1「決定的な時が訪れる」
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恵ちゃんは一階のトイレで死んでいた。
白かった便器も、周りの壁も天井も、真っ黒になっていた。
死体は便器に頭を突っ込んだ格好で、骨まで見えるほど全身が焼けていた。八歳の女の子は、焼けるとこんなに小さくなってしまうのか。まるで悪い冗談のようだった。悲惨で、醜怪で、救いがなく。これまでで最もよく焼けていた。焼け跡からマッチやライターが見つからなかったのは、それごと焼失してしまったためだろう。
総一郎さんは両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
第一発見者は彼女だった。
彼女は昨晩の十一時頃、寝室のベッドで恵ちゃんと一緒に眠った。しかし目覚めると恵ちゃんの姿がなかった。隣の書斎にもいなくて、さらに施錠していたはずの廊下に通じる扉が開いていた。彼女は一番近くのトイレを確認しに行き、其処で変わり果てた恵ちゃんを発見することになった。
間もなくして、館内放送で凶事を報せた時刻が午前七時二十分。
昨日と同じく、その放送で僕は目覚めた。やはり昨日と同じく、僕はただちに桜野を起こした。そして二人で現場に直行し、現在に至る。
「便器に頭を入れているのは、それが彼女にできる唯一の抵抗だったんだろうね。きっと、ガソリンを浴びせられて、火を点けられた恵ちゃんは、トイレの中に閉じ込められた。犯人が外から扉を押さえていたんだろう。だから彼女は、便器の水で消火ができないか試みたんだ。でも足りなかった」
桜野の分析を聞いて、総一郎さんは嗚咽を洩らした。
僕は「少し離れた場所に行きましょう」と促す。僕自身、死体を目にした時点からずっと吐き気を覚えていた。子どもが殺されたときの衝撃や居た堪れなさには、どうしても特別なものがある。犯人に対する憤りも然りだ。
『地獄に落ちた罪人は業火に焼かれなければならない。』
八歳の子どもに、どんな罪があると云うのだ。
あるわけがない。狭いトイレに閉じ込められ、焼き殺されなければならない罪なんて。
「あたしの不注意だわ……。もっと、ひとりで部屋を出られないような工夫を、考えるべきだった……。恵は昨日も、トイレにあたしが付き添うのを、嫌がっていたのよ……。こんな状況でもね……。だからあたしを、起こさなかったんだと思う……」
涙ながらに語る総一郎さん。その推測は、おそらく当たっているのだろう。
自立心の芽生えた子どもは大人の干渉を嫌う。特にトイレは、自立心とはまた違ったデリケートな問題かも知れない。子どもの視野では、それが命の危険と天秤に掛けても勝ってしまう場合が充分にあり得る。
だからこそ、尚更、大人が見ていてあげなければいけなかった。
しかし総一郎さんを責められるだろうか?
「悪いのは犯人ですよ。卑劣な……」
僕は言葉を掛けつつ、総一郎さんがこの場を離れるように手でも促す。彼女は頷いて身体の向きを変えたが、そこで桜野が「満代さんのところに行こう」と云った。満代さんにも館内放送は聞こえたはずだけれど、まだ現場に現れない。
「行っても、どうせ扉を開けないわよ……」
「そうじゃなくて安否を確かめるためだよ」
桜野は反対方向に歩き出す。少し遅れて総一郎さんも「そうね……」と認め、重い足取りでその後を追った。僕も成り行き上、総一郎さんのすぐ隣に並んで歩く。
だが満代さんまで殺されているなんてこと、あるのだろうか?
むしろ彼女が犯人なんじゃないか――とまで考えて、既視感を覚えた。そうだ、昨日、久保田さんの死体を発見した後で満代さんのところに向かう途中にも、同じことを考えたのだ。今日の僕は、その疑念を口に出すことにする。
「やっぱり満代さんが怪しいんじゃないか? 恵ちゃんの殺害も、ひとりで部屋にいる満代さんにはアリバイがない。これまでの全部の犯行が満代さんには可能だ」
彼女は昨晩、アリバイではなくもっと具体的な犯人の証拠を掴めと云って僕らを責めたけれど、それだってまるで犯人の言い逃れみたいだ。アリバイも立派な証明である。
彼女以外の全員には、アリバイが認められている。
僕ら以外の何者かが潜んでいる可能性も否定できるはずだ。屋敷中を隈なく捜索してもそんな人物は見つからなかった。〈子どもの聖域〉だけは捜索が及ばなかったが、代わりにその抜け穴を封鎖した状態でも殺人は行われた。
ならば簡単な消去法じゃないか。
「もうすぐ判ることだよ」と、桜野は答えた。こちらには振り返らずに。
しかし僕は、もう十中八九、満代さんが犯人だろうと思った。そうに違いない。これから僕らが彼女を追い詰めれば、ついにその本性を現すかも知れない。
ゴルフクラブを握る手に力を込める。
思考力も精神力も悲鳴を上げているが、もう少しの辛抱だ。集中力を切らしてはいけない。ここで気を抜いたら、これまで耐えてきたのが水の泡となる。
正念場だ。覚悟を決めろ。
階段を上って、二階の廊下を進み、満代さん――いや、正確には恵ちゃんの部屋だ。その前に到着した。其処で僕は、においに気付いた。昨日からたびたび嗅いでいる、つい先ほども嗅いだ、ガソリンで人間を焼いたにおい。もっとも、今やそのにおいは屋敷のあちこちに残っているし、そうじゃなくても嗅覚や記憶にこびりついている。さあ、どうだろう。考えているうちに、桜野が「満代さん、入るよ」と云って扉を開けた。
施錠されていなかった。
それは、すぐに視界に入った。
開け放たれた扉の先、部屋の中央で、女性が焼け死んでいた。
「ああああっ」
声を洩らしたのは僕だ。全身を痺れるような震えが襲った。この瞬間、何かが決定的になったような気がしたのだ。理解するよりも先に、本能的に慄然としたのだ。
「満代……」と、総一郎さんが呟く。
視界の中で、桜野が部屋に入っていく。一方の僕は、危うく倒れるところだった。立っているために足に力を入れるという、当たり前のことを身体が忘れそうになったのか。
そんな、そんなはずが…………。
大量の疑問符か、はたまた何もない空白か。
自分の意識が、いま此処にある現実から遠のいていく感覚。
「なるほど」と云う桜野の姿も、声も、何か、画面越しのように感じる。
「満代さんが殺されたのは、昨晩、私達の部屋から此処に戻ったときみたいだね。そっちの床に、あのとき持っていた籠が落ちている。中身の食糧や水も、私達の部屋に来たときと同じで減っていないようだ。つまり、此処に戻ったとき中で待ち伏せしていた犯人に襲われたんだろう。部屋を出ている間は施錠できない。犯人は近くの部屋から、満代さんが外に出るのを待っていたんだ」
駄目だ。ここで離脱してはならない。
遠のいていく意識を、辛うじて繋ぎ止める。
「ま、待てよ桜野」と、僕は言葉を発した。「その……その、犯人って誰のことだ?」
犯人は満代さんじゃなかったのか?
その時、僕は昨日――違う、一昨日だ。一昨日の夜、耕大さんが殺されたときだ。あの後で、豊さんが皆に披露していた推理を思い出した。
満代さんは今、僕らの目の前で死体となっている。だが、それは……。
「……自殺じゃないのか? 満代さんが犯人で、目的を遂げたから、自殺を……」
「違うよ。満代さんは犯人じゃない」
桜野は僕の方に振り向いて、僕の目を見て云った。
しかし、しかし満代さんが犯人じゃないなら……。
僕は隣の総一郎さんを見た。彼女は黙って立ち尽くしている。放心している、とは違うようだ。頬には涙の痕。充血した目で、ただ満代さんの死体を見据えている。
……満代さんが犯人じゃないなら、残るのはもう、
「総一郎さんも犯人じゃないよ」
桜野がまた否定する。彼女はさらに続ける。
「もちろん塚場くんも、私も犯人じゃない」
「じゃあ誰だ!」
思わず声が大きくなっていた。頭がどうにかなりそうだ。満代さんじゃない。総一郎さんじゃない。桜野でも僕でもない。じゃあ他に誰がいる? みんな殺されてしまった。やはり別の誰かが潜んでいると云うのか? それは――天地流子?
「ねえ総一郎さん、暴いてもいいよね?」
桜野は、総一郎さんに視線を向けた。
「貴女たちが秘密にしてきたことを暴かずには、この事件を解決することはできないんだけど。貴女がこの期に及んでそれを許さないなら、私は口をつぐむよ」
ああ……。
あとはもう天才同士の会話なのだと、僕は悟った。
語り部の出る幕ではない。やはり先ほどの予感は正しかった。決定的な時が訪れたのだ。
屋敷の主は観念し、天を仰いだ。
「いいわ。お願い。犯人がどこにいるのか教えて頂戴」
「うん。早速向かおうか。この事件を終わらせるよ」
探偵は微笑で応えた。
斯くして、解決編が始まった。




