7「暗れ塞がれた世界」
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痺れるような揺れは間もなく収まった。桜野はいち早く動いた。廊下の先へと進んで窓の傍に立つと、振り返って「土砂崩れが起きたようだよ」と云った。
僕も耕大さんも満代さんも唖然とした。
「窓の外……此処からはよく見えないんだけど……」
「土だよ。土で塞がってる」
「此処は二階だぞ」
「だからその高さまで、もしかしたら建物全体が、まるまる地中ということだねぇ」
僕は屋敷の北側に聳えていた急な斜面を思い出す。土砂崩れと云うと、あれが崩れたのだろうか。ケーブルネットも設置されていたけれど、役に立たなかったのか……?
「それが本当なら、大変なことだが」と云う耕大さんの声は震えている。
さらに満代さんの悲鳴が続いた。彼女は自室の扉を開けていた。僕もその中を覗き込み、同じく声を上げることになった。
黒いゴシック調のインテリアに溢れた、お洒落な部屋――だったのだろう。
しかし今は窓ガラスが割れ、其処から大量の土砂が流れ込んでいる。部屋の奥半分ほどが埋まり、押し流された棚や椅子が手前の方で倒れている。それらを照らしているのは天井の照明だ。窓の外は完全に塞がれ、わずかの明かりも差し込んでいない。
「そんなあ! ひどすぎますう!」
悲痛な声とともに満代さんは変わり果てた自室へと入っていく。
「ああっ、ああっ、滅茶苦茶じゃないですかあ!」
「満代さんの部屋は北向きだよね。希望があるとすれば南側じゃないかな」
桜野がそう云いながら廊下を戻ってくる。耕大さんが「こっちだ!」と云って、逆方向に廊下を進み出した。自室の状態を確認するのに必死な満代さんを残し、桜野と僕は彼について行く。
たしかに大変な事態だ。僕もようやく事態が飲み込めてきた。
「最初に聞こえた音……爆発音みたいじゃなかったか?」
「私にもそう聞こえたよ」
「耕大さん、この上に何か工場とか施設はあるんですか」
「何もないよ。俺が知る限りは」
「じゃあ、可燃性のガスが出ていたり」
「判らない。申し訳ないが。爆発だなんて、何が何だか……」
廊下を曲がるや否や、彼は「ああっ」と嘆息した。突き当たりに南向きの窓がある。しかし窓の外に、本来見えるはずの景色はない。黒く塗り潰されている。
腕時計を見ると午後四時二十分。日没にはまだ早い。ガラスが割れるのは免れたようだけれど、桜野が確認した東向きの窓と同様、土砂で埋まっているのだろう。
「まずい。これは非常にまずいことになったぞ!」
「他も、全部の窓を確認しましょう。埋まってない窓があるかも知れません」
僕の発言に、桜野が「そうだねぇ」と同意してくれる。
「あとは一階の様子も気になるね。他の人達は無事なのかな?」
耕大さんは僕らに振り向き、呆気に取られたような表情を見せた。
「さすが……二人とも冷静だねえ?」
「いえ。僕も動揺していますよ」
殺人事件の現場なら慣れているものの、こんな自然災害に遭うのは初めてだ。むしろ僕はまだ実感が追いついていないのかも知れない。桜野は本当に呑気そうだけれど……。
脱出経路の確保も重要だが、先に確認すべきは安否だろう。僕らは耕大さんの案内で、上ってきたのとは別の階段から一階に下りた。廊下には異変がなかった。少し進むと見覚えのある場所に出る。総一郎さんの書斎へと真っすぐに通じるそれだ。
とりあえず、総一郎さんの書斎に入った。しかし中にいたのは彼女ではなかった。
白衣を着た小太りの男性と、藍色のドレスを着た可愛らしい女の子である。
「ああ久保田さん……恵も無事で」
「これが無事と云えるなら良いのだがな! 裏の斜面が崩れたようだぞ。窓を見てみろ。まるで地中の体験ツアーだ! 此処はアリの巣か!」
男性がまくし立てた。話している内容は苦情なのに、その顔はなぜか嬉々としている。
久保田さん……先ほどやって来た、天地家を担当していると云う医者の先生だろう。実年齢は耕大さんとあまり離れているように見えないが、髪が少し薄い。メタルフレームの丸眼鏡を掛けている。白衣の下は、ストライプのシャツに黒のスラックスだ。
「こりゃあ吾輩は幸か不幸か判らんな! 時間がちょっとズレていたら外で即死だっただろうし、もっとズレていたらそもそも此処に来とらん!」
声は溌剌として若いけれど、喋り方は古風と云うか何と云うか、かなり特徴的である。
もう一方の女の子はこちらに駆けてくると、桜野の前でぴたりと立ち止まった。くりくりした目で桜野を見上げるその顔に、不安や恐怖は感じられない。そこにあるのは明るい期待だ。
「お姉さんが名探偵?」
「うん。貴女が恵ちゃん?」
女の子は頭が飛んでいきそうなくらい、首を勢い良く縦に振った。三つ編みおさげにした黒髪が揺れる。それから表情をいっそう輝かせて、
「そう! 天地恵。本物の名探偵に会うのって初めて! お姉さん、すっごく頭が良いのでしょう? 何でも判るの?」
「私じゃなくても、人間というのは何でも判るものだよ。調べたり、考えたりすればね」
「これできる?」
恵ちゃんは肩からポシェットを斜めに掛けていて、そこから取り出したのは未完成のルービックキューブだった。各面が三×三で構成された定番の形である。彼女はそれを桜野に差し出す。
「名探偵?」と首を傾げる久保田さんには、耕大さんが簡単に事情を説明した。ずっと興奮気味でいる医者は「そいつは面白い!」とまたもや喜色満面となり、僕に歩み寄ると握手を求めた。僕が応じたところで、今度は恵ちゃんの嬌声が響く。
桜野がルービックキューブを完成させたようだ。たぶん一分も経っていない。
「すごーい! なんでできるの?」
「ルービックキューブは解き方が判っているパズルだ。試されるのは知能じゃなくて技術。つまりスピードだね。解けても驚くには値しないし、私は全然早くないよ」
「え? え?」
大人げない正論で、子どもを困惑させている……。
「はっはっは。探偵というのは、その手のパズルにも精通しとるものかね。どうも。吾輩は開業医の久保田幸彦。ひとつよろしく」
「よろしくぅ」
桜野は気の抜けた返事をしながら、久保田さんの握手に応じた。
「吾輩も探偵小説には目がないタチでな、ジョン・ディクスン・カーやヴァン・ダインのような海外の古典が好きなのだ。若いお嬢さんとは話が合わないかも知れんが」
「私に関しては杞憂だね。カーもヴァン・ダインも私にとっては人生の師だよ」
「そうか! いやはや趣味の良いお嬢さんだ。いわば吾輩と同門だな。探偵としての力量もさぞ信用できたものだろう」
早くもミステリの話題で意気投合しそうだ。まるで緊張感に欠けた空気のなか、ひとり落ち着かない様子の耕大さんが二人の会話を遮って訊ねる。
「久保田さん、総一郎と豊はどこだろう?」
「知らん。恵と客間にいたらこの土砂崩れが起きたんで、とりあえず此処に来てみたのだがな。既に二人ともおらんかった。隣の部屋にもおらんぞ」
「拓也は? 一緒じゃなかったのかい?」
「拓也ならさっき会った。最初に玄関を出てきたのは奴だったのだがな、そこに恵が来て、恵が吾輩を案内すると云うから奴はどこかに行ってしまった」
「それは心配だなあ……」
「お前さんの方は大丈夫なのか? ひどい発汗だぞ。動悸はしとらんか?」
「俺は平気だ。それより……ああ、呼び掛けることにしよう!」
耕大さんは身を翻して扉の方に向かった。しかし部屋を出るわけではなく、目的は壁に取り付けられたインターホンの機器だった。
『耕大だ。いま総一郎の書斎にいる』
彼の言葉が、一秒未満の時間差で廊下のスピーカーからも流れているのが扉越しに聞こえる。なるほど。門や玄関とのやり取りだけでなく、館内放送も可能というわけだ。
『久保田さん、桜野さん、塚場さん、恵も一緒だ。はぐれてしまったが、満代も無事だね。みんな総一郎の書斎に来てくれ。数分待っても来ない者がいたら、俺達の方から探しに行く。もし動けない状態なら、申し訳ないが少しだけ待っていてほしい。繰り返す。総一郎、豊、拓也……あと満代も、無事なら総一郎の書斎に来てくれ』
放送を終えた耕大さんに、久保田さんが「お前さんはソファーに座って休んでおれ」と促す。たしかに彼は汗だくで、呼吸も少し苦しそうだ。
それから二、三分後、総一郎さんが、豊さんの座った車椅子を押しながらやって来た。
二人とも怪我はなかった。さらに二人は、窓の外が土砂に埋まっているのを目にして大変驚いた。今まで知らなかったようだ。
「揺れがあったとき、あたし達は蔵書室にいたのよ」
蔵書室は此処から近い部屋で、その名のとおり各人の私室には収まりきらない大量の書物が保管されているとの話だ。豊さんが次に読む本を探したいと云って、しかし車椅子では本棚の高い段には手が届かないため、総一郎さんが付き添っていたらしい。
「蔵書室には窓がないから、まさか土砂崩れとは思わなかった。地震だろうと思ったの。揺れはすぐに収まったけど、余震の惧れもあるでしょう? だからひとまず豊を外に避難させようと考えて、玄関へ向かったんだけど……」
「屋外の方が危険とは思わんかったのか」と、久保田さんが口を挟んだ。
「此処は周りに建物がなくて、開けているから。でも、そうね、大きな土砂崩れは想定できてなかったわ。いま現に土砂崩れに遭ってもこの屋敷は無事のようだし、地震の場合でも屋内にいるのが安全ね」
「この屋敷は新しい。そして何より鉄筋コンクリート造だろう? 大地震でも土砂災害でも、RC造の建物は無事なことが多いらしいぞ。特に土砂災害なんて、RC造のアパートが土砂を受け止めたおかげで、その下の建物は被害が少なくて済んだなんて話も聞く。木造や鉄骨では駄目だ。吾輩の実家はそれで崩れた!」
久保田さんの饒舌を、総一郎さんは「勉強になるわ」のひと言で受け止めた。
「あたし達は玄関に着いたけど、扉は開かなかった。錠は開いているのに、力いっぱい押してもビクともしないのよ。それほど大きな揺れじゃなかったのに、ドア枠が歪んでしまったのかと思ったわ」
「外が土砂で塞がっているせいだろう」と耕大さん。
「ええ。でも、あたし達は土砂崩れを知らなかった。そこに耕大の放送があったから、外に出ることは諦めて此処に戻ってきたというわけ」
「玄関が外開きで良かったな。もしも内開きだったら、開けた途端に土砂が流れ込んできて、無事で済まなかったかも知れない……」
「本はどうしたの?」
桜野が訊ねた。彼女の視線は豊さんに向いていた。
白い狐の仮面も、彼女の方に振り向く。
「僕に訊いてる?」
「うん。蔵書室で本を選んでたんでしょ?」
「結局、選べなかったんだ。揺れが起きたから」
「そっか。満代さんと拓也さんがまだ来ないねぇ」
今度は全体に向けた発言らしい。耕大さんが応える。
「もう一度、呼び掛けてみよう。放送が聞こえない部屋もあるからね」
彼はインターホンの機器へ向かったが、それには及ばなかった。ちょうど部屋の扉が開いて、満代さんが入ってきたのだ。しかし彼女の顔は真っ蒼で、呼吸も荒かった。そのまま部屋に入ってすぐの位置で立ちすくんでしまった。
「どうした満代。大丈夫かい?」
耕大さんの問いに、彼女はビクッと肩を震わせた。唾を飲み込むのが判った。その表情が今にも泣き出しそうに歪んだ。そして彼女は訴えるように云った。
「拓也が……死んでます!」




