1「不吉な空気の朝」
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人の寝顔というのは、もっと無防備なものじゃないのだろうか。
桜野は意識が覚醒しているときに目を閉じた顔と、就寝中の顔が変わらない。口も閉じていて、心なしか微笑んでいるように見える。寝相だってきれいなものだ。布団は乱れていないし、その膨らみ方から、身体も真っすぐ伸びているのだろうと判る。
もちろん、僕は桜野のそんな寝姿をまじまじと観察していたわけじゃない。彼女を起こそうとしたために、自然と見ることになったのだ。
「桜野、桜野」
華奢な肩を揺するが、彼女は安らかな寝顔のまま目を覚まさない。左右に揺れながらも、心配になるくらい同じ顔のままだ。死んでいるんじゃないよな? 呼び掛けの声を大きくして、揺する力も大きくして、それでようやく彼女の片目が薄く開いた。
「……やあ、塚場くん」
いつもの間延びした喋り方を、さらに倍にしたみたく悠長な声だ。
「起こしてごめん。今は聞こえてないけど、さっき総一郎さんの館内放送で、気になることを云っていたんだ」
「どんなこと?」
「豊さんに対する呼びかけで……豊さんの姿が見当たらないらしい。かなり切迫した感じの話し方だった。それで僕も目が覚めたんだ」
桜野は片目だけ開いたまま、ベッドの上で上体を起こした。それから首ごと右へ左へと動かして部屋の中を眺める。まだ寝惚けていて、天地邸に泊まっていることを思い出せていないのだろうか。僕は先ほど起きたとき、一瞬だけその状態に陥った。
「大丈夫か?」
「問題ないよ。いまの時刻は?」
そう問われて僕も室内を見回すが、この部屋には時計がない。ソファーの方まで戻って、テーブルの上に置いた自分の腕時計を拾い上げる。
「十時十五分だ」と答えた直後、再び館内放送の声が聞こえてきた。
スピーカーの場所が遠いのか、少し聞き取りづらいので扉に駆け寄る。スライド式の錠を開けて扉を開けて顔を出すと、廊下に響いている総一郎さんの声がよく聞き取れるようになった。
『――に来て頂戴。くれぐれも用心して。豊がいないの。繰り返すわ。美海子ちゃんと壮太くんも、一階の食堂に来て頂戴。聞こえていたら、すぐに来てほしい。久保田さんと満代と恵は、もう来ているわ』
ベッドを下りてきた桜野が、僕の後ろで「出遅れたようだねぇ」と云った。
総一郎さん達に無用な心配を掛けさせるわけにいかないので、僕らは寝間着のまま急ぎ足で食堂に向かった。
廊下を進んでいると、土砂で埋まった窓を何度か目にすることになる。当然だが屋敷が地中に埋まっている状況は変わっていない。陽光が差し込まず、照明の人工的な明かりだけが満ちた屋敷の中では、朝になったという実感もあまり湧かなかった。九時間近く眠った後なのに、まだ昨晩の続き……明けない夜が再開されたという印象である。
食堂に入ると、放送で云っていたとおり、豊さんを除いたメンバーが集まっていた。
「ああ二人とも、良かったわ」
総一郎さんは胸に手を当てて安堵の息を吐いた。今日の彼女は白シャツに黒のガウチョパンツを合わせている。モノトーンのコーディネートが好きなようだ。
「すみません、こんな時間まで寝ていて……」
「豊さんがいないの?」
桜野の問いに、久保田さんが「そうなのだ」と応える。彼は椅子に座ってトーストを齧っていた。そもそも宿泊の予定がなかった彼なので、格好は昨日と同じだ。ストライプのシャツに黒のスラックス、その上から大きめの白衣を羽織っている。
「吾輩と総一郎で一階は簡単に見て回ったのだがな、どこにもおらん。最初の放送をしてから十分以上が経っても現れん。かなり不可解なことだぞ」
「あたしが起きたときには、もういなくなっていたわ。起きて、着替えた後すぐに豊の部屋まで様子を見に行ったんだけど。錠は掛かっていなくて、部屋は無人だった」
「車椅子は?」
「ないわ。ベッドから車椅子には自力で移れるから、自分で部屋を出たのでしょうけど……二階には行けないし、今の状況では外にも出られないから……」
豊さんの身に何かあったのではないかと、嫌でも疑念が湧く。
土砂に埋まったクローズド・サークルで、昨日は拓也さんと耕大さんが死に、現在もまだ連続殺人事件が進行中かも知れない状況なのだ。
「今日は屋敷の中を虱潰しにする予定だったよね」
桜野が云った。たしかに昨晩、皆でそういう話をしてから解散した。
「私達の中に何者かが潜んでいないか確かめる趣旨だったけど、そこに豊さんの捜索が加わる格好かなぁ。これ、食べていいの?」
彼女が指差したのは卓上のトーストだ。大皿に三枚、手付かずのものが乗っている。長卓を挟んだ向こう側に座っている満代さんが「どうぞ」と答えた。
「食事はまだつくれていなくて、トーストだけ焼いたんですけどお……」
彼女は今日もフリルのついたピンク色のエプロンドレスを着ているが、昨日とはデザインや色合いが若干異なる。当然ながら浮かない表情だ。
その隣には恵ちゃん。まだチェック柄の青いパジャマ姿で、髪も下ろしたままでいる。手に持ったトーストが大きく傾いていて、苺ジャムが白いテーブルクロスの上に落ちるが気付かないらしい。不安げな眼差しが桜野を向いている。
「豊も……殺されちゃったの?」
「まだ判らないよ。そうじゃないことを祈るけど……ああ、この苺ジャム、私も好きなやつだ。高いからたまにしか買えないんだよねぇ」
桜野がまた無神経な発言をしている。それにしても、よく起きてすぐに食べられるものだ。しかも苺ジャムをトーストの上に零れそうなくらい山盛りにしていく。
「もしも豊が……いえ……」と、総一郎さんは何か呟きかけてやめた。
見ているだけで血糖値が上がりそうな食事を桜野が終えても、豊さんは食堂に現れなかった。もとより穏当なんて望めなかったけれど、それ以上に不吉な空気のなか、天地邸での二日目は始まった。




