9「不安定な訪問者」
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耕大さんの部屋を出た桜野は、総一郎さんの書斎に向かった。
其処には総一郎さんと恵ちゃんの二人がいた。何の用があって来たのかと思っていたら、呆れたことに桜野は総一郎さんにサインをねだった。「ごめんなさい、サインは誰にも書かないと決めているの」と云って断られたが、怒られなかっただけ有難いだろう。
総一郎さんはデスクで頭を抱えていて、見るからに疲労困憊だった。その心中は察するに余りある。まる二日も経たないうちに、天地家は壊滅寸前……いや、既に壊滅しているも同然かも知れない。
「代わりに何か、本を借りていってもいいかな?」
「ええ。それなら好きに持っていって頂戴……」
桜野は本棚をひと通り眺めてから、有為城煌路という、いま勢いのあるミステリ作家の小説を手に取った。僕もそれに乗じて、総一郎さんの『無戸籍という生き方』『新しい家族の実践1』の二冊を借りさせてもらった。本当は五冊とも気になるが、遠慮して最初と最新を選んだ次第である。
あまりにも気詰まりだったし、この部屋にいるだけで申し訳ない気持ちだった。
恵ちゃんはひと言も言葉を発さず、ソファーに座ってルービックキューブで遊んでいた。揃える気があるのかないのか、無心で弄り回しているだけにも見えた。僕らも彼女に話し掛けなかった。
そして僕らは自分達の部屋に戻ったのだが、其処では満代さんが待ち受けていた。
扉が開かないので変だと思った。すると中から開錠の音がして、力を込めていないのに扉が奥へと勢い良く開いた。すぐ正面にゴルフクラブを握り締めた満代さんが立っていて、僕は「うわあっ!」と声を上げ、満代さんも「きゃあっ!」と悲鳴を上げた。
「満代さん――どうして此処にいるんですか!」
「あ、貴方達がいないから、待っていたんですよ!」
彼女はテーブルを手で示す。その上には、僕らが持ち込んだのとは別の食糧や水が籠に入って置かれていた。
「籠城するにも、水と食べ物がないと死んじゃうでしょお? だから意を決して取りに行ったんですよ。それで、さらに覚悟を決めて、貴方達の部屋に寄ることにしたんです」
どうして此処に寄ることになるのか。
よく判らないけれど、とりあえず桜野も僕も部屋の中に入って話を聞くことにした。
先ほどは一瞬、襲われるのかと思った。その疑いはまだ消えていない。彼女が犯人で、僕らを油断させて殺害のタイミングを測っている可能性もある。なにせ彼女は、これまでのすべての殺人でアリバイを持っていないのだ。ガソリンを入れた容器は周りに見当たらないが……僕は彼女の挙動によく注意する。
「桜野さんと塚場さんは、さすがに犯人じゃないでしょお? それは判ります」
彼女はゴルフクラブを両手で握り締め、扉の近くに立って話している。桜野はベッドに腰掛ける。僕はその傍に立ち、相手と同様にゴルフクラブを手に持ったままでいる。
「〈子どもの聖域〉を、確かめたんですよねえ?」
「はい。豊さんの死体が見つかりましたよ」
「あー……それだけですか?」
「そうです。他に誰かが潜んでいるようなことはありませんでした。それに豊さんは、その、五体満足の状態だったんです。どうやって抜け穴を通ったのかが判りません」
「あああ、もおおお……」
満代さんは妙なうめき声を上げた。
「桜野さんにも、判らないんですかあ?」
桜野は短く「うん」と答える。すると満代さんは床を踏み鳴らしながら、
「どうしてっ! どうしてっ! ああっ、もおお……そう、ですねえ……そうですねえ、しかし。そんなことは別にいいんです。どうでもいい。私には関係ありませんから!」
その顔に、引きつった笑みが浮かんだ。
僕の中で不安が増す。明らかに情緒がおかしい……。
「そんなことより! 私は誤解されて、万が一、罪を押し付けられるようなことがあったら堪りません。無事に救助されても、それじゃあ意味がないでしょお? それを云いに来たんですよ」
「……どういうことですか?」
「ですからあ! 改めて云っておきますけど、私は犯人じゃありません。絶対に違います。くれぐれも私が犯人だなんて間違った推理を、そのお……何ですか? 警察とか世間とかに云ったりしないでくださいよお? 貴方達が生きて、此処を脱出できたとしたら」
「もちろん、満代さんが犯人じゃないなら……でも」
僕は答えようとしているうちに、気になってしまった。
「満代さんは、ずっと自分は犯人じゃないと主張していますけど、具体的な根拠を示してくれないじゃないですか。もう少し何か――」
「何を云えるって云うんですかあ!」
長い髪を振り乱しながら、彼女は訴える。
「犯人じゃない根拠って何ですか? そうじゃなくて貴方達が、もっと具体的な犯人の根拠を掴んでくださいよお! アリバイが無いとか、そういうのじゃなくてえ! 私は嵌められているだけです。久保田さんのときだって、ずっと部屋にいたのは私なんですよ。恵が嘘を吐いています。あの子は、そういう子なんですよお!」
僕はその迫力に気圧されながらも、問い掛ける。
「どういう子なんですか?」
「何を考えているんだか判りません。でも時々、意味も判らず、急に残酷なことをするんです。私がつくっている途中の料理を捨てたり……私が自分のことを叩いたなんて嘘を家族に広めたり……裏庭で、小さな動物を殺したり! 仕方がありません。四歳からずっと此処で育って、外の世界を知らなくて、常識がないんですよお。私も、総一郎も、みんな親じゃないんです。天地家には親子という概念がありませんから。なのに、あんな小さな子どもを引き取ったりなんかして、誰もあの子を上手に育てられなかったんです!」
そんな……そんなことは、
ないとは、云えない。
恵ちゃんは賢い子だ。学校に通わずとも、天地家の人達が高度な教育を施している。だが知識や思考力はともかく、情操はどうなのだろう? 普通でない環境で育った子は、やはり普通とは違う発達をするはずだ。良くも悪くも……。
「満代さんは、恵ちゃんが犯人だと思うんですか?」
「知りません! 犯人が誰かとか、そんなことを私に訊かないでください。それは貴方達の仕事でしょお? それより早く見つけてくださいよお! この屋敷のどこかに、必ず隠れているんですからあ!」
僕には、彼女は何かを知っているように見えた。
話せないのか、話したくないのか、いや……本音では話したいのではないだろうか。話して楽になりたいのに、それができずに苦しんでいるように見えるのだ。
「満代さん」と、桜野が名前を呼んだ。
「……何ですかあ?」
満代さんの、いつもほとんど開いていない両目が、桜野の方を向く。
「恵ちゃんは、久保田さんのことを好いていたのかな?」
どうして今、そんな質問をするのか。一瞬、間の抜けたような空気が流れた。満代さんも怪訝そうな表情をしつつ、しかし質問には答えてくれる。
「嫌っては、いなかったと思いますよ? 久保田さんが来ると、いつも二人で仲良く話していましたし……」
「昨日、久保田さんが屋敷に到着したときにも、恵ちゃんは彼を迎えに行ったという話だったね。もしかして、いつもそうなの?」
「云われてみれば……そうですねえ。役割が決まっていたわけじゃありませんけど」
「久保田さんは四時頃に来たけど、訪ねてくる時刻はいつも決まってた?」
「いえ、バラバラですよ。まあ午前中に来ることは滅多にありませんでしたが、久保田さんは色々とルーズな人ですからねえ……」
「ありがとう。たぶん明日には、犯人を見つけられそうだよ」
「え? 本当ですか?」
満代さんと同時に、僕も思わず「本当か?」と訊いてしまった。
予想していなかった言葉だ。そんな、あまりにも急に……。
呆気に取られる僕らに、桜野は「本当だよぉ」と緩い調子で答える。
「だから満代さん、もう少し辛抱してくれるかな。お互い、この夜を生き残ろう?」
笑っている。桜野は笑顔を浮かべている。
対する満代さんの笑みは、どこか歪で苦し紛れだ。
「もちろん、もちろん私は、生き残りますけど……」
「うん。だから早く部屋に戻った方がいいよ?」
腕時計を見れば、時刻はもうじき午後七時。
相変わらず外の様子が判らないものの、天地邸での二日目の夜は既に始まっていた。




