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8.イザベラ

蛇に睨まれた蛙はその恐ろしさから身動きが取れなくなると言う。


だが実際は動けないのは蛇も同様で、睨み合いながら互いの出方を観察しているらしい。


今のエマはその蛙よりも容易く殺せてしまう程、無防備な状態なのだろう。


「美味しかった。とても」


小魚の油漬けを全て平らげるとイザベラはその小さな口をナプキンで上品に拭う。


テーブルの上には空の皿が置いてあるのだが、呆然としているエマはそれを片付ける事もせずただ立ち尽くしていた。


しんっと静まり返った室内では、いつの間に降り始めたのか、蛇口をひねった様な雨音がひどく響く。



「オリビアに聞いたのか?」


動かなくなったエマを気にも留めない様子で、イザベラはゆっくりと食後の紅茶を楽しみながら問いかけた。単純な質問であるにも関わらず、今のエマには、まるでゆっくりと手間をかけて調理するために遠回りな質問をしている様に聞こえてしまう。


「はい。手土産に・・・小魚の油漬けを持たされました」


謝罪も言い訳も通用しない相手だと肌で感じ取ったエマは、感情もなく操られた人形の様に質問された事だけ簡潔に返した。


「聞いていた通りの問題児らしいな。まさか屋敷の侍女に化けるとは・・・が、容易に潜入される屋敷も問題だな」


ふうっと息を吐くと、持っていたカップをテーブルの上へと戻し、気怠そうに頬杖を付く。その様子からは怒りや不快を感じ取る事は出来ず、むしろこの状況を楽しんでいるのか、口角が僅か上がっている。


何よりも、冷徹なオーラを身に纏いながらもイザベラの瞳からは敵意が見て取れない。


その様子を見てふっとオリビア妃から昨日された話を思い出す。



『イザベラ様はどうしても貴方方3人に直接謝罪したいと仰ってまして』



(本当に謝罪のために?)


俄かには信じがたいが、イザベラが噂通りの冷酷な人間であっても、デイジーの様な暴君でないのならば、オリビア妃の言っていた事が真実である可能性が出て来る。


「な、なぜ、私がカールソンだと?」


確信は持てないが首が繋がる希望が少しでもあるならば、とエマは探りを入れ始める。


『問題児』というだけでは判断出来ない要因は何なのか。オリビア妃と交わされた二人のやり取りをエマ自身の頭で判断するためにもイザベラの口から直接情報を得なくてはならない。


「まず一つ。ここの者達は私の事を『ご当主様』とは呼ばない。この屋敷の当主は夫であるアーチー様だからな」


つまり侍女達はイザベラの前では『奥様』や『アーチー夫人』と呼び、陰では実質の当主であるイザベラを『ご当主様』と呼んでいたらしい。


冷静に考えれば妻が当主の座に着くなど、男性優位のこの国で在り得ない事なのだが、イザベラを『当主』と呼ぶことに全く違和感を感じなかったのだ。


「次に貴方の手だな」


「手?ですか」


エマは手を広げ、自身の顔の高さで広げて見せる。


若々しく健康的ではあるが、エミリアの様に丁寧に甘皮が取られ、爪を可愛らしく塗った手と比べれば、令嬢らしい手とは到底言えなかった。


「クラウディンは貴族や王族が足を運ぶ程の大都市。上流階級の者達と度々顔を合わせる機会を持つ令嬢が爪の手入れをしていないとは思えない。」


イザベラもエマと同じ考えの様で、目の前の令嬢がエミリアではないと判断していた。


残るはエマとアイラであるが、アイラが自身の手を気に掛けるなど想像がつかない。ましてや貧乏領ノヴァックで何とか日々生活を送っているアイラには、爪に掛けるお金や時間などない様に思える。


「ノヴァック嬢も同様に爪を飾る事はしないだろうが、この特徴は、恐らく貴方だけだろう」


イザベラはそう言うと、エマの手を片方取り、手の甲を優しく撫でた。冷たい手ではあったが、しっかりと手入れされている指先は柔らかくしっとりとしている。


「ノヴァックの領主とその家族は人手が不足すれば実地へ赴くが基本はブレーン。カールソンの様に領民と同じく農作業に携わらない限り、この手にはならない」


そう言われたエマの手は、目立った傷などは見当たらないが全体的に乾燥していた。


農作業では水に触れる機会が多く、その影響で手が荒れてしまうのだ。どうやら水に触れる事で人間が本来持つ保湿力を低下させてしまう様で、乾燥する冬場になると良くひび割れを起こしてた。


「そ、そんな事まで・・・・」


イザベラの瞬時に人を見抜く洞察力にも驚かされたが、それ以上にその知見の広さにエマは感服していた。


人の上に立つ人間にとって、自身の管理している人や土地、全体の情勢などは把握していて当然の事ではあるが、それを実際に成し遂げるにはどれ程の労力が必要なのだろう。


アイラの仕事が実地での肉体労働ではなく指導者である事などエマすら知らない情報だ。ましてやノヴァックやカールソンなど知名度の低い領地の内情を、イザベラは当たり前の様に把握していたのだ。


人々から畏れられる存在でありながらも、その求心力は衰える事がないイザベラという存在は、エマの中で徐々に変化を遂げていく。


「イザベラ様の知見の広さには感服いたしました」


正直な感想を口にしたエマは、片膝を床へ着き、イザベラの前へと首を垂らす。


以前に招集された謁見の間で、王や王妃に対して取らされた儀礼の姿勢であったが、今は心の底から敬意を表したいと、そう思ったのだ。


しかし、最大限の礼儀を尽くしたエマに対し、イザベラの視線は乾いたものだった。


音を立て乱暴に椅子から立ち上がると、イザベラは持ってた扇で口元を隠しエマの周りをゆっくりと旋回し始める。


「王家の血を受け継ぐ者は、民を導き統率するためにも多くの事を知る必要がある。それが王族の義務であり、上に立つ者の宿命だ。そして天から与えられたその定めに従う我らは、全ての人間がひれ伏す対象であり、時には人の生き死にすら決定出来る力を持つ存在。カールソン嬢。その事を知らないなどと言わないだろうな。」


その声はどこまでも冷たく、そして気高い。先程まで隠されていたイザベラの敵意は、一瞬にしてエマの背筋を凍らせる。


『宿命』や『天』という言葉を使う彼女は、社交界でも有名な信徒だとエミリアが話していたのを思い出す。


夫の浮気相手を冷酷に処分している人間に神を信じる心などあるのかと疑っていたが、どうやら彼女は王族の在り方を神から見出している様だ。


コツコツとヒールを鳴らしながら、イザベラは更に追い打ちをかけていく。


「貴方がどれだけ小賢しい手を使おうと、王族の権利を脅かす事は出来ない。私達が一度首を振れば簡単に吹き飛んでしまう程儚い命だ。貴方の存在はもちろん、貴方の家族までもが危害を被るだろうな。王族に手を上げると言うのはそれ程重い罪だ」


家族の名を取り出されエマの肩がぴくりと反応する。垂らされた頭をゆっくりと持ち上げると、そこには鋭い光を持った瞳があった。


口を開く事も跪いた足を崩す事もないが、エマの態度はあきらかにイザベラに対する敵意を表している。


「っふ。王族相手に睨みを利かせるか。私の娘の件と言い、貴方は王族を随分舐めている様だ」


隠す事ない敵意を向けられたイザベラは、先程とは比べようもない威圧感を放ち始める。


細長い目から見える蛇の様な瞳、地鳴りにも似た人の心を揺さぶる声。


イザベラの怒りは人の生に対する執着を手放させる。


だが、今のエマは彼女が与える恐怖よりも、家族を脅かす者への怒りの方が勝っていた。


「いいえ。イザベラ様。私は貴方様の事を大変尊敬しております。王族という権力を持つのに相応しい聡明さを持ち、その立場に驕ることなく知見を広げる貴方様は正に国の頂に相応しいと心の底から感じているのです。民としては、ですが。」


「ほお。何が言いたい?」


イザベラへの賛辞を述べながらもエマの視線からは敵意が消える事がない。


真っすぐに見上げてくるその視線をイザベラも逸らすことはなく、互いに睨み合い続けている。


「『エマ』個人として申し上げるのならば、貴方は『敵』です。私は家族を脅かすその敵をどんな小賢しい方法を使っても制圧します。例え刺し違えたとしてもです」


「貴方ごとき令嬢に何が出来る。自身の力を過信する愚か者はっ!!?」


ッダン!!


「イザベラ様の屋敷には優秀な人間がいないようですね。仕方ありませんよね。貴方は殆ど屋敷にはおらず、屋敷を守るはずの夫は他の女に夢中な『クズ』。初めて貴方に同情しますよ」


冷たく言い放つエマの手には、食後の果物をカットする用のナイフが握られていた。


使用人の手によって磨かれたそれは、イザベラの白い首元に当てられている。


イザベラがほとんど足を運ばないマリアーノ邸は、アーチーとデイジーの手によって杜撰な管理がされていた。


働く従者達はまともに接客も出来ない程の礼儀知らずで、主人の好みすら把握できていない始末。何よりも王族であるイザベラをたった一人部屋に残すなど王城ではあり得ない。


だがその杜撰さがエマに唯一の機会を与えてくれたのは事実だ。


「短絡的だな。王族殺しは重罪だ。家族を守りたいのであればもっと頭を使ったらどうだ」


夫を『クズ』と称され、首元にはナイフを当てられた人間とは思えない程にイザベラは落ち着いた態度を払っていた。


「私は今、侍女として潜入しておりますので、どうぞお気遣いなく。それにこの服はある侍女からの借り物。いけ好かない女ですから、彼女を犯人にしましょう。これを脱ぎ捨てておけば勝手に捕まってくれるでしょうから」


淡々と語るエマの瞳は感情を失った人形の様に真っ暗だった。


背丈が高く、鋭利なヒールを履いているイザベラの首元にナイフを突き付けるには、エマの腕を完全に伸ばしきらなくてはならない。


力の入りずらい姿勢ではあるが、エマは冷静に以前アイラから教わった牛の捌き方を脳内で反芻させる。


(大丈夫。大丈夫。大丈夫・・・・。家族は、私が守る!!)


っぐっとナイフに力を入れ、勢いよく喉元へ突き刺そうとしたその時。


ッカン!!


「・・・・あ」


力いっぱい握りしめていたはずのナイフは簡単に宙を舞い、地面へと叩きつけられる。


暗い瞳をしたエマは、何が起きたかもわからずただ茫然と口を開け立ち尽くした。


「周りが役に立たない分、自分が成長するものだよ」


涼しい顔で喉元をさするイザベラの手には、口元に当てていた扇が握られている。


その扇一本で、エマからナイフを取り上げた様だった。


「短絡的で暴力的。王族に対する敬意すら持ち合わせていない。救いようのない愚か者だな」


コツコツとヒールを鳴らせながら先程当てられていたナイフを拾い上げに行く。


テーブルの上にはフォークや大皿、ワインが入った瓶など武器になりそうな物はいくつかあったが、イザベラの護身術を前にしたエマがそれらに手を掛ける事はない。


「・・・だが、屋敷内を把握し瞬時に状況確認を行う冷静さ。気に食わない侍女を犯人に仕立てるしたたかさは使いようによれば役に立つ」


拾い上げたナイフを片手にイザベラが戻ってくる。


手慣れた様子でナイフを扱い、テーブルの上へとそっと置いた。エマに戦意がない事を感じ取った様だ。


「エマ・カールソン。私の役に立ってはみないか?」


そういうイザベラは無邪気な子供を思わせる笑顔を浮かべているのだが、エマには牙をむき出しにした蛇にしか見えなかった。




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