5「偉大なる作品たち」
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耕大さんがバセドウ病なら、そこから何が判るのか。
桜野は追加で何を調べていたのか。
僕が訊ねても彼女は「久保田さんに裏取りしてからね」と云って教えてくれず、蔵書室を出ると総一郎さんの書斎に向かった。久保田さんが何やら相談のために総一郎さんと書斎に行ったのは憶えているが、一時間近く前のことだ。まだ其処にいるのだろうか。
腕時計の針は三時に差し掛かっている。
桜野が扉をノックした。総一郎さんの返事が聞こえたので、扉を開けようとする。しかし施錠されていて開かない。総一郎さんが中から錠を開けた。
「ごめんなさいね。念のための用心で」
「ううん。必要なことでしょ。久保田さんは?」
「ずっと前に出ていったわ」
部屋には総一郎さんの姿しかなかった。彼女は「放送で呼び掛けましょうか?」と訊ねたが、桜野は「ううん。それほど急いではないんだ」と断って部屋の中に入る。
「最新作の『雷雨と相合傘』を読んだよ」
「あら……ありがとう。読んだって今の話?」
「昨日の夜に読み終えたんだ。見事だったね。ありきたりな恋愛小説が気付けば複雑怪奇な本格ミステリに変容している展開がスリリングだし、恋愛小説で定番とされる要素がみんなミステリとしての仕掛けに回収されるのは面白い試みだよ。それでいて動機が特に意外で、ドラマ性も豊かだし、終盤は愛憎劇としても読み応えがある。ジャンルの横断は天地総一郎作品の特徴だけど、これほど相乗効果を感じたのは、闇カジノを舞台にした『無形フルハウス』以来だ」
何かと思えば雑談である。
作者本人に感想を伝えられるなんて滅多にない機会だが、場違いの感は否めない。それであれば、久保田さんじゃなくても、総一郎さんに裏取りをしてみたら良いんじゃないだろうか。〈家族〉なのだから耕大さんの病気についても知っているだろう。
「『無形フルハウス』とは内容的にも類似点が多いよね。中心となるファム・ファタールの死、ストーカーらしき人物の視点、探偵役の唐突な途中交代、事件を解決することが破局を意味する二律背反の構造……セルフパロディと云うより、部分的なリメイクかな?」
「そうね。そのとおりよ」
「しかも、リメイクを逆手に取った小ネタまで仕込んであるんだからニクいよねぇ。『無形フルハウス』は叙述トリックの切れ味でも有名だけど、『雷雨と相合傘』ではいかにも叙述トリックが使われてそうな部分で、結局は使われない。しかも、それがミスリードとして機能する。一部のミステリファンにしか利かない極めて高度な小ネタだ。もちろん意図的なものでしょ?」
「ええ。さすが美海子ちゃん。よく気付くものだわ」
「あとは近年の天地総一郎作品、特にノンシリーズものに見られる、失敗や挫折を抱えた主人公がその精算を迫られるという側面もやっぱり継承されているね。今回、前半部の主人公は中学時代に交際していた恋人と破局した理由を周囲に偽っていて――」
桜野は立て板に水の如く喋り続ける。さすがの総一郎さんも応じるのが大変そうだ。途端に表情が生き生きとし始めた桜野とは対照的に、彼女はただでさえ疲労の滲んだ顔つきをしていて変化も起きない。
しかし僕ではスイッチの入ってしまった桜野を止められないと、経験上知っている。総一郎さんの味気ない返事から、普通は迷惑しているのを察して身を退きそうなものだけれど、そんな気遣いも桜野には期待できない。もっと総一郎さんが明確に拒絶しなければ、彼女はしばらく、この調子で自論や質問を繰り出し続けるだろう。
手持ち無沙汰な僕は、周囲の本棚に視線を巡らせた。
総一郎さんの著作があるだろうかと思って探すと、すぐに見つけられた。出入口から見て右手の本棚、デスクに近い奥の方にまとめて並べられている。そちらの方にゆっくりと歩を進めつつ、右下からタイトルを順に目で追ってみる。
まずは新書サイズのエッセイ本が刊行順に並べられている。新しいものから順に、
『新しい家族の実践1』『新しい家族のすゝめ』『天地総一郎随想集〈箱庭〉』『戸籍と明治的価値観』『無戸籍という生き方』
本になっているのはこの五冊だ。
次には小説が、長編か短編集かを問わず、同じく刊行順に並べられている。後に文庫本が出ている作品については、その単行本とセットにしてある。新しいものから順に、
『雷雨と相合傘』『二千年、離散の殺人』『アスタリスク館の奇蹟』『殺戮の御伽噺 其の二』『二千年、無知の殺人』『あゝユーレカ!』『神の毒か悪魔の薬か』『形而上の姿無き者達』『逆回転木馬』『惑星Aの不在証明』『ロマネスク暴露的アーキ』『遊郭の天牛』『モナ・リザ・ブロック』『二千年、旋回の殺人』『猿に惨憺』……。
まだ半分に達していない。十六年弱の作家生活で、彼女の小説は書籍単位でも三十を超えているのだ。改めて畏敬の念を抱かされる。そんな偉大な作家が今、僕の後ろで厄介なファンの対応に苦慮している姿を見るのは、かなり忍びないものがあった。
「ちょっと、ちょっと美海子ちゃん」
彼女は十分以上も耐えて、なお桜野が盛り上がる一方なので、とうとう両手を前に突き出して制止のポーズをとった。根気強く付き合った方だと思う。
「ごめんなさい、この話は一旦そこまでにしましょう」
「え? そう? うーん……」
玩具を取り上げられた子どものような反応を示す桜野。いや、これは比喩でなく、そのままの表現か。こういうときの彼女は本当に子どものころから変わらない。
いつまで経っても成長しない、というわけではないのだろう。
おそらく、子どものうちに完成してしまったのだ。
早熟の天才……耕大さんが指摘していたとおり、それは総一郎さんも同じである。二人の天才がもっと真剣に意見を交わせば、この殺人事件の謎だって解き明かせるんじゃないだろうか? 凡人の僕はつい、そんなことを考えてしまうが……。
『けてくれ! 犯人だ! 処刑人が現れたぞ!』
全員が、弾かれたように廊下の方へ顔を向けた。
不意に聞こえ始めた久保田さんの声。
『お前さんは――豊か? おい! やめろ! 豊――どうしてこんなことをする!』
スピーカー越しの声だ。天地邸ですっかり重宝されている館内放送である。
「豊がいるの?」と総一郎さん。
「でも処刑人が現れたって……」
とにかく聞き漏らすまいと聴覚に意識を集中する。
『本当に豊か? 誰だ、お前は――近づくな! それ以上近づくと、こちらも容赦しないぞ。吾輩は関係ないだろう。天地家の人間じゃない。お前さん達に何があったのか、吾輩はまったく知ら』
そこで放送が途絶えてしまう。機器やスピーカーの調子が悪くなったのか、久保田さんが機器から離れたのか。戸惑う僕と違って総一郎さんは俊敏に動いた。僕と桜野の間を通り抜け、扉の横にあるインターホンの機器に駆け寄る。
「久保田さん! どこにいるの!」
少し遅れて廊下のスピーカーからも、その総一郎さんの声が響く。
「答えて頂戴! 久保田さん! 久保田さん!」
祈るように叫ぶ総一郎さん。僕は唐突に――刺すような頭痛を覚えた。何か恐ろしいことが起きているのだ。その認識は直後、再び始まった放送の声によって裏付けられた。
『あああああああああああッ! ああああああああああああああああああッ!』
久保田さんのザラついた絶叫が、屋敷中に響き渡った。




