14.社交界の花
真っ白なテーブルクロスに映える深い青のナプキン。各テーブルには赤いアネモネの花が飾られ、華やかな会場の中に凛とした彩りを添えていた。
まさにオリビア妃の色に染め上げられた舞踏会だった。
「若き王の愛しき女性、その姿を一目見よう」と、身分を問わず招待された貴族たちが次々と訪れる。
(階級問わず招待するとは、やはりオリビア妃らしい)
エマはそう心の中で呟きながら、壁際に身を寄せ、できる限り目立たぬようにと振る舞っていた。かつては自分には無縁だと思っていた華やかな社交の場に、こうして再び足を踏み入れることになるとは思いもしなかった。
オリビアが自ら選び招待した面々は、上から下まで実に様々な顔ぶれだ。
初めてオリビア妃を目にした者たちは、その美貌に息を呑み、すぐ後ろに控えるリアム王に畏れを抱く。しかし、ひとたびオリビアと会話を交わすと、その柔らかな笑みと誠実な言葉に心を解かされていく。
「決して国王様は貴族を見捨ててはいません。ただ、人の上に立つ以上、それに伴う責任を果たして欲しいとお考えなのです」
オリビアは、丁寧に、優しく、しかし揺るぎない信念をもって語る。
前国王時代のジェルタ王国では、王と貴族が支配層を固め、ただその地位に安住していた。努力することも、責任を負うこともなく、王の意向に従うだけで良かった。しかし、若き王リアムは違った。彼は権力者たちに新たな“役割”を与え、自らの手で国を築く同士として迎え入れようとしていた。
「王にとって、我々もまた国の民なのか……」
「王にとって必要とされるのならば、この身を尽くすべきかもしれんな……」
徐々に貴族たちの間に広がる感嘆と尊敬の声。
(オリビア妃の存在は、やはりリアム王にとって必要不可欠なものだった)
エマはその様子を見ながら、彼女の果たすべき役割の大きさを改めて噛み締めた。
今回、エマが舞踏会に招かれたのは“側室候補”という名目だったが、真の目的は王妃オリビアの護衛だった。
騎士団が王妃の身辺警護を担う一方で、貴族社会における“精神的な攻撃”への防衛策として、王はエマを選んだのだ。
(王妃に敵意を抱く者など、今やいないだろうが……)
そう思いながら、エマは壁の模様と同化するように気配を消していた。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
「貴方が、エマ・カールソン嬢ですか?」
突如かけられた声に、エマは顔を上げる。
猛禽類を彷彿とする吊り上がった鋭い目元、通った鼻筋、品格漂う佇まい。誰が見ても一流の紳士と認めるだろう。しかし、エマの背筋に冷たいものが走った。
「私は、オーウェン。オーウェン・マリアーノと申します」
(オーウェン……マリアーノ……!)
イザベラの三男。マリアーノ家の血を色濃く受け継ぐ男。その微笑の裏には、母譲りの狡猾さと冷酷さが滲んでいた。
「カールソン領の土地は広大で、魅力的ですね」
それはまるで、値踏みするかのような言い方だった。
「……広大ではありますが、農地しかありません。さほど興味を抱けるものではないかと」
冷ややかな笑みを浮かべるオーウェンの気配に、エマの背筋は氷のように冷えた。
「そうでしょうか。ですが、カールソン領の食材は王家でも取り扱われる一級品。『花街』まで所有する貴方の領地、私には大いに興味があります」
“花街”という言葉がエマの心臓を射抜く。
(……やはり、マリアーノ家に知られているのか)
情報の漏洩を恐れ、エマは内心で冷や汗をかきながら、表情を崩さぬよう努める。
しかし、オーウェンはじわじわと距離を詰め、エマを壁際へと追い詰めた。
「これは秘密の話だったのかな?」
その瞬間、エマの救いとなる声が響く。
「お久しぶりでございます、オーウェン様」
突然背後から現れたノアがオーウェンのすぐ目前へと無遠慮に立ちはだかる。
「やあ、ノア君。久しぶりだね」
一瞬の沈黙ののち、オーウェンは口角を持ち上げて模範的な笑顔を作った。
しかし、ノアの表情は変わらない。微笑んではいたが、その瞳は冴え冴えと冷たく、敵意すら含んだ鋭さを宿していた。
「公の場で、ご令嬢との距離を詰められるのはいかがなものかと」
その言葉は、丁寧ながらも容赦なく、明確な牽制であった。
「ご忠告ありがとう。では、私はこれで」
ノアの雰囲気を悟ったのか、それとも王専属騎士の前で“ある話題”を続けるのは得策でないと判断したのか――オーウェンはあっさりと身を引いた。
「まったく、貴方は何処にいても厄介事を引き寄せますね」
呆れたように息を吐くノアに、エマは心からの礼を述べた。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「……今日は随分と雰囲気が違いますね」
ノアはまじまじとエマの姿を見つめ、言葉を詰まらせた。
オリビア妃の舞踏会に相応しい装い。深い青に金の刺繍が施されたドレス、サファイアのネックレス、銀の髪飾り。グレンが用意したその一式は、エマの凛とした美しさを一層際立たせていた。
「父が用意したものです。失礼のないようにと……」
そう説明するエマに、ノアは顔を赤らめ、口元を押さえながら目を逸らす。
「……似合わないのであれば、正直に言ってください」
「ご、誤解です!」
ノアは焦り、思わずエマの両腕を掴み壁に押し付けてしまう。
「とても……とても、綺麗だと……思います」
その言葉に、エマは顔を真っ赤に染め、慌てて彼の腕から逃れた。
貴族たちの中へ姿を消すエマ。取り残されたノアは壁に頭を打ち付け、悔しさに顔を歪めた。
「聞きました? リアム王は私たちと共に国造りをなさろうとお考えのようですわ」
「オリビア妃も元平民でありながら、貴族としての立場をしっかりと理解されているようですし、安心いたしました」
会場のあちらこちらで、そんな会話が弾けていた。豪奢な衣装に身を包んだ貴族たちが、まるで取り憑かれたようにオリビア妃の名を称賛し、若きリアム王への評価を改めつつある。
(どうしよう……このままでは、お父様からの頼み事が失敗してしまうわ)
会場の隅で身を縮めるデイジーの顔は青ざめ、その指先は細かく震えていた。以前のように感情を爆発させることはなかったが、内心の焦りは抑えきれない。彼女の思惑は崩れ、目論見は無残に砕け散ろうとしている。
「オリビア妃の評判は上々のようですね」
隣から穏やかな声が掛かる。ソフィアだった。
「え、ええ。そうみたいね」
デイジーは無理に笑顔を作るが、その引きつった表情にソフィアは気付かない。
「あら、あの方は……。申し訳ありません、デイジー様。知り合いを見つけましたので、少々失礼いたしますわ」
軽く会釈をしてその場を離れるソフィアの背中を、デイジーは縋るような思いで見送った。
(お願い……行かないで。今、そばにいてほしいのに……)
だが、デイジーの願いが届くことはなかった。
オリビア妃の招待を受け、ソフィアが同行を条件にデイジーはこの舞踏会に参加を許された。前回の秘密裏に参加した舞踏会とは違い、これは正式なデビューの場。礼儀作法を叩き込まれ、晴れの場に立つデイジーの姿を見て、ソフィアも「もう大丈夫」と判断したのだろう。
「オリビア妃は素晴らしいお方ですから、きっとイザベラ様のように人望を築かれるでしょうね」
残されたデイジーの横で、令嬢たちが無邪気にオリビアへの賛辞を重ねる。彼女たちにとっては善意での言葉なのだろう。しかし、その言葉の一つ一つがデイジーの心を鋭く抉った。
「で、ですが!」
デイジーの声が、震えながらも大きく響いた。焦りが理性を押し退け、言葉がこぼれ出る。
「彼女は元々平民です。お母様のような方には到底なれませんわ。何よりも、お母様自身がリアム様のことを警戒しているのです。リアム様の妻であるオリビア様に加担するなど、もしお母様に耳にでも入ったら……」
その瞬間、冷え冷えとした声が割って入った。
「貴方でしたか、イザベラ様の噂を立てていたのは」
その声音に、デイジーの体がびくりと震えた。
「あ、貴方は……」
その場に立っていたのは、静かに、しかし確かな威圧感を纏ったエマだった。淡々とした表情の奥に、鋭い意志が煌めいている。
「本当にイザベラ様が、そのようなことを仰っていたのですか?」
エマの問いに、デイジーは答えられない。代わりに彼女は、じりじりと距離を詰めてくる。
「イザベラ様ご本人はこちらの会場にはいらっしゃいません。ですが、イザベラ様の娘である貴方の発言を、イザベラ様本人の意見として受け取ってよろしいのでしょうか?」
詰問とも言えるエマの問いかけに、デイジーは追い詰められ、頼りなく後退する。
「だって、お母様が、本当に……」
震える声で必死に反論しようとするが、その言葉は弱々しく、誰の心にも届かない。
「その発言が虚偽であった場合、イザベラ様への名誉毀損、及びに国王に対する侮辱罪となることは、お分かりいただけますか?」
エマの冷徹な言葉が、デイジーの胸を貫いた。
「っ!! 私は本当にお母様から聞いたのよ! リアムは国王には相応しくない! 平民上がりのオリビアだって! この国の王妃になれるはずがないのよ!!」
その瞬間、会場が凍りついた。
シン……と静まり返った空気の中、全ての視線がデイジーへと注がれる。兄であるオーウェン、婚約者のノア、そして舞踏会を主催したオリビアとリアム王。
そして——
「今……なんと、仰ったのですか」
振り返った先にいたのは、ソフィアだった。
彼女の瞳は、これまでに見たことがないほど冷たく、そして深い失望の色に染まっていた。
デイジーは、何か言い返そうと口を開いた。しかし、どれほど言葉を紡いでも、あの瞳を前にしては無意味だと悟るしかなかった。
(私は……また、やってしまったのね)
そう自覚するには、あまりにも遅すぎた瞬間だった。




