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名探偵・桜野美海子と天国と地獄  作者: 凛野冥
一日目 五月二九日(水)
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18/48

15(1)「無戸籍問題」

    15


 午後十時半。桜野と僕は総一郎さんの書斎を訪れた。

 事件の記録を取っているなかで、僕は改めて自分が無戸籍問題について理解していないことを痛感した。しかし天地家そのものの背景である無戸籍問題への理解なくして、今回の事件を考えることはできないだろう。そこで桜野に教えを乞うたのだが、

「私よりも総一郎さんから教えてもらった方が早いし正確でしょ」

「いや……本当に恥ずかしいんだけど、僕は総一郎さんのエッセイすら、まともに読んだことがないんだ。申し訳なくて本人になんて訊けないよ」

「塚場くんは妙なことを気にするなぁ。ほら、私も一緒に行ってあげるから」

 そう云う桜野に半ば強引に連れて来られてしまった。

 総一郎さんはひとりで書斎にいた。デスクに座っていたため何か作業中だったのかも知れないが、快く僕らを迎えてくれた。豊さんは隣の部屋にいて、大声を出せば互いに聞こえるし、それに内側から施錠できる部屋なので心配ないという話だった。

 僕が恐る恐る来意を告げても、彼女は嫌な顔ひとつしなかった。

「関心を持ってもらえて嬉しいわ。特に無戸籍問題は、当事者じゃないと問題の存在すら知らないで生きている場合が多いから」

「すみません、こんなときなのに……」

「むしろ気が紛れて助かるわよ。ひとりで考え込んでいたら落ち込む一方でしょう? それで、何から聞きたいの?」

 僕らは今度も向かい合う格好でソファーに腰掛けた。隣の桜野は口を開こうとしない。知りたいのは僕なのだから、僕が質問しないといけないだろう。しかし漠然と「無戸籍問題って何ですか?」なんて質問は論外だ。ああ、本当に判らない事柄というのは、何が判らないのかも判らないものである。

 すると総一郎さんは僕の状態を察して、彼女の方から説明を始めてくれた。

「まず戸籍とは何か。簡単に云えば、この国において、人の出生から死亡までの親族関係を登録・公証するものね。現行の戸籍は原則としてひと組の夫婦と、その夫婦と同じ氏を持つ未婚の子を単位として編製される。子が結婚すれば親の戸籍から除籍となって、新たな戸籍がつくられるわ。記載内容はまず本籍と筆頭者……そして戸籍に記載される者全員について、氏名、生年月日、父母の氏名と続柄、出生事項に婚姻事項といったところね。戸籍の作成や手続きは戸籍法に定められていて、その管轄はもちろん法務省だけど、戸籍事務は各市区町村が担ってる。国は助言・勧告(かんこく)・指示等を行うという整理よ」

「あの、すごく初歩的な疑問で、訊きづらいんですが……」

「気にしないで。何かしら?」

「住民票と戸籍は、どう違うんでしょう?」

「住民票は居住関係を公証するものね。戸籍に記載される本籍は、必ずしも実際に居住している住所じゃない。壮太くんはマンションで一人暮らしなのよね?」

 僕は首肯(しゅこう)する。小説で何度か書いていることだ。

「じゃあ住民票はいま住んでいるマンションの住所だけど、本籍地は実家のままじゃないかしら?」

「たぶんそうです。ああ、だから引っ越しのときに移すのは住民票だけなんですね」

「ええ。まだ独身で壮太くんの年齢なら尚更(なおさら)、戸籍には馴染みがないわよね。自治体の福祉サービスだって住民票が主体となっているんだもの。健康保険も就学も選挙権も、住民票さえあればまず困らないわ」

「そうですよね。これまで住民票の提出を求められたことは何度かありますけど、戸籍が必要となったことはなくて……」

「でも、そもそも住民票は戸籍をもとにして登録されるのよ」

 僕は一気に腑に落ちた。

 意識する機会が少なくても、大元は戸籍なのか……。

「だから無戸籍が問題になるんですね」

 総一郎さんは一度頷いた後で「まあ」と云って区切った。

「実は福祉サービスには、制度上は住民票を必須としないものも多いんだけどね」

「そうなんですか?」

「たとえば国民健康保険は住民票がなくても加入できる。でも、それが自治体に周知されてなかった実態があるの。二〇〇七年に厚生労働省からの通知によって改めて周知が図られたけど、それでも役所によって、あるいは窓口の担当者によっては、住民票の添付がないと拒絶されてしまう」

「でも、本当は加入できるはずなんですよね?」

「ええ」

「なら、そう云えば良いんじゃ……」

「壮太くんは今、あたしの説明を聞いたからそう云える。だけど考えてみて。役所で駄目と云われたら、それを信じるでしょう? 役所の担当者でさえ理解しきれていない法令や制度を無戸籍者が理解していて、みんながみんな担当者相手に交渉できると思う?」

「いえ……無理ですね」

「制度上の可否と実態とは異なるの。無戸籍問題に向き合っていけば嫌と云うほど思い知ることになるわ。無戸籍者の生涯には、周囲の無理解や偏見が付きまとう。そうね……仕事と恋愛を例に挙げましょうか。どちらも人が生きるうえで大事なことでしょう?」

 総一郎さんは人差し指を立てる。

「まず仕事だけど、無戸籍で住民票がなければ、マイナンバーカードもつくれない。他の身分証だって持ってないわ。すると大抵の企業は雇ってくれない。いくら事情を説明したって駄目よ。アルバイトさえ厳しい。採用担当者は、わざわざ身分を証明できない人間なんて雇おうとしないの。無戸籍と聞いたら、普通の人は何か怪しいぞと思う。無戸籍者の職業選択の幅は極めて狭い。結果、劣悪な労働環境に身を置くしかなくなる。ブラック企業やブラックバイト……反社会的勢力に取り込まれる人もいるわ」

 人差し指に加えて、中指が立てられる。

「次に恋愛ね。恋人ができても、無戸籍について打ち明けた途端に離れていかれる。結婚しようとしても、相手の両親が認めてくれない。どっちもよく聞く話よ。無戸籍と云うだけで()(もの)扱い。家庭環境がおかしかったんじゃないか……まともな教育を受けていないんじゃないか……この人と一緒になったら、面倒なことに巻き込まれるんじゃないか。それが自然な反応よね。実際、無戸籍者が結婚することも制度上は可能だけど、極めて難しいわ。出生証明書を取り付けないといけないし、無戸籍となった理由の陳述書を親に書いてもらう必要もある。無戸籍者は親との関係が良好でないケースが多いのにね。他にも提出書類が沢山あって、大抵の人は諦めるわ」

 まったく知らない世界の話のようだ。

 しかし、それは僕が知らなかっただけ。

 すべて同じ社会で起きている事実。

「無戸籍者が普通に生きていくことはできないの。銀行口座を持てない。運転免許が取れない。車が買えない。部屋を借りるにも、携帯を使うにも、自分の名義で契約できない。健康保険に加入できなければ医療費は全額自己負担。手術や入院が必要な大怪我をしても、お金が払えずに自宅で自然治癒させるしかなかった……なんて全然珍しくないのよ。あたしも満代も豊も経験してるわ。拓也はそれでも仲間と一緒にバイクに乗りたくて、無免許で運転していたと云っていたわね。あとは他人の身分証を使って、他人になりすまして色んな契約をしたり。拓也が云うとヤンチャに聞こえるかも知れないけど、彼も苦しんだのよ」

「判ります。壮絶だと思います……」

「そんな無戸籍者が、司法統計から少なくとも一万人はいると推定されているわ」

「一万人も?」

 僕が衝撃のあまり鸚鵡返(おうむがえ)ししかできないでいると、隣の部屋から豊さんが自分で車椅子を動かしながら入ってきた。

 和装に白狐の仮面。その異質な姿を見ると、僕はまだドキリとしてしまう。

「すみません、豊さん。お邪魔していて……」

「構わず続けてよ。僕も聞きたいと思って来たんだ」

 ソファーの近くで彼は車椅子を止めた。僕は「ありがとうございます」と礼を述べてから、総一郎さんに訊ねる。いつしか強烈に引き込まれている。

「どうして無戸籍は生じるんですか? 満代さんはご両親の宗教上の理由で、豊さんはネグレクトを受けていて、そういう断片的なことは判ったんですけど……」

「理由は様々よ。満代や豊みたく親に出生届を出す気がないケースも多い。宗教や虐待、ネグレクトの他にも、隠し子だったり、自宅出産なんかで出生証明書がなかったり、色んな事情があり得るけど、だいたい共通しているのは複雑な家庭環境よね。すると子どもが成長して無戸籍に苦しんでも、戸籍をつくることは困難だわ」

「自分で手続きできないんですか?」

「戸籍法上、自分は自分の出生届の届出義務者に指定されていないのよ。届出できるのは基本的に父か母。その下の順位で法定代理人とか医師なんかも指定はされてるけど、あまり機能しないわ。だから無戸籍者が後から手続きしようとしても、届出義務者である親との折衝(せっしょう)が必要になる。それで協力してくれる親なら、最初から無戸籍になんてならないわ」

 そんな……制度上の欠陥じゃないのか?

 自分は確かに存在しているのに、その出生を証明できないなんて理不尽だ。出生証明書だの届出義務者だの、生まれてきた子どもに、そんなものが関係あるだろうか?

「あとは戦争や災害で戸籍が消滅しているケースもある。特に沖縄と樺太・サハリンは深刻ね。海外移民や在留韓国・朝鮮人の問題もあるし……。でも無戸籍者を生む理由のうち最も多いと云われているのは、民法七七二条の嫡出(ちゃくしゅつ)推定によるものよ」

「何ですか、それは」

「母は子を出産するんだから血縁関係が明らかだけど、父はそうじゃないでしょう? そこで定められているのが嫡出推定。まず、妻が婚姻中に懐胎(かいたい)した子は、夫の子と推定する。そして、婚姻の成立の日から二百日を経過した後または婚姻の解消もしくは取消の日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する」

「なるほど……」

「これ(がら)みで無戸籍になるパターンにも、色んなバリエーションがあるわ。そもそもあまりにも不完全で腹立たしい法律だから、歴史も含めて詳しく説明したいところだけど……ひとつ事例を紹介するだけにしましょうか。あたし自身がそのひとつなのよ」

 総一郎さんは溜息を吐いた。その表情が憂いの色を帯びる。

 僕はまた「すみません、たくさん説明いただいてしまって」と謝ったが、

「いいのよ。いつもお客さん達に話していることだもの」

 彼女は微笑み、小さく咳払いを挟んだ。

「あたしの母は、最初の夫との間には子どもができなかったの。二年ほど夫婦でいたけど、生活は最初から上手くいってなかったみたい。それで不倫した愛人との間にできた子どもがあたし。あたしを産んだときには既に離婚していたけど、離婚から三百日は経っていなかった。再婚禁止期間のせいで、不倫相手……あたしの本当の父親ともまだ再婚していないころね。この場合、民法七七二条では誰があたしの父になると思う?」

「まさか……最初の夫なんですか?」

「そのとおり。まったく血の繋がっていない前夫があたしの父。それが嫡出推定よ。出生届に本当の父親を書いたって、受け付けてもらえない」

「実の母親が主張しても?」

「駄目よ。これを覆すには、嫡出否認の訴えか、親子関係不存在確認の訴えしか方法がなかった。だけど両方とも前夫に協力してもらわないと成立しない。母は前夫からDVを受けていた。そのうえ不倫と離婚で関係は決定的に壊れていた。もう前夫と一生関わりたくない母に調停や裁判は無理だったの。戸籍上、前夫があたしの父となることを避けた母は、あたしの出生届を出さなかった。嫡出推定による無戸籍者の、典型的なパターンね」

「おかしいですよ、そんなの」

 その法律や制度の厳格さは、本当に必要なものなのか?

 結果として生まれる無戸籍者は、圧倒的に不利な条件のなかで生きていく運命を課される。法律は人を守るためにあるはずだ。なのに、これでは法律の方が人権を奪い、差別や偏見をつくり出している構造ではないか。

「理解してもらえたみたいで何よりよ。もっとも嫡出推定については近年、徐々に改善されているわ。民法改正があったの。再婚禁止期間の廃止とか、嫡出否認権を母と子にも認めるとか。あたしは今だったら無戸籍にならなかったかも知れないわね」

「そうなんですか。それで無戸籍者がゼロになるわけではないんでしょうけど……」

 ずっと苦しんできた総一郎さんや豊さんの前で、おいそれと「良かった」なんて云うわけにはいかない。良いことには違いないが、今更の改善は彼女達にとって悔しいことでもあるだろう。

 しかし僕は単純な人間なので、表情に表れてしまっていたのかも知れない。

 それを見て取ったのか、隣の桜野が久しぶりに口を開いた。

「塚場くん、忘れてるんじゃない?」

「え、何を?」

「総一郎さんは、無戸籍のまま生きていくことを肯定している立場だってこと」

 そうだった。すっかり頭から抜け落ちていた。

 天地家には、総一郎さんをはじめ、無戸籍に苦しめられた人が多く含まれている。しかし彼女らは戸籍なんて必要ないと主張し、この山奥の屋敷で集団生活しているのだ。

「ええ。現代のあたし達が戸籍に縛られる必要はないと考えているわ」

「それは、どうしてなんですか?」

 訊ねたところで、書斎の扉が開いて耕大さんと久保田さんが姿を現した。

 久保田さんは変わらず白衣だが、耕大さんは寝間着だし、二人とも風呂上がりだろう。満代さん、恵ちゃんの次が彼ら二人の順番だった。案の定、耕大さんは総一郎さんと豊さんに風呂が空いたことを告げた。それから桜野と僕にギョロリ――というのは元々そういう目なだけで、普通に視線を向けると、面目なさそうに頭を下げた。

「さっきは申し訳なかった。夕食の席で、少々取り乱してしまったね。桜野さんと塚場さんに対しても失礼な発言をしてしまったと思う」

「いえ、お気になさらないでください」

 落ち着いてくれた様子で安心した。

 僕らを取り巻く状況自体は何も変わっていないのだけれど。

「ありがとう」と云って、耕大さんは相好(そうごう)を崩す。「何だか君たち二人を見ていると、昔の総一郎を思い出すよ」

「桜野と僕ですか?」

「うん。若くして頭角を現しているところがね。今の年齢は二人とも十九だろう? 総一郎がデビューした年齢とほとんど同じだ。塚場さんは同じミステリ作家なわけだし」

「僕なんか全然ですが……」

 桜野に関しては、そのとおりだと思う。総一郎さんは虚構の事件を描く小説家、桜野は現実の事件を解決する探偵という違いこそあれど、二人とも業界に衝撃を与え続けている早熟の天才。

 そして僕は耕大さんに似ているのかも知れない。

 天才に()せられて、その活躍を傍から見ていようと考えた存在。耕大さんは資金援助を行い、僕は小説を書いている。まあ僕の活動が桜野の役に立っているかは怪しい。むしろ桜野に食わせてもらっている立場でしかない……。

「吾輩は解決編が待ち遠しくて堪らんね。此度(こたび)の事件を桜野探偵はどう解くか」

 久保田さんが揉み手するのを、総一郎さんが「()かしたら駄目よ」と窘めた。

「美海子ちゃんは、絶対の確信を持つまでは推理を口にしないタイプだものね?」

「そうだねぇ」

 桜野は注目を浴びてもマイペースな態度が揺るがない。

 豊さんが「いま、全体の何パーセントくらい判っているの?」と訊ねても、彼女は「そんな割合が出せるのは全体を把握したとき、つまり全部が解けたときだよぉ」と答えるだけだった。サービス精神なんて皆無である。

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