8.小窓
再び目的の人物を探しに、オーウェンは意気揚々と花街の路地へ姿を消した。
先ほど相手にした大男以外にも、グレルの手配した情報網によれば数名の不審な客人がこの地に出入りしているらしい。堂々と上客を装い、裏では女性たちを買い取っているという悪質な貴族たちの存在は、まるでこの街の治安や監視体制が試されているかのようだった。
エマはノアと二人きりで再び部屋に取り残された。思えばこうして二人きりになるのは、マリアーノ家の馬車の中以来だ。あのときの沈黙がよみがえり、彼女はつい、疲れたような吐息を漏らす。
ノアは解放された窓辺に立ち、興味深そうに街の様子を見下ろしていた。彼の表情にはどこか子どものような好奇心が滲んでいる。
「ノア様、あまり姿をお見せにならない方が良いのでは……」
エマが小声で促すと、ノアははっと我に返り、すぐに窓から数歩離れた。
「王都とはまた違った雰囲気ですね……このような場所は初めて見ました」
珍しいものに心を奪われる少年のような顔。王専属騎士という立場で育ってきたノアにとって、このような花街の空気は縁遠いものであったに違いない。
「……よろしければ、こちらに」
エマは部屋の隅にある、小さな仕掛け窓の方を指さす。そこに腰を下ろすと、横長の小窓から目元だけを外に覗かせることができる。外から見れば気づかれることはまずない。
「これは……?」
「家主が面白がって作ったそうです」
そう言いながら、エマはその用途を簡単に説明した。本当は娼婦たちが客の選別に使うためのもの。目当ての男が通ったときだけ顔を出し、それ以外の客から身を隠す――そんなしたたかな工夫が詰まった窓だ。
「そうですか……」
ノアは説明を聞いたかどうかも定かでないほど、窓の向こうの世界に夢中になっていた。その表情はまるで、知らない国に足を踏み入れた旅人のようで、エマは少しだけ笑みを浮かべた。
(この方は、時々とても幼くなる)
普段は凛々しく威厳に満ちた騎士の顔。しかしこうしてエマの前では、時折ふと少年のように無垢な表情を浮かべる。
「あ、エマ様、見てください。あの方、手から水を……!」
小さなショーを見つけたらしいノアが興奮気味に指を差す。客引きの一環として、娼婦が仕掛けを使って水を出して見せているのだろう。二人で小窓から覗き込みながら、その様子を観察する。
「どのような仕組みなのでしょうか?」
「服の中に管が通っているのです。裏で支える人と息を合わせて、ちょうどよく水が吹き出すようになっているんですよ」
エマの説明にノアは大きく目を見開き、感心したように頷く。
「では、あれは……?」
視線の先を指さすノア。だがそちらは角度的に見えず、エマは身を乗り出すようにして窓へ近づいた――途端に。
「っ!」
ノアとの顔の距離が、一瞬で縮まる。二人の鼻先が触れるほどの距離で、どちらも固まった。
ノアは慌てて息を呑み、身を引く。
「あ、すみません。つい、夢中になってしまって……」
「……いけませんね。任を忘れては」
ノアは俯きながら、自身の軽率さを咎めるように呟く。その声はいつもの騎士のそれに戻っていた。
だがエマもまた、俯いたまま、ぽつりとつぶやく。
「たまには……良いのかもしれません」
正座のまま向き合う二人。視線は交わらず、しかし同じ感情の中にいることは確かだった。
「人は、他人に求められる役割だけでは、生きてはいけませんから」
母の承認、父の愛を求めて、幼い頃から「いい子」であろうと振る舞い続け、偽りの笑顔と完璧な言葉で自身を飾り、その結果、心を壊してしまった――それがデイジーだった。
理性と忠誠心を武器に己を律するノアが、彼女と同じように崩れていく姿は想像できない。
だが、彼もまた己を押し殺し続けるうちに、少しずつ内側から静かに壊れていってしまうのではないか。そんな不安がエマの胸にじんわりと広がっていた。
(余計なことを言ってしまった)
沈黙が流れる。エマは立場をわきまえない発言だったと、少し後悔の気持ちを抱いた。
――だが、沈黙を破ったのはノアだった。
「……そう、言ってくれますか」
その声に顔を上げると、ノアはどこか泣いてしまいそうな表情で、微笑んでいた。その優しさと切なさを湛えた表情に、エマの胸がきゅっと締め付けられる。
目が合う。街の光が窓から差し込み、二人の輪郭を淡く照らす。
そして――自然と、どちらからともなく顔が近づき、唇が重なった。
ゆっくりと、確かめるように。
ノアの腕がエマの身体をそっと包み込む。密着する胸の鼓動が、彼の高鳴る想いを雄弁に物語っていた。
「ど、どうしたらよいのでしょうか……」
抱きしめたまま、顔を赤らめるノアが、思わず問いかける。
「わ、私も……こういうのは、専門外ですから……」
互いにどうしてよいかわからず、ただただ温もりだけを確かめ合うように静かに抱きしめ合う。
そのとき――
「ノアくーん、お客様来るよー……って、あら」
場違いな明るい声が部屋に響く。気配にも気づかず夢中だった二人は、ようやく現実に引き戻された。
抱擁の姿勢のまま振り向くと、扉の前にはオーウェンが立ち尽くしていた。
「ごめんねぇ、邪魔しちゃったみたい?」
オーウェンが気まずそうに笑い、後ずさりしようとしたその瞬間、ノアが思わず叫んだ。
「こ、これはっ!!」
慌てて立ち上がり、瞬時に言い訳をひねり出す。
「貧血です!!」
「!!貧血です!自分の女装姿に……耐えられず、貧血を起こしてしまって……!」
(なぜ倒れるのはあなただ……)
エマは心の中で突っ込みながらも、冷静な表情で頷いた。
「そうなんだぁ。いや〜女装って意外と体力使うからねぇ」
オーウェンは気にも留めず、あっさりと納得して去っていった。




