5「六年前の不幸な事故」
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総一郎さんの部屋において、左右の壁を埋める巨大な本棚。ただし、いずれも奥まで一メートルというところで途絶えている。其処に隣室へと通じる扉があるからだ。
右隣は総一郎さんの寝室。
左隣の部屋が、天地豊が使用しているそれだった。
廊下からも入れるとのことだが、僕らは総一郎さんの部屋から扉一枚で、その部屋へ移動した。豊さんは窓際に座って本を読んでいた。
座っているのは車椅子。
僕らに気付いて見上げたその顔には、白い狐の仮面。
それも首から上を黒い覆面ですっぽりと覆った上から、さらに仮面を被っている格好だ。首から下も、暗い紺色をした縦縞模様の浴衣の下に、さらに黒いタイツで全身を覆い、手には黒い手袋を嵌めている。肌の露出している箇所がまったくない。
「豊よ」と、総一郎さんが紹介した。「知ってると思うけど……豊は事故で全身に火傷を負って以来、こうやって肌を隠しているの。理解して頂戴」
「うん。六年前、この天地邸で事故があったんだよね」
「ええ」
僕は調べてきた情報を思い出す。豊さんは屋敷の裏に穴を掘って何かを焼却していた際、誤ってその中に転落してしまったのだ。命は助かったものの、全身に火傷痕が残り、さらには怪我により歩行も難しくなった。以来、車椅子での生活となっている。
しかし事情を知っていても、その風貌は異様に思われた。これで生活を送っている姿が上手く想像できない。天地邸という特殊な環境でこそ、辛うじて逆説的な現実味を持って受け止められる話という気がする。
総一郎さんは豊さんにも、桜野と僕を紹介した。桜野の来訪については、日取りの決まった一昨日の時点で〈家族〉全員に話していたようだ。豊さんは声を発さず、頭を下げることで挨拶とした。
代わりに総一郎さんが再び、僕らに向けて説明を加える。
「豊は八年前、天地家が生まれた最初期からの家族よ」
「当時はまだ十五歳だったんですよね」
桜野が反応しないので、僕が合いの手を入れた。これも調べてきた情報だ。
「随分と若いときに、家族に参加されたんですね」
「豊は産まれたときから母子家庭で、しかもネグレクトを受けていた。戸籍も住民票も登録がなくて、はじめは小学校にも通えなかったの」
「戸籍や住民票がないと、学校に行けないんですか?」
「そうとは限らないわ。でも国や自治体がその存在を認知していない以上、就学通知書が届かない。そして豊の母親は代わりに何か対応することもなかったから、そのまま就学から漏れたのね」
「なるほど……」
この国で子どもがそんなふうにして学校に通えないことがあるなんて、僕はこれまで想像したこともなかった。
「ただし、豊は放置されていたというだけで、必要以上にその存在を隠されたり、家に閉じ込められたりしていたんじゃないわ。外に出ることもできたみたい。子どもが学校にいるはずの時間帯に出歩いていたから、やがて近所の人の通報によって警察が介入して、無戸籍児であることが明るみとなった」
「ああ、それで戸籍を?」
「いいえ。母親は非協力的で、その後も豊は戸籍がないままだったわ。出生証明書も紛失していたのね。でも周囲の大人たちの働きかけによって、小学校には三年生の途中から通えるようになった。もっとも、しばらくは保健室や空き教室での個別指導だったし、他の生徒がいるクラスに入ってからも、上手く馴染めなかったようだけど」
「そうですよね……」
「豊の楽しみは、学校の図書室から本を借りて読むことだった。そして彼は中学校に上がって、あたしの小説に出逢った。あたしが『無戸籍という生き方』を発表したころね」
「総一郎の小説は格別だったよ」と、初めて豊さんが言葉を発した。
仮面のせいで口の動きは見えず、声もくぐもっているけれど、男性のそれと判る。少し高めで幼い印象だ。
呼び捨てであることを意外に思ったが――そうだ、二人の関係は〈家族〉なのだった。
「当時、色んなメディアで『無戸籍という生き方』が話題となっていたから、それで気になったんだ。でも最初は小説から読んだ。ミステリを読むのも僕には初めてのことで、こんなに面白い小説があるのかと衝撃を受けた」
桜野が「うん。そうだよねぇ」と相槌を打つ。
「僕は総一郎の熱心な読者になった。過去作を立て続けに読み漁ったよ。それから『無戸籍という生き方』を読んで、また大きな感銘を受けた。総一郎は、無戸籍者が戸籍を得て、この社会に参加するようにとは促さなかった。無戸籍のまま、社会と距離を置いて、むしろ社会を上手く利用しながら生きる方法を提唱したんだ。無戸籍のままで良いと肯定してくれたんだよ。そんな人は僕の周りにいなかった。僕が漠然と抱いていた違和感が正しいものだったと、そう教えてくれたのが総一郎だ」
彼の喋りは流暢で、内容もよく整理されている。おそらく、普段から来客に対して語っているのだろう。
「そして『新しい家族のすゝめ』が発表されて、天地家への募集が始まったとき、僕は中学三年生だった。中学を卒業後すぐに家族に入れてほしいと云って、僕はこれに応募した。まさか本当に入れてもらえるとは思ってなかったけど……選んでくれたことを、総一郎には今でも感謝してるよ。此処は僕の居場所だ。他には考えられない」
「ありがとうございます。よく判りました」
僕は礼を述べつつ、豊さんがそう思っていることに安心した。この屋敷に来てから不幸な事故により全身の火傷と歩行障害を負ってしまっても、恵まれない環境に生まれ苦しんでいた彼からすれば、此処は変わらず救済の地なのだ。
しかし桜野が「でもさぁ」と、逆接の接続詞を発する。
「此処をそんなに素晴らしい場所とは思ってない人がいるわけだよね。天地家の人達に対して『地獄に落ちなければならない』なんて書くくらいなんだから」
「例の手紙だね。僕には、理解できないことだけど」
「豊さんから見ても、いまの家族はみんな此処を気に入ってる様子なの?」
「もちろんだよ。嫌なら抜ければいいんだ」
「家族からはいつでも抜けられるの?」
狐の仮面が縦に動く。後の説明を総一郎さんが引き取る。
「あたし達は互いを束縛しないわ。それは旧来型の家族の在り方よ。あたし達は常に、自由意志によって結束している状態でありたい。離脱したいと思う者がいるなら、むしろ引き留める理由を持たないの」
「理屈は判るよ」
桜野は含みのある云い方をした。
理屈と実際とは違うかも知れない、ということだろう。
「豊さんに質問なんだけど、まったく歩けないの?」
「ああ。自力では、ほとんど歩けないよ」
「どのくらい?」
それから桜野は、豊さんの歩行障害について詳しく聞き出した。
彼は穴に転落した際に脊髄を損傷し、下半身に麻痺が残っているらしい。そのせいで両脚が満足に動かせない。何かに掴まるか、他人から支えてもらうことで、はじめて立ち上がったり、短い距離を歩いたりすることができる。あるいは松葉杖があれば、ひとりでも少しくらい歩けるかも知れない。しかし車椅子があるので、この屋敷に杖はないと云う。
車椅子は自力で動かせる。上半身には、特に不自由はないとのことだ。
日常生活においては、ベッドと車椅子の間なら自力で移ることができるし、トイレもひとりで済ませられる。ただし入浴や下半身の着替えには介助が必要で、基本的には総一郎さんが担う。同性である耕大さんの方が適任ではないかと思ったが、〈家族〉なのだから同性とか異性とか考えるのはナンセンスなのだろう。豊さんと総一郎さんの部屋が隣同士となっているのも、そういう事情のようだ。
豊さんが屋敷の二階に上がることはない。二階は他の家族の私室がメインであり、彼個人の生活は一階で完結できる。
「外に出ることはある?」
「総一郎に付き添ってもらって、たまに出ることはあるよ」
「手紙が発見されたのが二十四日だけど、前日の二十三日以降、外に出ることはあった?」
「昨日の昼に、総一郎と一緒に屋敷の周囲をまわった。その前がいつだったかは……憶えてない。二十三日よりはずっと前だったと思う」
桜野は総一郎さんの方を向く。総一郎さんは「あたしの記憶も同じ」と答える。
「ありがと。豊さんに訊きたかったことは……ああ、やっぱりもうひとつ」
桜野が、彼の仮面を指差した。
「白狐の仮面を選んだのも、総一郎さんの小説が元ネタでしょお」
「そう。『絶世アルデヒド』に登場する、名前のない男が被っている仮面」
仮面の下で、彼が少し笑った気がした。




