「天国でも地獄でもない場所」(終)
天地邸での殺人事件が真の終結を迎えてから、はじめの一週間は、この事件を小説に書くかどうか迷った。
僕は小説を書くにあたって、遺族や関係者の許可を取るようにしている。しかし今回の事件では結局、遺族や関係者と呼べる人が残らなかった。生存者がみんな犯人だったからだ。当然ながら、いくら僕でも犯人の許可まで求めることはしない。
よって、その点で小説化を阻む要因はなかったのだが、一方で〈桜野美海子シリーズ〉は娯楽作品として消費される側面がある。現実に人が殺され、複雑な背景を持つ事件を、あまり軽々と面白おかしい小説にすべきではない。
特に今回の事件は、いつも以上に、誰も報われない事件だったと思うのだ。
真相が暴かれて、犯人が捕まっても、それで喜ぶような人が誰もいなかった。
そんな事件を小説にしていいのだろうか? しかも、事件の記録や問題提起を目的とするノンフィクション小説でもなく、娯楽性を含むミステリとして。
「良いに決まってるじゃん」
そう云ったのはやはり桜野だった。
「娯楽性や通俗性は、ミステリという文学形態が持つ大きな武器だよ。それは不真面目ということではまったくない。ミステリはただの謎解きパズルとは違うんだ。それを通すことで、より多くの人達に、より効果的に、人物とかドラマとか社会問題なんかを伝えることができる、極めて優れたフォーマットなんだよ。そもそも書かなければ何も伝わらないよね。塚場くん、きみは世間の批判を恐れているだけじゃないの? だとすれば考えが甘すぎるねぇ。批判されるのも小説家の仕事だし、それだって作品を世に生むことの意義じゃないか。迷う必要なんてどこにもない。書いた方が良いに決まってるよ」
そんな彼女の熱い勧めを受けて、書くことにした。
……なんて説明では、まるで自分の意思がないみたいだけれど。
しかし心から納得したのだ。ただ流されただけではない。現に小説を書くのは僕である。真摯に向き合い、持てる力のすべてを尽くして、事件の一部始終を描くと決めた。
ミステリであることを躊躇わない。
桜野みたく、そのことに誇りを持って、ミステリを全うする。
それを通じて読者の皆さまに、無戸籍問題をはじめとする、この事件の背景となった様々な事情についても知ってもらえたら良い。そうやって生まれた問題意識が、その改善や根絶、同じ悲劇を繰り返さないことに繋がってくれたなら、それ以上のことはない。
そう勢い込んで執筆に着手してから、一ヶ月が経った日のこと。
小説はまだ全体の半分ほどしか進んでいない。ひと息つくには早かったけれど、ひたすら陰惨な事件の記憶を文章化していくなかで、僕はどうしても気が滅入ってしまった。自律神経も乱れ、このまま部屋に籠って書き続けることに限界を感じた。
そこで久しぶりに〈桜野美海子探偵事務所〉を訪れた。
桜野はデスクに向かって、資料の山と格闘していた。
もっとも、彼女はいつもどおり平然としている。ミルクティーなんて飲んで、いっそ優雅でさえある。うず高く積まれた資料の暴力的な量を見て、自分だったら大格闘になると、僕が勝手に思っただけだ。
「やあ塚場くん、どうしたの? こないだゾンビ映画を観たんだけど、ちょうどゾンビが今のきみみたいな顔色をしていたよ。でもきみより元気そうだったなぁ」
「そりゃあ、僕は人を襲ったりしないからね……」
桜野は現在、三つの事件を抱えているとの話だった。そのうちのひとつで、ある地域の小学生が過去一年間に書いた読書感想文を総点検する必要があり、デスクの上や周りに積まれているのはその原稿用紙の原本やコピーらしい。
どうしてそうなったのか、まったく想像がつかない。
だが邪魔するわけにもいかないので、自分から訊ねることはせず、安楽椅子に腰掛けて桜野や部屋の中をボーッと眺めて過ごした。そうしていると、桜野が声を掛けてきた。
「執筆は順調? 天地家の事件を書いているんだよね?」
「この顔色が物語ってるとおりだよ」
「顔色が物語ってるのは体調でしょ? 執筆の調子とは別だと思うけどね。それで事件の話だけど、先日、藤井さんから天地総一郎の手記をデータで貰ったんだ」
「天地総一郎って……本物の方?」
「そうだよぉ。筆跡も本人で間違いない。彼には手記を綴る習慣があったらしくて、事件の最中にも、地下の状況や心の内を書き残していた。ただ、おそらく偽物の総一郎さん……天地満代が、その要所要所を黒く塗り潰していてね。もともと書いてあった内容について、藤井さんから意見を求められたんだ」
「へえ……そうなのか……」
情けないくらい頭が回らなかった。
「天地満代は、天地総一郎名義で事件の記録を本にするにあたって、本人が書いた手記を一部利用しようとしていた。そこでとりあえず、素性の特定に繋がる固有名詞、それからダミーの真相と食い違う点を塗り潰したようだ。これが、なかなか興味深いんだよ。事前にどこまで意図されていたかは判らないけど、結果的には数箇所を塗り潰すだけで、ちゃんと地上の事件やダミーの真相と合致するんだから」
桜野は話しながらキーボードを叩き、PCのモニターを見る。手記のデータを画面に映しているらしい。
「まず〈天国と地獄の処刑人〉からの第一の手紙は、地下でも同じ内容が総一郎さんに届けられていた。実際の殺人も、旧・拓也から順番にひとりずつ、犯人が判らないかたちで行われていたようだ。まあ総一郎さんは、地上の天地満代が犯人だと断定していたけどね。『手紙の差出人は満代でしょう』から始まって、たぶん一貫して犯人は満代だと書いている。もちろん満代の名前は塗り潰されてるよ。そこに豊という名前を入れれば、今度はダミーの真相に適うようになるわけだ」
「なるほど。そういう感じか」
僕も桜野の隣まで移動し、一緒にモニターを覗き込んだ。
小さい文字でびっしりと埋められたノートのページを、スキャナーで読み込んだらしい画像が表示されている。何だか神経質そうな筆跡である。
「ほら、これが面白い。天地邸がまるごと土砂に埋まったことで、地上まで地下みたいな状態になったのが上手く効いてるんだよ。総一郎さんの手記では、ここ……『土の下に埋まっている』とか……こっちに『逃げ出せる窓のない土の中』なんて表現もあるんだけど、事件の最中なら、地上と地下のどちらにも当て嵌まるでしょ?」
「本当だ。『地下』ってそのまま書けば良いのにな……」
「婉曲的な表現を好む総一郎さんの癖が出たね。まるで叙述トリックみたいじゃないか。天然の叙述トリックなんて滅多にお目に掛かれないよ?」
「たしかに」
桜野が楽しそうにしているのを見ると、僕も少し元気が出る。
「あとは……『私達以外の何者かが潜んでいる気配です』という記述もあるね。死体と入れ替わりで地下に移動した新・天地家の人達は、其処でも旧・天地家の人達から隠れていた。まあ、そのつもりがなくても、あの迷宮ではそういう結果になりそうだ。そもそも地下で新・天地家の人達が姿を現したなら、それは相手を殺すときだよね」
彼女は画像を切り替える。
今度はページの途中で文字が途絶え、以降は白紙となっている。
「手記の最後だ。この……ナントカが劣情に駆られて満代に手を出さなければ、という箇所は『私が劣情に駆られて満代に』だろうね。でもダミーの真相みたく『豊が劣情に駆られて満代に』とも読めるから、本当によく出来てる。最後は自殺を仄めかすような記述で終わっているけど、これを書いた後、総一郎さんは実際に首を吊って自殺したんだね」
「ああ……」
「何が明らかになろうとも、彼の書くミステリが素晴らしかったことは変わらないよ。読者としては残念極まりない。もっと読みたかったよね」
僕は横目で桜野を見る。しかし彼女は感傷に浸るようなタイプではない。「うん?」と云って、何ともなさそうな顔で僕を見返してきた。
「このデータ、塚場くんにも送っておくね。抜粋して、きみの小説にも挿入したら良いんじゃないかな。捉えようによって、ヒントにもミスリードにもなる。ミステリ的に面白い仕掛けだと思うよ」
彼女はそう云いながら、さっさと僕宛てのメールにファイルを添付して送信ボタンをクリックする。小説での利用以前に、データを受け取ったことを僕から藤井さんに連絡しておかないといけないだろう……。
「天地満代は、事件の犯人を〈天国と地獄の処刑人〉という名前に設定した。これは地上と地下を跨いで殺人を繰り返す様子を表現したものだね。天地邸では、地上が天国、地下が地獄に対応している。地下への出入口が、五芒星を逆さにして逆五芒星にすることを鍵としていたとおりだ。総一郎さんの設計が、そういうコンセプトだったんだよ。天地というのも天と地だし、彼が昔から持っているモチーフなんだろうね」
「それは理解してるよ。結果的にはそのコンセプトどおり、罪人となった人達が洩れなく地獄に落ちたことも。狙ったわけでもないのに……運命の悪戯だな」
最初は旧・天地家の人達。
最後には新・天地家の人達まで、みんな地下にいた。
あの日、地下に響き渡った天地満代の慟哭は、今でも鮮明に思い出せる。
「じゃあ塚場くん、きみは天地邸を、天国だったと思う? 地獄だったと思う?」
桜野は僕の目を見て、そう訊ねた。
「二日目の夜にも云っていたな。真相を知ったときに、僕がどう思うか聞きたいって」
「うん。すっかりタイミングを逸していたけど」
僕も忘れていた。執筆中の小説も、まだその場面まで辿り着いていない。
だから、いま考えることになる。しかし考えるまでもなかった。
「……地獄だろ。地下だけじゃなくて地上も……あの屋敷は地獄そのものだったと思うよ。天地総一郎が最初に過ちを犯した、その日からずっと」
「そっか」と、桜野はそれだけ云って頷いた。
どうして彼女は、僕の感想が聞きたかったのだろう。
「お前はどう思うんだよ」
「私は天国でも地獄でもないと思うよ。それらはいずれも死後に行く場所だからね。天地邸はこの現世で、生きている人達が生活していた場所でしょ」
「え、そういう答え? いや、天国とか地獄と云うのは比喩じゃないか」
「比喩としても適切な表現とは思わないなぁ。あんな殺人事件はね、天国や地獄では起きないよ。すべて現世における生者の営みなんだ」
何だか卑怯な気がするけれど……桜野の価値観を知ることができた。気がする。
彼女は再び小学生が書いた読書感想文の山に手を伸ばしつつ「そうそう」と、もうひとつ付け加えた。
「この事件を小説化したときに使える、良いキャッチコピーを思い付いたんだよ」
「へえ。どんな?」
「新・天地家の人達が、私達をダミーの真相へと導くために練り上げた狂言のプロットは、彼女達なりの本格ミステリだった。はじめは私もそれに従うしかなかったし、あの三日間は、全員が本格ミステリに徹していたわけだ。でも事件はそこで終わらなかった。その先で私達は真の真相に、新・天地家の存在に辿り着いてみせた。新・天地、だよ」
一瞬、桜野が照れるように笑ったのを、僕は見逃さなかった。
「本格ミステリに徹した先の新天地――なんて、どうかな?」
『名探偵・桜野美海子と天国と地獄』終。
29歳の夏に書いた小説でした。
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