15(2)「地獄の業火」
それから耕大さんは総一郎さんと少し言葉を交わし、久保田さんと一緒に部屋を出ていった。腕時計を見ると十一時をとっくに回っている。
「話の続きだったわね。あたしが無戸籍の生き方を肯定している理由、だったかしら?」
「そうですが……お風呂に入られますよね?」
「中途半端だし、もう少し続けましょう」
「いいんですか?」
「構わないわ。豊もいいわよね?」
豊さんも「いいよ」と認めてくれる。僕は礼を述べた。
桜野はふらりと立ち上がって「本棚を見せてもらってもいい?」なんて云いながら、そちらに歩いていく。無礼じゃないかと思って僕は焦ったが、総一郎さんは気にしている様子もなく「好きに手に取っていいわ」と答え、僕に向けて説明を再開した。
「説明の仕方は色々とあるんだけど、まず今日的視点から見て、戸籍制度がこの国に必要だとは思えないのよ。そもそも戸籍制度があるのは日本、中国、台湾だけというのは知ってる?」
「いえ、知りませんでした」
「他の国々は戸籍がなくても成り立っているんだから、雑に云ってしまえば、これだけで根本的に必要なものじゃないことは判るわよね。じゃあ、どうして日本は戸籍を採用しているのか? その歴史は古くて、変遷は複雑だわ。辿っていくと発祥は中国なんだけど、日本では祟神帝の治世に人民の戸籍をつくったのが始まりとされている。三世紀後半から四世紀ね」
「そんなに昔なんですか」
「ええ。『日本書紀』にそういう記述があるわ。七世紀になると大化の改新が起こって、豪族から天皇中心の政治に変わっていくわけだけど、その過程で氏姓を整理し統治するために、戸籍編纂はいよいよ全国的に展開されるようになる。〈庚午年籍〉や〈庚寅年籍〉ね。でも平安時代になると律令制が衰退するから、戸籍制度も一度消滅するの」
歴史の授業で習った言葉が色々と出てくる。しかし、それらが戸籍の観点から整理されていくのは新鮮な感覚だ。自分が如何に表面的にしか学んでいなかったかが判る……。
「その後はしばらく戸籍のない時代が続くんだけど、戦国時代には織田信長や豊臣秀吉が戸籍的なものを作製する。江戸時代の〈人別帳〉と〈宗門改帳〉も戸籍と云ってよい帳簿だわ。これは後に〈宗門人別改帳〉になって、そして幕末近く……一八二五年に長州藩で戸籍法が施行される。現在の戸籍法とは別物だけど、その原点となったものね。それぞれの目的とか性格の違いについては、気になるなら後で調べてみて。あたしの本にも詳しく書いているわ」
「すみません、読みます」
「まあ本題は明治時代よ。ここで忌々しい近代戸籍制度が確立する。明治政府は維新後すぐに戸籍の整備に着手して、一八七一年に戸籍法が公布されるわ。その翌年には〈壬申戸籍〉が編製されて、そこから改正を繰り返していくんだけど……これらは国民の把握と保護を目的に謳いながら、その実、いわば明治政府にとって都合の良い国民、ひいては家族像を植え付けるために機能したの」
総一郎さんの語り方に、段々と敵意みたいなものが滲み出しているのを感じる。
眼鏡の奥の視線は、いつしか僕ではなくて、斜め上の空中に向けられている。
「当然よね。それまでの日本には、年金も医療保険も介護も、そういう個人が届出を行うような制度や習慣がなかったんだもの。だから戸籍を、新たな市民権の保証をもたらす基礎資料とすることで、実質的に登録を強制した。反対に登録しない者はあらゆる社会関係から排斥される。無戸籍者の歴史がそれを物語っているわ。おかげさまで、戸籍がこの国において自分という存在の正統性を証明するという幻想は、現代まで続いている。もはや一種の信仰よ。『戸籍を汚したくない』なんて云って、生まれた子の出生届を出さない親がまだいるんだから」
「それは意味が判らないですね……」
生まれてきた子よりも戸籍が大事?
そこまでして〈きれい〉に保った戸籍に、どんな意味があると云うのだろう。
「とにかく、大多数の人々にとって戸籍は当たり前になったし、家族は当たり前になった。戸籍は親族関係を登録・公証するものだって、最初に話したでしょう?」
「はい」
「つまり戸籍は家族の在り方を規定するというわけ。結婚して、子どもを産んで、幸せな家庭を築く。そういう価値観ね。これが長年に渡って根強く残り続けてきたんだけど……私に云わせればようやく、本当にようやく、その効力も弱まってきたところよ。特に若い世代の間では今、そんな生き方に疑問を持っている人が少なくないでしょう?」
「そういう気がします。多様性の時代と聞きますし」
「グローバル化やインターネットの普及が大きいわね。人々の価値観は急速に、個人主義を中心としたものに変化している。家族単位での管理は、もはや時代にそぐわない。そこで要請されたのが、人々を個人単位で管理するマイナンバー制度なの」
総一郎さんは、そこで再び溜息を吐いた。
今度は憂いと云うよりも、呆れのニュアンスが感じられた。
「実は、戦後の民法改正時にも『籍』を家族単位から個人単位に変えるという話は出ていたんだけどね。当時の司法省は紙不足を理由にこれを見送って、そのままになっていたの。だから、それが戸籍じゃなくてマイナンバー制度によって叶えられるものと、あたしは思ったんだけど……そういう話じゃなかった。戸籍制度からマイナンバー制度への移行じゃないの。戸籍制度を残したまま、新たにマイナンバー制度を導入して、マイナンバーと戸籍を紐づけるなんて云っているのよ? これだから頭が痛くなるわけ」
「マイナンバーも戸籍の存在が前提なんですね。住民票と同じで」
「ええ。だけど戸籍が有していた機能のうち、社会福祉的な機能はとっくに住民票に移ってる。租税徴収の機能はマイナンバーに移る。いずれも戸籍なんかより利便性が高いからよ。むしろ戸籍の存在という二重性は不便なばかりだわ。じゃあ戸籍の廃止をなぜやらないの? 国は戸籍制度について抜本的な改善を図らないまま、その上に制度を追加していく。無戸籍問題を本気でどうにかしようとしていないのよ」
彼女の怒りの理由が判った。
もしかすると、戸籍制度に問題があるのは仕方ないのかも知れない。長い歴史の中で複雑な変遷を辿ったのだ。常に完全な法や制度なんて存在しないだろう。だが、その改善に真剣に取り組んでいる姿勢が見られないからこそ、彼女は国を信用しなくなった。
「それが、天地家をつくった理由ですか?」
「ええ。国を頼れないなら、自分達でどうにかするしか――」
その時だった。
廊下から、館内放送と判る満代さんの声が響いてきた。総一郎さんの書斎を出てすぐのところにスピーカーがあるため、扉を隔てていても内容は聞き取れる。
『助けてください! 誰か早く消火器を! 火事です! 耕大が燃えてます!』
僕が「えっ?」と間抜けな声を洩らす一方で、総一郎さんはすぐに立ち上がった。満代さんのザラついた叫び声が続いている。
『耕大の部屋です! 火が消えなくて! 耕大が死んじゃいますう!』
何だって?
総一郎さんが駆け出した。僕も遅れて彼女に続く。豊さんが「僕のことはいいから行って。施錠して自分の部屋にいるよ」と云う声がする。ああそうか、ひとりで残るのは避けるべきだが彼がそう云うなら大丈夫だろう。総一郎さんを追って、僕と桜野も廊下に出る。
火事。耕大さんが燃えている。事故か? それとも――
「総一郎さん、消火器は!」
「階段の下にある!」
小柄な後ろ姿が廊下を駆けていく。左手に曲がって、向かう先は拓也さんの死体があったのとは別の階段だ。耕大さんの部屋に行くにも、そちらの方が近い。満代さんが『誰かあ! 誰かああ!』と叫ぶ声に同じく館内放送で返事をしたいけれど、現場に行くのが優先だろう。
階段の下で総一郎さんに追いついた。僕が消火器を拾い上げて抱え、二人並んで階段を駆け上がる。運動不足の桜野は少し遅れているらしい。二階の廊下を走る。何度か曲がって、耕大さんの部屋がある通りに出る。パジャマ姿の満代さんと恵ちゃんが立っている。
「早くう!」
煙の出ている部屋がある。覗き込むと、黒煙が立ち込める部屋のなか、入ってすぐのところに久保田さんがいて、奥ではベッドが炎に包まれている。そのベッドから上半身だけ床に落ちたような格好で誰か――耕大さんが同じく炎をまとって伸びている。
「すまん、火を消せんかった!」
「消火器を持ってきました!」
しかし使ったことがない。直感的にホースを持って火元に向け、もう片方の手でレバーを引こうとして、一度持ち直さないといけないことに気付く。どうにか片手はホース、片手はレバーを握った状態で持っても、今度はレバーが動かない。ああ、安全ピンだ――と思ったのと同時に、横から久保田さんがピンを抜いてくれた。レバーを握り込む。
消火薬剤が勢い良く噴射される。
僕は転倒しないように踏ん張り、噴射を続けながら火元へと近づいていく。白い薬剤が跳ね返るようにして部屋中に広がり、視界が塞がれてしまう。薄く開いた視界の中で炎も判らなくなっていく。ちゃんと消えているのだろうか。
「もういい! 止めろ! 止めろ!」
誰か複数人の咳き込む声もする。僕はレバーを握り込んでいた手を開いて、息を止めたまま後退する。真っ白だ。身を翻し、辛うじて視認できる出入口から廊下に出る。
「消火できたの?」と総一郎さん。「判りません」と答えるや否や僕も咳き込んだ。酷いにおいだ。焦げ臭さとアンモニア臭みたいなものが混ざり合っている。廊下も視界が悪くなっているが、総一郎さん、久保田さん、満代さん、恵ちゃん、桜野の姿は判った。満代さんと恵ちゃんが「耕大!」「耕大!」と名を呼ぶけれど、部屋の中から返事はない。
「耕大、焼け死んじゃったの?」
恵ちゃんの悲壮な問いに、久保田さんが唸り声を上げる。
「手遅れかも知れん。吾輩が駆け付けたときには既に……」
何が起きたのか。どうしてこんなことになったのか。
「少し離れましょう。薬剤も人体に良くないはずだから」
「ああ……耕大……」
まだ部屋には煙と薬剤が立ち込めている。換気しようにも窓は開けられない。換気扇を回したところで此処は地中なのだ。出ていく空気も入ってくる空気もない。廊下に漏れ出た空気がゆっくりと屋敷の中を広がっていくのに任せるしかない。
やがて室内の状況が確認できるようになった。僕の我武者羅な消火活動は功を奏し、火は消えていた。あとには焼け焦げたベッドと、その足元に耕大さんの焼死体が残っていた。
見るに堪えない姿だった。
全身が焼け爛れていた。顔も頭髪や皮膚はほとんど残っていなくて、歯がむき出しになっていた。骨まで焼けてはいなかったが、火葬を中断して炉から遺体を引きずり出したような、そんな状態となっていた。
それでも面影や体格、燃え残った衣服から、耕大さんであることは判った。〈家族〉の皆と久保田さんもそれを認めた。総一郎さんも満代さんもひと目見ただけで視線を逸らしてしまったけれど、充分に判ったと云った。恵ちゃんのことは部屋に入れなかった。この変わり果てた姿はショックが大きすぎる。
絶命していることも、久保田さんと桜野によって確かめられた。誰の目にも明らかなことではあったが。
燃えたのはベッドの周辺だけだった。これは鉄筋コンクリート造なのが幸いした。コンクリートは千度の高温にも耐える。燃え移るような家具も近くになかったため、部屋全体は無事で済んでいた。
そして桜野が、床に落ちている長形3号の茶封筒に気付いた。
部屋の内側、扉のすぐ横にあたる壁際だ。
既視感のある茶封筒。それを見た途端、僕の背中には悪寒が走った。
桜野はポケットに入れていたビニール手袋を嵌めて封筒を拾った。中にはA4のコピー用紙が三つ折りにされており、開くと短い文章が印字されていた。
『地獄に落ちた罪人は業火に焼かれなければならない。』
『天国と地獄の処刑人より』
ああ、桜野が云っていたとおりだ。土砂崩れ。クローズド・サークル。そして連続殺人。この状況はすべて意図されていた。〈天国と地獄の処刑人〉は屋敷の中にいる。




