6、7「少女の異変」
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〈天国と地獄の処刑人〉が新たな処刑をおこなったことは、もはや疑い得ない。
僕らの精神を極限まで粉々に破壊しようとするみたいに、惨劇は続いている。僕は書斎から廊下に出るとき、腰が引けるのを自覚した。怯えているのだ。扉を施錠して安全な部屋に閉じこもっていたい。これ以上、新しい死体を見たくない。
しかし、そんなことは云っていられない。
桜野が廊下に出ていく。ならば僕も、彼女と共に行かなければ……。
インターホンはチャイムの音によって門か玄関かを識別できるが、それ以外に屋敷の中から話している場合、話者がどの機器の前にいるかを調べる機能は有していない。この状況で手分けは禁物なので、総一郎さん、桜野、僕は三人でまとまって屋敷の中を探し回るしかなかった。機器の場所であれば総一郎さんがすべて把握している。
黒焦げになっている久保田さんの死体は、二階の廊下で発見された。
彼が借りている部屋、つまり桜野と僕が借りている部屋もある通りから、一度曲がってしばらく進んだ場所だった。インターホンの機器から二メートルほど離れた床の上に、彼は仰向けで横たわっていた。
焼かれ方は均一ではない。上半身は耕大さんと同じくらい酷く焼けている。下半身は焼けずに残っている部分が多い。火は既に消えているが、白衣の裾やスラックスはまだ燻っている。その傍には、彼が携行していたゴルフクラブが落ちている。
周囲には煙と、強烈な臭気が漂っていて、明らかにガソリンのにおいが混じっていることも判る。昨日も微かに香っていた。やはりガソリンだったのだと、いま確信できた。
そして、現場には先客がいた。
「恵! どうして、ひとりで此処にいるの?」
総一郎さんに問われて、彼女はこちらに振り向いた。僕には一瞬、その顔が笑っているように見えた。彼女はいやに落ち着いた声音で「久保田さんも、死んじゃった」と云った。
どういうわけか、僕は戦慄した。答えになっていない。
「満代はどうしたの?」
「どこかに行っちゃったよ」
「それは……いつの話?」
「ずっと前。恵の部屋から出ていった」
「久保田さんの、放送が聞こえるよりも前?」
「そう」
「恵は部屋にいたの?」
「ずっと部屋にいたよ」
「だけど、今は此処にいるわ」
「久保田さんの声が聞こえたから、探しに来たんだよ」
「ひとりで?」
「うん」
「じゃあ此処には、いま来たばかりなのね?」
「うん。久保田さん、死んじゃった」
どこか虚ろな目をした恵ちゃんは、再び足元の焼死体を見下ろした。
総一郎さんは床に膝を突いて、その小さな身体を背後から抱き締めた。「そんなに見たら駄目よ……」と、片方の手で彼女の目元を覆う。
「怖かったでしょう?」
「ううん。平気だよ」
恵ちゃんは異常に平然としている。
極限状態に晒された彼女の、これが防衛機制なのだろうか。
部屋に置き去りにされて、それだけでも不安で堪らなかっただろうに。あの久保田さんの死に際の絶叫を、彼女も聞いたのだ。それから部屋でジッとしていられなくなり、誰よりも先に、この死体を発見してしまった。彼女は耕大さんの死体は見ていない。大人たちがそれを許さなかったからだ。しかし今度は、ひとりでそれを目の当たりにした。この落差に、まだ幼い彼女の心が耐えられるとは思えない。
溶けた顔。ボロボロの身体。肉や臓物の焼けたにおい。
僕でさえ、ずっと直視してはいられない。
「また地獄の業火かぁ」
桜野はそう云って死体のすぐ前にしゃがみ込んだ。全身を観察しながら、その顔の上に手をかざす。一目瞭然ではあるけれど、息が絶えていることを確かめるためだろう。
「ガソリンを浴びせられて、火を点けられたんだね。其処にマッチ棒の燃え残りがある」
もう片方の手で彼女が指差した先を見る。死体の左足が投げ出されている傍に、細くて小さな木の棒が落ちている。
「身体にガソリンを浴びせられたら、相討ちを覚悟しない限り犯人には近づけない。あとはマッチを擦られるだけで火達磨だからね」
「それで、ゴルフクラブを持っていても無駄だったのか」
「うん。総一郎さん、この家にガソリンは常備してあるの?」
「裏庭の物置小屋にあるわ。あたし達は車を持ってないけど、過去に一度、お客さんの車がガソリン切れを起こしたことがあって、こんな山奥だから大変だったの。それで指定数量未満で持っておこうという話になった」
「犯人は土砂崩れを起こす前に、それを回収しておいたのかも知れないね」
桜野は死体の顔にかざしていた手を引っ込めて、立ち上がった。
「満代さんを探そうか」
「ええ。安否を確かめないといけない」
総一郎さんの言葉の意味を、僕は一瞬遅れて理解した。そうか、満代さんも生きているのか判らないのだ。犯人に襲われたとき館内放送ができるケースばかりではない。生きているとしても、彼女はいまひとりだ。立て続けに狙われる危険もある。
総一郎さんは恵ちゃんの手を引きながら、インターホンの機器に近づいた。そのボタンを押す際に少し躊躇して見えたのは、つい先ほど、殺される直前の久保田さんも触れたボタンだと気付いたためか。
いや、違う。久保田さんも触れたが、それだけではない。焼かれている本人が、その最中に放送を再開したはずがない。最後の絶叫は、久保田さんに火を点けた犯人が、意図的に放送したのだ。僕らを、恐怖させるために?
ゾッとした。犯人の悪意に、じかに触れたような気がして……。
「満代! どこにいるの? 久保田さんが殺されたわ。あたしと恵と、美海子ちゃんと壮太くんは、みんな一緒にいて無事よ。貴女は無事? 放送で返事して頂戴。場所を教えてくれたら、すぐ迎えに――」
「満代さんに居所を云わせない方がいいよ。犯人にも教えることになるから」
放送中の総一郎さんに、桜野が指摘した。
「ああ、そうね……満代、放送はいいから、どこか施錠できる部屋にいて。あたし達の方から探しに行くから、声が聞こえたら返事して頂戴。あたし達以外の声とか、ノックに反応したら駄目よ!」
久保田さんの死体は仕方なく一旦そのままにして、僕らは満代さんの名前を呼びながら二階の廊下を進んだ。そうしながら、しかし――とも僕は思った。
満代さんこそ犯人なんじゃないのか?
今回も彼女にアリバイがない。恵ちゃんを部屋に置き去りにするなんて不自然な行動まで取っている。
大丈夫だろうか? いざとなれば、相手はひとりで、僕らは四人。恵ちゃんを除いても三人いる。だが相手はガソリンを持っている。いずれにせよ警戒しなければならない。
「はあ~い」と、泣きそうな満代さんの声が返ってきた。
彼女は恵ちゃんの私室にいるようだった。一度出ていったという話なのに……恵ちゃんが久保田さんを探しに出たあと、入れ違いとなるように戻ったのだろうか。
「満代、あたしよ。安心して。みんないるわ」
総一郎さんに続いて、僕らも「みんないます」「私もいるよぉ」「恵も」と声を掛ける。
満代さんは扉を開けない。総一郎さんが「入るわよ?」と云ってドアノブを握ると、
「駄目です! この扉は絶対に開けませえん!」
言葉のとおり、総一郎さんがドアノブを押しても開かない。施錠されているようだ。
「……あたし達を、信用できないってこと?」
「当然でしょお! もお、誰のことも信用できませんよ!」
「ずっと部屋に閉じこもっているつもり?」
「はあい! 救助が来るまでずっとです!」
その声は震えている。扉の向こうで自分の身体を抱くか、エプロンドレスの裾を握り締めている満代さんの姿が思い浮かんだ。
恵ちゃんが「恵の部屋なのに!」と主張するが、それには返事がない。
「満代、どうして恵をひとりにして部屋を出たの?」
総一郎さんが問うと、やや間が空いて「はいい?」と訊き返す声があった。
「なに云ってるんですかあ?」
「恵を部屋に置いて、どこかに行ったんでしょう? トイレじゃないわよね? 久保田さんの放送があったときには、貴女どこに――」
「違いますよお! 部屋から勝手に出ていったのは恵です!」
心外とばかりに声を張り上げる満代さん。
総一郎さんと僕は恵ちゃんに視線を遣るが、彼女は首を大きく横に振る。
「恵は……貴女が自分を置き去りにしたんだって云っているけど?」
「嘘です! その子が嘘を吐いているんです! 私は部屋でうたた寝をしてしまったんですよ。昨日の夜は不安で全然眠れなかったのでえ! それで目が覚めたら、恵がいなくなっていたんです。しかも、扉を開けっぱなしにしてですよお? 寝ている間に私が襲われても、まーったくおかしくなかったんです!」
「違う!」と恵ちゃんも声を上げる。「恵は嘘なんて云ってない!」
「嘘じゃないですかあ! もおお、勘弁してくださいよおお!」
じれったそうな声に混じって、地団駄を踏むような音が聞こえる。
「だいたい今だって部屋にいるのは私でしょお? 私はずーっと、この部屋にいました。久保田さんの放送があったときにも、錠を掛けてこの部屋にいたんです。私は危険を、ちゃんと恐れることができる人間なんですよ! まともなんです! ひとりで部屋を出るわけないじゃありませんかあ!」
僕は扉と恵ちゃんとを交互に見る。
どちらが本当のことを云っているのだろう?
恵ちゃんは云い返さないが、満代さんが正しいと認めたわけではないようだ。眉根を寄せて歯を食いしばる表情に、苛立ちが表れている。しかし水掛け論になるのが判って反論しないぶん、彼女の方が大人に見えるほどだ。
「其処に、桜野さんと塚場さんもいるんですよねえ?」
「いるわよ」
「ああ、もお! 本当に役に立たない人達ですねえ!」
云われてしまった。桜野も僕も反論はしない。
「ねえ総一郎、貴女がグルじゃないんだとして……まさか、私を疑ってるわけないですよねえ? さっきアリバイを訊かれたので、ええ、嘘でしょおって思ったんですけど。犯人は豊だって、久保田さんも放送で叫んでいたじゃありませんか!」
たしかに叫んでいた。しかし疑っているようでもあった。『本当に豊か?』と、犯人に対して問い掛けていたのを憶えている。そもそも、どうして久保田さんは相手が豊さんかも知れないと思ったのだろう?
「狐の仮面を被っていたんだろうね」
僕の心を読んだわけでもないだろうが、桜野がそう云った。
「もちろん豊さん本人とは限らない。犯人が既に豊さんを殺しているなら、奪った仮面や衣服を使うことができる」
では車椅子も同じか――と考えて、すぐに思い直す。
仮面を被るのは正体を隠すために有効だろう。だが豊さんになりすまして車椅子にまで座っていたら、久保田さんを襲いづらいはずだ。逆にゴルフクラブで殴られてしまいそうである。狐の仮面を被って、服まで豊さんのそれを着用していたとしても、車椅子は使っていなかったのだ。だから久保田さんも疑ったのではないだろうか。
「それに、豊さん本人なら、自力で二階には上がれないですよね?」
自分としては良い補足だと思ったのだが、扉の向こうの満代さんからは「そんなことどうでもいいんですよ!」と怒鳴られてしまった。
「優秀な探偵だって云うなら、早く豊を見つけてください!」
僕は桜野を見る。珍しく目が合った。しかし何を考えているかは判らない。
見つけろと云われたって……豊さんは〈子どもの聖域〉にいる。そして生きたままでは抜け穴を通れない以上、彼は既に殺害されて、抜け穴を通れるサイズまで解体されている。そうでなければ、屋敷中を隈なく捜索したのに見つからないわけがない……それが最も有力な推論のはずだけれど。
「…………るよ」
恵ちゃんが何か呟いた。皆の視線が彼女に集中する。
「なんて云ったの、恵?」
総一郎さんに問われ、彼女は顔を上げた。
そして今度は僕らにも聞き取れる声で、無感動に云った。
「恵が〈聖域〉に入るよ」
「それは……駄目よ。危険すぎるわ」
「どうして?」
「中がどうなってるか判らないからよ」
「恵は判るよ。昨日の朝にも入ったもん」
「この事件……土砂崩れが起きてからは、入ってないでしょう?」
「土砂崩れはとっくに収まってるじゃん。それに豊がいるとしたら、もう死んでるって話なんだよね? いいよ。豊が死んじゃったのは悲しいけど、死体は怖くないよ。何もしてこないから」
「もしかしたら、他にも誰か潜んでいるかも知れないのよ」
「本当に? いるとしても、恵と同じくらいの子どもでしょ? それか伊予さんみたいな小さい大人の人か。それなら恵、負けないと思うけど」
恵ちゃんは毅然として答え続ける。一体どうしてしまったのだ。吹っ切れたのか、何なのか、急に何年分も成長してしまったかのようである。
「やらせてよ、総一郎。もう何もできないのは飽きたよ」
「本人が良いと云ってるんですから、やらせてあげたら良いじゃないですかあ」
「満代は黙ってて」と総一郎さんは短く云って、こめかみを押さえた。
桜野と僕からは何も云えない。今まで恵ちゃんが〈子どもの聖域〉に入るのを拒否していたのは、主に総一郎さんだったのだ。許可を出すのも彼女の判断となる。
熟考の末、彼女は目を閉じた。
「判ったわ……恵に調べてもらいましょう……」
恵ちゃんは「うん」と頷き、満代さんは扉の向こうから「それで良いですよ、それでえ」と妙に楽しげな声を発した。もう震えていない。怯えも怒りも、今はその投げやりな陽気さとでも云うような調子に転じてしまったようだ。
「そう云うからには、貴女も来るのよね?」
「え? いいえ? 私は部屋を出ないって云ったじゃないですかあ。救助が来るまで籠城していれば、もう助かったも同然ですからね。私はこの事件からイチ抜けですう」
「じゃあ、そうしてなさい」
総一郎さんは満代さんのことを諦めたらしい。それよりも恵ちゃんに心配そうな眼差しを注いだ。僕も期待と不安が入り混じる複雑な気持ちだった。
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〈子どもの聖域〉は、抜け穴をチェストで塞いだ状態のまま変わっていなかった。それを総一郎さんと僕の二人がかりでチェストを動かし、再び開放した。
圏外のせいでビデオ通話はできないが、内部の映像を撮るために、恵ちゃんには僕の携帯を持たせた。
「気を付けるのよ? 何かおかしなことがあったら……中で何かが動いたり、物音が聞こえたりしたら、すぐに引き返して。どんな些細なことでも、あたし達に報せるのよ?」
「平気だよ。この中のことは、恵が一番よく知ってるもん」
恵ちゃんは肝が据わっていた。浮足立っている様子もなく、頼もしいとまで感じた。
そして僕らが外で見守るなか、彼女は抜け穴をくぐって聖域の中へと入っていった。
「豊が死んでるよ」という報告が聞こえてくるまで、三十秒も掛からなかった。




