8「頭の割れた死体」
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先ほど僕らが二階へと上がる際に使った階段だった。
拓也さんはうつ伏せで横たわっていた。階段を上がっていく途中で、前のめりに倒れたような格好だ。顔は横を向いていて、目を見開き、口から舌を垂らしている。驚愕が浮き彫りになった表情。その反対の後頭部は大きく割れ、流れ出した血液が白いジャージを背中の方まで赤黒く染めている。
久保田さんと、それから桜野が、脈や呼吸、瞳孔を確認した。満代さんが報告したとおり、たしかに事切れているという結果だった。
「やだあ!」と叫んで泣き出した恵ちゃんを、まだ顔面蒼白の満代さんが死体の見えない位置まで連れていく。総一郎さん、耕大さん、豊さん、僕は階段の下から死体を見上げているが、僕は呆気に取られてしまい何も云うことができない。仮面で顔が隠れている豊さんを除いて、全員の表情に色濃く動揺が表れている。
「ちょうど階段を上がっているときに、揺れが起きたということだろうか。それで前に倒れて、頭を打って、その打ち所が悪かったという……」
耕大さんの発言に、死体の傍らに膝を突いている久保田さんが「いや」と応える。
「打ち所が悪いなんて話じゃないぞ。こんなに派手に割れとるんだ。それにお前さんの説なら額が割れるはずだろう。だが割れたのは後頭部で、しかも上を向いとる」
「じゃあ……即死じゃなくて、転んでから横向きに半回転したんじゃないかな? それに階段を上がっているときじゃない……下りているときに揺れがあって、後ろ向きに倒れたなら、そういう傷になるだろう?」
「なるほどな。向きの問題はそれでいいかも知れん。だがこの傷の有り様は説明できんよ」
久保田さんは死体の後頭部に顔を近づけて、眼鏡を前後に動かしながら観察する。さすがの彼も今は真剣な表情だ。声のトーンも低い。
「滅茶苦茶な傷だ。複数回、打撃を加えられとる。階段で転んでもこうはならん」
「他殺ということだね」
桜野が云った。彼女は死体より下の段で、壁を背にして立っている。階段は幅が一メートル以上あるため、そうすれば階段下の僕らが死体を見上げるのに妨げとならない。
「他殺! そんな……どうして!」
「どうしてなのかは、これから考えることだ。ただ此処に、判りやすく他殺の事実を示している死体があることは確かだよ」
「だが……何かの間違いじゃないのかい!」
「耕大、もう少し美海子ちゃんの話を聞きましょう」
取り乱しかけた耕大さんを、総一郎さんが窘めた。
土砂崩れの次には他殺体の発見。この状況に僕だって大いに混乱しているのが正直なところだ。しかし桜野や総一郎さんに救われる。こういうとき周りに冷静な人がいるというのは、心の拠り所となってくれるものである。
桜野は「うん」と一度頷いてから話し始めた。
「まず思い出してほしいんだけど、そもそも私は、総一郎さんから依頼を受けて此処にいる。天地家に脅迫と読める内容の手紙が届いたからだ。差出人は〈天国と地獄の処刑人〉を自称している。処刑人という言葉は、死刑執行人の通称だよ」
そうなのか。恥ずかしながら僕の認識は曖昧だった。処刑人というのは死刑に限らず処罰を与える人間くらいに思っていたのだが、それが死刑に特定されるということは……。
「つまり、殺人事件が起きるという展開は示唆されていたわけだ。それを未然に防ぐことができなくて、こうして起きてしまったことについては謝るよ。ごめんなさい」
「そんな。簡単に……」
耕大さんが苦言を呈しかけたところに、総一郎さんが言葉を被せる。
「手紙の差出人が拓也のことも殺したと、美海子ちゃんはそう考えているのね?」
「もちろん確定的ではないけどね。でも、さらに云えばこの屋敷はいま土砂崩れによって完全に地中に埋まっている可能性が高い。私はこの状況も〈天国と地獄の処刑人〉によって意図的につくられたものじゃないかと思ってるよ」
「土砂崩れが?」
総一郎さんは怪訝そうな顔をした。
「こんな自然災害が、意図的というのは……」
「揺れの前に爆発音が聞こえたんだ。塚場くんも聞いたよね?」
「ああ。そんな感じの音だったと思う」
僕が答えると、久保田さんも「たしかにそうだった!」と続いた。耕大さんも少し曖昧だが頷いている。
「屋敷の北側が、急な斜面になっているよね。しばらくは土が露出しているか、短い草が茂っている程度だったけど、上の方には木が生えてる。たぶん木々に隠すようにして複数の爆弾が設置されていたんだ。もしかしたら地中に埋めてあったのかも知れない。ともかく、その爆発によって土砂崩れを起こして、この屋敷を上から埋めてしまった」
「ちょっと受け入れがたいわね。そんなことをする人がいるなんて……」
「でも総一郎さん、今一度、脅迫文の内容を思い出してみてほしいな。あれには『地の底に沈め』とも書かれていたでしょ? むしろそれが本文だったよね?」
誰かが「あっ」と声を発した。
僕は手帳を開いた。脅迫文を書き写してある。
『地の底に沈め。罪人は地獄に落ちなければならない。』
『天国と地獄の処刑人より』
桜野の云ったとおりだ。たしかに書いてある。
「この状況も予告されていたんだよ。正確には地中に埋まった程度で、底に沈んだとまでは云えないけど。あまりに具体的に書いたら、事前に避難されてしまうからね」
いや、仮に『地中に埋まる』と書いてあったとしても……まさか爆弾なんていう普段の生活から縁遠いものを使って、こんな事態をつくり出すつもりとは想定できなかったんじゃないだろうか?
巷では時折、イベント会場や学校なんかに対する爆破予告が報道されている。だが実際に爆弾が仕掛けられていた例は聞かない。直截的な爆破予告でさえ、いちいち真に受けるべきか判断がつかないのだ。
「あたし達を生き埋めにすることが、差出人の狙いだったということ……?」
総一郎さんが確認の問いを発した。そのとおりだろうと思ったが、桜野は返事しなかった。指先で唇を撫でている。何かを考えているときの彼女の癖だ。
代わりに口を開いたのは豊さんだった。
「生き埋めとは限らないんじゃないかな」
狐の仮面のせいで口元は見えないけれど、男性にしては高い声が続き、その喋りに合わせて仮面や肩がわずかに揺れている。
「犯人の狙いとしては、土砂崩れによってこの屋敷も壊滅的な被害を受けて、僕らはみんな死ぬはずだったのかも知れない。つまり僕らがこうして無事でいるのは、犯人にとって誤算というわけだよ」
「でも豊……ああやって拓也は殺されているのよ?」
険しい表情の総一郎さんが、死体を見上げながら云う。
「土砂崩れによって全滅させる計画だったなら、どうして拓也を撲殺したのかしら? 拓也のことも土砂崩れに任せればいいのに。これは不整合よね?」
さすが第一線で活躍するミステリ作家だ。よく瞬時にそこまで頭が回るものだと僕は感心した。
そして彼女の読者であり〈家族〉である豊さんも、ほとんど間を置かずに答える。
「拓也に対しては、特別な恨みがあったんじゃないかな。だから万が一にも生き残るなんてことがないように、拓也だけは直接殺した。それから屋敷を脱出して、安全な場所まで避難して爆破を起こした……と、こう考えることができる」
彼の説明は判りやすいが、どういうわけか僕はいまいち腑に落ちなかった。
そんな単純な解釈で良いのだろうか?
「豊さんは、犯人は外部からの侵入者で、もう此処にはいないと考えているんだね?」
桜野が唇から指を離した。僕は彼女の発言に期待を寄せる。
豊さんは「それが自然だと思うよ」と言葉を返す。
「土砂崩れを起こした犯人が、こんな危険な場所に留まっているはずがない」
「どうだろうね? さっき久保田さんも話していたとおり、多少の土砂崩れなら、この建物は充分に耐えられる見込みが高い。私も、大規模な土石流が起きたときに鉄筋コンクリート造の建物だけが残った実例を知ってるよ。もしも犯人が土砂崩れによって天地邸の壊滅を狙ったなら、もっと念入りに、屋敷の周囲ごと爆破したはずじゃないかなぁ」
「じゃあきみは……犯人が自ら、僕らと一緒にこの屋敷に残って、生き埋めになっていると云うの?」
「現時点で、その可能性を排除すべきじゃないと思ってる。爆弾の起動に関しては、時限式か遠隔操作もあり得るからね。屋敷にいながら爆破させることは可能だ」
「でも何のために、そんなことをするんだろう? 無理心中のつもり?」
「無理心中ならさっきと同じだよ。天地邸ごと壊滅するような土砂崩れを狙うはずだ。この状況が犯人の計画どおりなら、真っ先に思い付く目的は、屋敷から誰も逃げられない状況をつくることだねぇ。そうやって、拓也さんだけじゃなくて、さらに殺人を重ねていくつもりかも知れない」
「連続殺人か!」
久保田さんが、思わずといった調子で叫んだ。
「そうだね。そして無理心中にしなかった以上、目的の連続殺人を遂げた後、自分は生き残るつもりかも知れない。自力での脱出が不可能なら、これは外部からの救助に頼ることになる。すると、どうなるだろう?」
桜野は皆を見回した。しかし誰も反応できない。彼女が何を云おうとしているのか、まだ思考が追いついていないのだろう。
やがて痺れを切らした耕大さんが「どうなるんだい?」と訊ねた。
「連続殺人じゃなくても、既に犯人が拓也さんを殺害しているのは事実だ。殺人事件があって、さらには犯人が逃げ出せない状況。そして救助が来たとき、その中に此処にいるはずのない人間が混じっていたら、彼ないし彼女は一番の容疑者となってしまうよね?」
「ああ……たしかに」
「言い逃れは難しいよ。自分以外の人間全員を殺害して死人に口無しの状態にしておくというのも、現実的じゃない。土砂崩れとは関係のない他殺体がゴロゴロと転がっているなか、唯一の生存者が犯人でないと主張できるような言い訳なんて、ちょっと思いつかないからね」
全員を殺害――という言葉に一同は息を呑んだが、その後の説明で安堵した気配が感じられた。少なくとも僕はそうだった。しかし、その安堵は長く続かなかった。
「すると犯人は今この場所にいる皆さん……この屋敷にいることが不自然ではないメンバーの中に、混じっているということになる」
「えっ!」
大勢の視線が、瞬く間に交差した。驚きと動揺と恐怖。
そのなかで、少し立ち眩みを起こしたらしく見えた耕大さんが声を上げる。
「ちょっと、待ってくれ。それはあり得ない!」
「どうして?」
「此処にいるのはみんな家族だからだ!」
汗だくの彼は、そう云った後で遅れて付け加える。
「久保田さんも、長い付き合いだ。こんなことをする動機がない。まさか桜野さんか、塚場さんが殺人犯なのだと、自白しているわけじゃないだろう?」
「もちろん私と塚場くんは犯人じゃないと主張する。耕大さんが証人だよ。だって私達は生きている拓也さんと会った後、今までずっと貴方と一緒にいるんだからね」
「ああ、そうか……そうだね……」
僕も気付いていなかった。まだそこまで考える余裕が持てていなかったと云うのが正しい。なにせ拓也さんの死体が発見されたのは、つい先ほどのことなのだ。
既にアリバイの検討にまで頭が回っている桜野が異常なのである。
「僕はやっぱり、桜野さんの論理は飛躍しているように思う」
豊さんが再び発言した。彼も驚くほど冷静なひとりだ。仮面で表情が隠れているために、その印象がより強まっている感がある。
「犯人が鉄筋コンクリート造の強度を甘く見ていたのかも知れないよ。土砂崩れの程度を計算するなんて、そういうシミュレーションのプロでもない限り無茶だろう。自分ごと生き埋めにして、さらには救助されることまで見込むなんて、そんな計画は空想的すぎる」
「そうだ!」
耕大さんが豊さんに同調する。
「桜野さんは探偵なんて職業をしているから、すぐに連続殺人とか、そういう方向に考えるんだろう? 俺達の不安を煽るようなことばかり云うのはやめてくれ!」
違う。桜野は不必要にそんなことをする人間じゃない。
僕はそれだけでも主張しようと口を開きかけたが、そこで「あのお!」とひときわ大きくて高い声が響いた。みなの視線が向いた先に立っているのは満代さんだ。
「いつまで話しているんですかあ! 口論なんかより、まずは通報すべきじゃないんですかあ? それか救助要請なのか……何か判りませんけどお!」
彼女の腰元には、恵ちゃんが抱き着いて顔を押し付けている。
冷静なつもりでいながら、僕らはいつの間にか議論に熱中してしまっていたらしい。彼女達を見ていなかった。
「久保田さん」と、総一郎さんが呼び掛けた。「改めて確認するけど、拓也が事故じゃなくて他殺であることは確かなのね?」
問われた医者は腕を組んで「そうだなァ」と唸る。
「無論、断言はできんよ。誰かが殺したところを見たわけじゃないからな。だが単なる転倒でこんな傷ができて、遺体がこんなふうに倒れている状況は生まれないわなァ。吾輩は警察医じゃないが、誰かが鈍器のようなもので殴ったか、階段に何度か叩きつけるようにしたものと見える。総一郎、お前さんも間近に寄って見れば同じことを思うはずだぞ」
「判ったわ」
総一郎さんは咳払いをしてから、皆に対して語り掛ける。
「消防と警察に連絡しましょう。それに屋敷内の状況も見て回りましょう。特に二階は、土砂で埋まっていない窓がないか確認すべきね。ただし必ず複数人で行動すること。土砂崩れを起こして拓也を殺した犯人が、既に遠くへ逃げているのか、この屋敷に潜んでいるのか……どっちかに断定できるだけの根拠はないんだから、用心は必要だわ。慌てないで、冷静に、できることを順番にやっていきましょう」
誰も反論する者はいなかった。




