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「これはこれは、フランツ殿! 遠路はるばる、こんな田舎までよくお越しいただいた!」
大階段をドタバタと下りてきたのは、まだ酒の匂いをプンプンと漂わせたジュリアンだった。その傍らには、眠たげな目をこすりながら、派手な朝用のガウンを羽織ったセシリアがぴったりと寄り添っている。
「おはようございます、ローゼンブルク男爵閣下」
フランツ氏は極めて礼儀正しく、しかしどこか距離を置いた洗練されたお辞儀をした。
「昨夜、お使いの方から急なお知らせをいただきましてね。男爵家に眠る大変貴重な古文書群を、我が商会に一括でお売りいただけるとのこと。歴史あるヴェルナー家の血を引く貴家のコレクションとあらば、私どもとしても見逃すわけにはまいりません」
「ハハハ! 大層な言い方をしてくれるじゃないか。まあ、実態はただの黴臭い紙くずだよ。うちの不愛想な妻が地下室で気味悪く溜め込んでいた代物さ。セシリア、お客様に温かいお茶でも出させてくれ……と言いたいところだが、まあ、まずは現物を見てもらおう」
ジュリアンは手を叩き、下男たちに命じて北塔から運ばせたいくつかの大きな木箱を、応接間のテーブルの上に並べさせた。
箱の蓋が開けられる。中には、何世紀もの時を経た羊皮紙や、羊皮紙の巻物、革張りの古書がぎっしりと詰まっていた。
セシリアが、フランツ氏に向かって可憐な笑みを向けながら鼻を鳴らした。
「フランツ様、本当にこんな汚いものを買ってくださるの? ジュリアン様はね、このお金で私に帝都の新しい劇場を作ってくださるのよ。私、踊り子たちのパトロンとして、社交界の華になる約束なんですの」
フランツ氏はセシリアの言葉には一切眉を動かさず、ただ静かに「それは素晴らしい構想でございますね」とだけ返した。その瞳には、浅薄な小娘に対する一切の興味が含まれていなかった。
フランツ氏は手袋をはめた手で、ゆっくりと木箱の中の書類を検分し始めた。
私は、応接間を見下ろす二階の吹き抜けの回廊に立ち、手すりに優雅に肘をかけて、その光景を静かに見下ろしていた。今日の私は、一切の装飾を排した黒に近い深い紺色のドレスを身に纏っていた。まるで、誰かの喪に服しているかのように。
フランツ氏の手が、木箱の真ん中に差し入れられる。
そして――彼の長い指先が、私があらかじめ忍ばせておいた、あの銀色の紋章が捺された革張りの手帳に触れた。
フランツ氏の動きが、一瞬だけ止まった。
眼鏡の奥の瞳が、かすかに細められる。彼はその手帳を静かに開き、最初の数ページを素早く目線で走らせた。そこには、先代男爵と現当主ジュリアンによる、違法な銀の取引記録と、王室への虚偽報告の数字が、完璧な証拠とともに並んでいる。
さらに、そのページの隅には、私が今朝未明に密かに書き加えておいた、解読のための「暗号の鍵」が、極小の文字で付記されていた。
フランツ氏は、手帳を開いたまま、ほんの数秒間、沈黙した。
そして、彼はおもむろに顔を上げ、吹き抜けの回廊の上に立つ私へと、視線を送った。
視線と視線が、空気中で交錯する。
私は、何の感情も読ませない、完璧な無表情のまま、ただかすかに、一ミリにも満たない角度で顎を引いた。
『すべて、あなたに差し上げます』という、無言の合図。
フランツ氏の唇の端が、ほんのわずかに、極めて冷酷な笑みの形に歪んだ。彼は何が起きているのかを瞬時に理解したのだ。この男爵家が、自ら首を括るための縄を、満面の笑みで差し出してきたということを。そして、その縄を編み上げたのが、回廊の上に立つ冷徹な令嬢であることを。
「……素晴らしい」
フランツ氏は、手帳を静かに閉じ、木箱の中へと戻した。
「想像以上の、誠に『歴史的価値』の高い素晴らしい資料群でございます、男爵閣下」
「おお! そうだろう、そうだろう! さすがは帝都一の目利きだ!」
ジュリアンは声を弾ませ、セシリアの腰を抱き寄せた。
「で、いくらで買ってくれるんだ? 帝都の劇場の着工金としては、最低でも金貨五千枚は欲しいところなんだがね」
フランツ氏は、胸ポケットから万年筆と、最高級の羊皮紙で刷られた売買契約書を取り出した。
「提示された条件、すべてお飲みいたしましょう。金貨五千枚相当の帝都中央銀行の小切手を、ただちにお振り込みいたします。ただし……これほど貴重な古文書群です。今すぐ、この場で契約書にご署名をいただき、私どもが用意した馬車で持ち帰らせていただくことを条件とさせていただきます」
「おいおい、本当か!? 金貨五千枚を即金で!? ハハハ、フランツ殿、君は話がわかる男だ!」
ジュリアンは歓喜の声を上げ、フランツ氏が差し出した契約書の中身を精査することすらせず、差し出されたペンをひったくるようにして、豪快に己のサインを走り書きした。
契約成立の瞬間だった。
ジュリアン・ローゼンブルクは、己の愚かさと強欲ゆえに、自らの家を滅ぼす決定的な証拠を、王室の密偵へと正式に「売却」したのだ。金をもらって、自らの処刑台を買い取ったのだ。
「確かに、ご署名いただきました」
フランツ氏は契約書を丁寧に折りたたみ、懐へと収めた。その手つきは、まるで獲物を完全に仕留めた狩人のように迅速で、冷ややかだった。
「では、書類の搬出に入らせていただきます。男爵閣下、素晴らしいお取引をありがとうございました。……数日後には、帝都から『より盛大な返礼』が届くことでしょう」
「ああ、楽しみにしているよ! 帝都で劇場が完成した暁には、君を特等席に招待してやるからな!」
ジュリアンは満足げに鼻を鳴らし、小切手を愛おしそうに撫でまわした。
フランツ氏は部下たちに命じて、古文書の詰まった箱を素早く馬車へと積み込ませた。そして、館を去る直前、彼は二階の私に向かって、深く、意味深なお辞儀を一つ残していった。
馬車の車輪が音を立てて走り去り、中庭に再び静けさが戻ってくる。
「おい、見たかセシリア! 金貨五千枚だぞ! あの女が大切に抱え込んでいたゴミくずが、俺たちの黄金に変わったんだ!」
ジュリアンは大声で笑いながら、階段を見上げた。そして、二階の手すりに佇む私を見つけると、勝ち誇ったような、歪んだ蔑みの笑みを向けた。
「やあ、エレノア。見ていたか? お前が何年もかけて大事に手入れしていたあの紙くずは、たった数分で俺の小遣いに化けたぞ。悔しいか? 自分の大切なものを奪われて、どんな気分だ? ん? 何か言ったらどうなんだ、冷酷な石像さんよ!」
ジュリアンは階段を数段上り、私を見下ろすような仕草で煽り立てた。セシリアもまた、ジュリアンの背後から私を指差し、くすくすと嫌らしい笑い声を漏らしている。
私は、ゆっくりと手すりから手を離した。
そして、静かに階段を下り、ジュリアンの正面へと歩み寄った。
私の足音は、静寂に包まれた館内で、不気味なほどはっきりと響いた。
「ジュリアン様」
私の声には、怒りも、悲しみも、悔しさも、何一つ含まれていなかった。ただ、深く、透き通った、底なしの静寂だけがあった。
「私が悔しがっているように見えますか?」
「……何?」
ジュリアンは、私のあまりにも落ち着き払った態度に、一瞬だけたじろいだ。彼の勝ち誇った笑みが、わずかに引きつる。
「強がりを言うな。お前はあの書庫を自分の世界だと思っていたんだろう? それを俺が叩き壊してやったんだ。お前の自尊心も、高貴な気取りも、これで終わりだ!」
「いいえ、ジュリアン様」
私は、彼の目の前で、ふっと微笑んだ。
それは、私がこの城に来てから一度も見せたことのない、心からの、心底可笑しそうな、美しい微笑みだった。
「私はただ……感謝しているのですわ」
「は……? 感謝……?」
「ええ。あなたが私の手から、あの重い責任と鎖を買い取ってくださったことに。これでようやく、私も次の段階へ進むことができます」
ジュリアンは意味が分からず、不快そうに眉をひそめた。
「相変わらず意味の分からん女だ。頭がおかしくなったんじゃないのか? まったく、不気味な奴だ。おいセシリア、行こう。こんな気味の悪い女と話していても酒が不味くなるだけだ。今日は帝都から最高のワインを取り寄せて、祝い酒だ!」
「はい、ジュリアン様! こんな可愛げのないお姉様なんて放っておいて、早くお部屋でパーティーの続きをいたしましょう!」
ふたりは私に背を向け、肩を抱き合いながら大広間の方へと去っていった。
私は、二人の背中を静かに見送った。
カウントダウンは、始まった。
帝都までの道のりは、速馬を使えば丸二日。
フランツ氏が王室財務庁長官にあの裏台帳を提出し、憲兵隊と王室騎士団が動くまで、およそ三日。
つまり、あと三日。
あと三日で、このローゼンブルク男爵領は跡形もなく破滅し、ジュリアンとセシリアの夢見た「帝都の黄金の劇場」は、冷たい牢獄の鉄格子へと変わる。
彼らが祝杯を挙げている間、私は自室に戻り、旅支度を始めることにしよう。
私がこの城を出て行くのは、明日の夜。
ジュリアン。あなたが最後に飲むその高価な葡萄酒の味を、よく噛み締めておくことね。




