアム王の理想は高い。しかしその熱意が時に暴走し、国を危うくする危険性があることを、オリビアは誰よりも理解しているのだ。
「女性の立場は、未だに低いままですわ」
その言葉には、苦々しさと、諦めに似た静かな怒りが滲んでいた。
「多くの方々から絶大な信頼を得ているイザベラ様でさえ、公の場で権力を行使することは叶いません。だからこそ、私たち女性が互いに手を取り合い、国を守る力となる必要があるのです」
指先で静かにテーブルをなぞりながら、オリビアは続けた。
「これまでは、イザベラ様と私だけでどうにか対処してきました。しかし、リアム王が望む大きな変革は、今や国中に波紋を広げています。その全てを把握し、導くには、もはや私たち二人だけでは限界です。だからこそ、信頼できる貴方方の知恵、人脈、そして権力をお借りしたいのです」
その言葉に嘘はないと、エマは確信していた。
確かに、オリビアの言う通りだった。リアム王の急進的な政策は国全体に影響を与え、貴族たちの間に不満を募らせているのが現実だった。エマの母であるメルリダも、現在の国政に少なからぬ不満を抱いている。
「……実際に、私たちは何をすればよろしいのでしょうか?」
エマは慎重に言葉を選びながら問いかけた。
もしこれがイザベラからの提案であれば、有無を言わさず従わされていただろう。しかし、オリビアの申し出は、選択肢を与えてくれている。そのことが、エマの慎重さを際立たせていた。
「基本的には、貴方方の領地内での王に対する評判の収集と、その情報を私たちに届ける役目です。そして、領主や有力者たちとの間に立ち、私との仲介役を担っていただきます」
オリビアは丁寧に説明する。
「もちろん、自身の領地だけでは情報が偏りますから、場合によっては他の領地にも足を運んでいただくことになるでしょう」
エマは軽く頷いた。その程度であれば、グレンの顔も利くし、何とかなるだろう。
「ですが……それだけではありません。状況次第では、王の行動を穏やかに抑止する役割も担っていただくことになるでしょう」
その一言に、エマの眉がわずかに動く。
(王の行動を阻害する――それは、場合によっては国王に楯突く行為にもなり得る)
立場を間違えれば、侮辱罪、あるいは反逆と取られかねない。慎重な対応が求められるのは明白だった。
「前者に関しては、問題ありません。ですが……国王様の阻害となると、話は別です」
「もちろん。貴方方が危険な立場に立たされるようなことは、私もイザベラ様も決して望みません」
オリビアの声色は、微かに強さを帯びる。
「いざとなれば、私かイザベラ様が前に立ちます。貴方方を王に内緒でイザベラ様のもとへ行かせた時のように、事前に手を打ちます。リアム王は、イザベラ様との衝突を望んでいましたが、それは彼にとっても、国にとっても不利益しか生みません。私たちはそれを理解しているからこそ、動いているのです」
エマは静かに目を伏せた。
確かに、オリビアが自分たちを危険に晒すとは考えにくい。だが、王の逆鱗に触れれば、どんな結果が待ち受けているかは想像に難くない。
(領地を消滅させるほどの権力を持つ王に、背を向ける覚悟が――私にあるのか)
「王妃様のご提案に、すぐにお答えするのは、大変失礼かとは思いますが……少々、お時間を頂けますか」
エマは、言葉を慎重に選び、深々と頭を下げた。
その申し出を、オリビアは優しい微笑で受け止めた。
「もちろん。エマさんには、悔いのない選択をしていただきたいから」
その微笑みは、エマの胸に静かに、だが確かに染み入っていった。




