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9.アーチー再び

マリアーノ邸の侍女。


それは、家が貧しい者、雇い主から解雇を言い渡された者、立場が低い者など、どこも行く当てのない人間が行き着く最後の仕事場と言えるだろう。


屋敷の主とも呼べるイザベラは殆ど帰らず、夫のアーチも若い侍女に手を出すか、外で女遊びをしている。


残されたご令嬢であるデイジーの横暴さは社交界では有名で、体に傷を作られたとしても、その余りにも高い権力の前では泣き寝入りするしかない。


誰にも守られず、失敗も許されず、いざとなればイザベラの手によって消されてしまう。


まさに生死を懸けて金を稼ぐのだ。





・・・カチャン


「なりません。デイジー様。食事の際は食器の音を立てず、静かに召し上がって下さい」


食後の紅茶を嗜みながら、ソフィアが苦言を呈する。


その言葉に侍女達は体を強張らせ、しきりに目配せを始めた。


「申し訳ありませんクレメント婦人。不快な思いをさせてしまいました。これからは気を付けますわ」


苦言に対し柔らかく受け答えをするデイジーの姿に侍女達はさらにどよめき始める。


いつもであれば一言の苦言で大暴れし、食器類を投げつけてくる令嬢が、今では大人しく椅子に座り、笑みを浮かべているのだ。


正しい令嬢の在り方ではあるが、デイジーの急な変貌は周りを不安にさせる。



「一体どうしたのかしらデイジー様」


食事を終え、使われた食器を運ぶ侍女達の間ではデイジーの話題で持ちきりだ。


「急に大人しくなって、暴れない分助かるけど、正直気味が悪いわ」


皆も同調するように頷き、眉間に皺を寄せる。


今まで痛い目に遭わされてきた侍女達にとってデイジーはまだ信用ならない。


「このまま大人しくしててくれたらねぇ・・・急に爆発したらと思うと怖くなるわよ」


「確かに!今までの鬱憤が爆発したら・・・」


頬に手を当て『ひぃ』と悲痛な叫びを上げる。自身の身を案じ目に涙をため、互いに腕を擦り合うが、侍女達の震えは治まらない。


今のところ、デイジーの変化を喜ばしく思う侍女は一人もいない様だった。



「先ほどはよく対応できました。デイジー様」


侍女達が引き揚げ、二人きりになった部屋でソフィアが柔らかい笑みを浮かべた。


「あの程度で誉め過ぎよ。大したことじゃないもの」


そういうデイジーの頬はいつもよりも赤く染まっている。


「さあ、お勉強を始めましょう。今日は王族の歴史について学ばないと・・・」


朝食を取り終え少しの休憩もないまま、デイジーが用意された本を開き始めた。


王族であれば誰もが知る歴史をデイジーはまだ知らない。


今までサボってきた分、人よりも自身を追い込む必要性があるのは確かだが、その作業を最近のデイジーは嬉々として取り組むようになった。


人よりも飲み込みが早い訳ではないため、ゆっくりと丁寧に教える必要があるのだが、彼女も根気強く学ぼうとするため問題はない。


それよりも、ソフィアを驚いたのは彼女の社交性だ。


社交界での評判が最悪なデイジーだが、どうやら礼儀正しく振る舞う演技は得意らしい。


本人にその気がなかっただけで、微笑み方や言葉選びなど全く問題なかった。


もちろん語彙力が少なく、まだまだマナーも未熟ではあるが、こちらは基本的な勉強よりも簡単に習得できそうに思える。


(ご両親に好かれたい。その一心で、今まで演技してきたのね)


デイジーに心向けない、だが最も愛してほしい二人に彼女は長年演技を続けてきたのだ。


「ねぇ。ソフィア。ここの文字が難しくて読めないの・・・あれ?」


デイジーは二人きりの時、ソフィアをクレメント婦人とは呼ばない。


仮面を取った彼女は、無理に礼儀正しくあろうとはしないのだ。


一方、声を掛けられたソフィアは、窓から入る光の下、晴れ渡った空をぼぉっと眺めていた。


最近はソフィアが空を見上げる回数が増えた。


デイジーと未開発の領地に行ってからというもの、デイジーだけでなくソフィアにも変化が現れたのだ。


「ソフィア?聞いてるの?」


「っ!?申し訳ございません。・・・ただ、余りにも良い天気ですので・・・」


そう言うと再び視線を空へと向けてしまう。


「・・・わかったわ。少し休憩にしましょう」


ため息交じりに椅子に腰を下ろし、そして、ソフィアと共に空を眺め始める。


暖かい日差しを浴び、音楽も話し声もない空間は、再び二人に穏やかな時間をもたらす。


「また、あの草原に行きましょう」


「あの領地は遠いわよ。ディはまだ学ぶことが沢山あるのに」


「では移動時間に学びましょう。早く行かないと、あの花が枯れてしまうかもしれません」


少女の様な興奮を見せるソフィアもまた、今は仮面を外している状態だ。


先日見た名もない野に咲く花。


春が終われば枯れてしまうのか、それとも野生の花は息が長いのか、知識のないデイジーには判断が付かない。


「分かったわ。じゃあその前に沢山お勉強をしておかないと・・・」


コンコン・・・


ソフィアの様子に絆されたデイジーが再びあの草原へ赴くことを約束した時、ノックの音が響く。


「誰かしら?こんな時間に・・・」


デイジーを恐れた侍女達は無用にこの部屋に近付こうとはしない。


こちらが指示を出してやっとティーセットが届く程、彼女達は関りを持つことを嫌うのだ。


先程まで剥いでいた仮面を被り、美しく姿勢を正したソフィアが扉の前へと向かう。すると・・・


キぃ・・・


許可もなく扉がゆっくりと空けられた。


「っ!?貴方!・・・っ!!あ、申し訳ございません。旦那様」


無礼な振る舞いを叱責しようと声を荒げたが、現れた人物がデイジーの父でありこの屋敷の主である事を知り急いで頭を下げる。


「いや。急にすまないね。娘の顔が見たくなってね」


そう微笑むアーチーの顔はデイジーによく似ている。


正し、仮面を被った状態のデイジーだ。


(今頃、何を?)


ソフィアが屋敷に来て数か月。


初見の挨拶の時以外に彼を見た事がない。


デイジーに付きっきりのソフィアが目にしていないというのは、デイジーさえも父親に会うのは久しぶりだという事。


「お父様。こんにちは」


以前よりも洗練された挨拶をする娘を見たアーチーに戸惑いの色が見える。


数カ月の間に成長した娘は、朝早くからドレスに身を包み、髪を整え、品のいい笑みを浮かべているのだ。


ただ無邪気に父親の腕の中に飛び込んできたデイジーとは、まるで別人に見えたのだろう。


「や、やあ、デイジー。可愛い僕の子猫ちゃん」


だが、特にその変化に言及する事はなく、いつも通りデイジーを抱きしめ、優しく頭を撫でた。


アーチーにとって娘の成長など関心がないのだろう。


「旦那様。ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


落ち着きを取り戻したソフィアが冷静な口調で尋ねた。


例え父親であっても、主の許可もなく入室し、品の無い挨拶を交わす男を見過ごす訳にはいかない。


そんなソフィアの冷徹な空気を察する事もなく、アーチーはにこやかに対応する。


「ああ、ちょっと娘に話が合ってね。悪いが、君は席を外してくれ」


令嬢教育に熱心に励むデイジーのため、夜就寝するまでのスケジュールはもう組まれている。


何よりも身分の高い王族は例え親子であったとしても事前に申し立てをし、時間を合わせ、準備を整え、初めて顔を合わせるのだ。


それが礼儀であり、今後のデイジーが置かれる環境。


それをあっさりと覆すアーチーの存在を良く思わないソフィアだったが、屋敷の主には逆らえない。


「かしこまりました」


デイジーに教えた美しいお辞儀を見せ、その場を後にした。





「随分と厳しそうな人だね。デイジーは虐められていないかい?」


扉の向こうにいるであろうソフィアに冷たい視線を送りながら、数カ月ぶりにあう娘に気遣いの言葉を掛ける。


「とても良くして貰ってるわ。心配しないで、お父様」


「・・・そうかい?」


いつもの様に潤んだ瞳で助けを求められると思っていたが、デイジーの落ち着きのある返答に戸惑う。


(以前の方が可愛かった)


ただ無邪気に喜び、感情を前面に出してくるデイジーの方がアーチーにとっては分かり易く扱いやすい存在だった。


イザベラの様に賢く感情を表に出さない女性よりも無知で無防備な女性の方が好みなのだ。


「お父様?・・・どうしてディに会いに来たの?」


「ああ、そうだね。実はデイジーに頼みたい事があるのだよ」


「頼みたい事?」


「うん。ここにお座り」


優しく微笑むとデイジー好みのピンク色のソファに腰を掛けた。


デイジーもそれに倣い、大人しく隣に座る。アーチーは大人しい娘の頭を優しく撫でながら、小さな溜息を吐く。


「実はね。僕は今、リアム王に脅されているんだ」


「え!?」


父親からの衝撃的な告白に、元々大きな桃色の瞳がさらに開かれる。


「脅されてるって、一体・・・」


小さな体を震わせながらデイジーは話の続きを促した。


その震えが怯えなのか、それとも怒りなのかは不明だが、デイジーが父親を心配している様子は見て取れる。


その様子を満足そうに見つめながらアーチーは口を開いた。


「彼はイザベラの存在を良く思っていないからね。デイジーだって一方的に婚約を破棄されただろう?王だからと言って余りにも傍若無人な振る舞いだと思わないかい?」


確かにリアムは一方的にデイジーとの婚約を破棄し、そして周りの反対を押し切りオリビアと結ばれた。


当時のイザベラは怒り狂い、何度もリアム王の元へと足を運んでは抗議をしていたが、デイジーにとっては冷たいリアムとの婚約破棄は悲しい出来事ではなかった。


「君を傷つけ、今度は僕に危害を加えようとしている・・・イザベラが不在の今、僕が頼れるのはデイジー、お前しかいない」


「お父様!」


弱弱しく微笑むアーチーの手をデイジーは力強く握りしめた。


「デイジー、、、お前は私を助けてくれるかい?」


「もちろんよ!ディはお父様のためなら何でもするわ!」


怒りを露わにしたデイジーが語気を荒げる。


デイジーは度々、アーチーから頼みごとをされていた。


このドレスを着て舞踏会に出て欲しいとか、この令嬢の人脈が欲しいので繋いでほしいなどと頼み込み、それを実現させてきた。


もちろん、それはアーチーのビジネスに繋がる内容が多かったのだが、中には個人的に繋がりたい人物も含まれていたのだ。


「ああ!デイジー!可愛い我が子ならきっとそう言ってくれると思ったよ!」


感極まったアーチーは小さな体を力強く抱きしめる。


「もう、お父様ったら、苦しいわ・・・」


そう抗議するデイジーも久しぶりの父親からの愛情表現を喜んで受け入れていた。


「そ、それで、ディは何をすればいいの?」


父親からの激しいスキンシップに照れながらデイジーが尋ねる。


「ああ、そうだね。デイジーには舞踏会に出て欲しいのだよ」


「舞踏会に?それだけでいいの?」


舞踏会であれば以前何度も出た事がある。


ソフィアが屋敷に現れる前は、毎晩のように参加していたのだ。


現在は、『完璧な令嬢』になるまで他の貴族との交流を禁じられていたが、屋敷の主であるアーチーの許可が下りれば出席も可能だろう。


「いいや、それだけじゃない」


頭の回転が悪い我が子を愛おしそうに眺めながらアーチーが微笑む。


「デイジーには舞踏会に出て、周りの人達にこう言ってほしいんだ。『最近の王の振る舞いは行き過ぎている。貴族を平民に落とすつもりなのかもしれない。お母様もそろそろ王を見捨てようとしているらしい』っとね」


多くの貴族達から人望を集めるイザベラ。


そのイザベラから見放されるという事は、多くの貴族が王の敵になるという事だ。


デイジーの婚約破棄の件以外では常に中立の立場を守っていた彼女が自身の意思を公に公開すれば、例えリアム王であっても痛手は避けられない。


さらに最近は、王が一部の貴族達からその権利を剥奪した事で彼に反発を持つ者が多い。


(潰すなら今だ。そして、やっと手に入れられる・・・オリビア)


リアム王を失脚し、イザベラの権限を使ってリアムから全てを奪い取る。


もちろんその中には、唯一手に入れられなかった人物。オリビア妃も含まれていた。


「どうだい?デイジー。僕のために、、、やってくれるね?」


愛嬌たっぷりの満面の笑みで、『はい!お父様!』と抱き着いてくるデイジー。


いつもであれば、即座にその回答が得られたはず。だが、


「お母様は・・・本当にそう仰ってましたの?」


「え?」


そこには冷静に、そして初めて浮かべる疑いの目を向けた娘がいた。


「どうしてそんな事聞くの?デイジーはお父様の事が嫌いになったのかい?」


ただ頼み事に関して質問をしただけのデイジーをアーチーは悲しそうに問い詰める。


こんな傷ついた表情を作れば、無知で自身を心底好いている娘はすぐに反応を変えてくれた。


だが、そんなアーチーにとって、可愛く、無邪気で、扱いやすい娘はいなかった。


「ごめんなさい、お父様。少しだけ・・・考えさせてください」


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