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【完結】私の理性が切れたとき、あなたの人生も切れます  作者: 逆立ちハムスター


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3/6

⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀

夜の静寂は、私のためにあらかじめ用意された完璧な舞台装置のようだった。


大広間から漏れてくる愚か者たちの耳障りな高笑いを背に受けながら、私は静かに暗い回廊を抜け、足早に北塔の地下へと続く螺旋階段を下りていった。石造りの壁からは湿り気のある冷気が立ち上り、私の纏う重厚なシルクのドレスの裾を冷たく湿らせていく。壁に据え付けられた燭台の火が、私の歩みに合わせてゆらゆらと短い影を落としては消えていった。


地下へ至る重い鉄の扉の前に立ち、私はい装飾の施された鍵をポケットから取り出した。


亡き父から受け継ぎ、肌身離さず身につけていた真鍮の鍵。それが重い音を立てて開くと、目の前には数千冊の古文書と羊皮紙の巻物が所狭しと並ぶ、私の密かな聖域――北塔地下書庫が広がっていた。


部屋の中には、古い羊皮紙独特の獣脂の匂い、乾燥した草の匂い、そして鉄ガロインクのツンとした刺激臭が充満していた。ここにあるのは単なる紙の束ではない。このローゼンブルク領、ひいては北方の歴史、土地の血脈、そして人間の強欲と愚行が刻み込まれた「記憶」そのものだ。


私は揺れる蝋燭を机の上に置き、奥の壁際にある頑丈な樫の木のチェストへと近づいた。


ジュリアンは先ほど、社交界の衆人環視の中で誇らしげに宣言した。「黴臭い古文書群を売却する」と。彼は、このチェストの中に何が眠っているのかを、ただの一度も確かめようとしなかった。ただ「古くさい」「金にならない」「妻が大事にしているから気に食わない」という、小学生並みの幼稚な理由で、これを帝都の古物商へ売り払う決断をしたのだ。


私はチェストの鍵を開け、蓋を静かに持ち上げた。


中に収められているのは、ただの歴史書ではない。


ローゼンブルク男爵家が過去三代にわたり、王室財務庁の目を盗んで行ってきた、違法な銀鉱山の隠蔽工作と、北方国境を越えた密貿易の克明な記録――いわゆる「裏台帳」である。


ジュリアンの亡父、先代の男爵は、狡猾な男だった。彼は表向きは王室に忠誠を誓いながら、領地北部の山岳地帯から産出する銀の一部を王室への申告から除外し、私服を肥やしていた。そして、ジュリアンという男は、その違法な収入の仕組みすら理解せぬまま、ただ毎月湧き出てくるように口座に振り込まれる金を受け取り、自分の才能によるものだと錯覚して贅沢に浪費し続けていたのだ。


私は5年前、この家に嫁いできた直後にこの裏台帳の存在に気づいた。


当時の私は、まだ青かった。妻としての義務感と、家名を汚してはならないという旧来の道徳観に縛られていた。だからこそ、私はこの致命的な不祥事の記録を秘密のチェストに封印し、自らの卓越した会計能力をもって、表の台帳の辻褄を完璧に合わせ続けてきたのだ。彼らが犯した罪の補填を、私が影で税収の構造改革を行い、自らの持ち出しで穴埋めすることで、国家叛逆罪という断頭台の刃から彼らを必死で守り続けてあげていたのだ。


実に、バカバカしい。


私は自笑した。暗闇の中で漏れた私の溜め息は、冷たい空気に白い霧となって消えた。


私自身が、私を縛る理性の鎖となっていたのだ。


「守ってあげる必要など、最初からどこにもなかったのに」


私は手袋をはめた指先で、最も決定的な証拠となる三冊の革張り手帳を取り出した。そこには、先代男爵の署名だけでなく、ジュリアン自身が数年前に私に黙って交わした、密輸業者との裏取引のサインがしっかりと残されている。


私はその手帳を、明日古物商フランツ氏へ渡すためにまとめられた「一般的な歴史文書」の山の一番上、最も目立つ位置へと丁寧に挟み込んだ。


誰が見ても、一目でそれが「何であるか」が分かるように。


フランツ氏は、単なる骨董品を扱う商人ではない。


彼は帝都の社交界で洗練された美術商として通り通っているが、その実体は王室財務庁長官の直属であり、貴族たちの不正を暴くために張り巡らされた「帝国の陰の目」だ。私が二年前、帝都の慈善事業の会合で彼と出会った際、彼の洗練された物腰の裏にある鋭い眼光を見抜き、密かに文通を重ねてきた相手でもある。


彼は明日、表向きは「ジュリアン男爵から買い取る古文書の査定」としてこの館を訪れる。


そして、ジュリアンが差し出す書類の山の中から、私があらかじめ目立つように置いておいたこの裏台帳を目にするのだ。


その瞬間、何が起こるか。


フランツ氏は査定額を提示し、ジュリアンと正式な売買契約を交わすだろう。ジュリアンは目先の金を手に入れて歓喜し、契約書に署名する。


そしてフランツ氏がその足を帝都へ戻した瞬間――その書類は王室財務庁へと提出され、ローゼンブルク男爵家に対する「全財産差し押さえ」と「国家叛逆・大規模脱税容疑による拘束命令」が発令される。


契約を交わしたのはジュリアン本人だ。「自分の意思で、家の秘蔵文書を売り払った」という事実が、彼を言い逃れのできない地獄へと叩き落とす。


「エレノア様」


背後から、静かな声がした。


振り向くと、暗がりの中に、私の幼少期から身の回りの世話をしてくれている老侍女のマリアが立っていた。彼女の顔には動揺の色はなく、ただ静かな理解と忠誠だけが宿っていた。


「準備は、すべて整いましたか?」


「ええ、マリア。私名義の資産、亡き父様から相続した不動産の権利書、そして母様の遺品である宝飾品類は、すべて昨日までに帝都のロートシルト銀行の金庫へ移し終えたわね?」


「はい。現在、この城の口座に残されているのは、ジュリアン様が作られた莫大な負債と、明日支払われる予定の不当な手形のみでございます。エレノア様のお手元には、一切の傷も残らぬよう処理いたしました」


「ご苦労様、マリア。あなたにも苦労をかけたわね。明日の夕方には、あなたも妹さんのいる南部の領地へ避難しなさい。退職金と今後の生活費は、すでに帝都の口座から引き落とせるように手配してあるわ」


マリアは深く、静かに頭を下げた。


「エレノア様……長きにわたり、お辛い日々でございました。あのような浅薄なお方に、様のお命と才能を捧げ続けるのは、あまりにもお痛わしいことでございました」


「辛くはなかったわ、マリア。ただ、退屈だったの」


私は蝋燭の火を手に取り、チェストの蓋を静かに閉めた。カチャン、と金具が噛み合わさる音が、運命の歯車が噛み合った音のように心地よく響いた。


「感情に任せて怒ることも、泣き喚くことも、私には苦痛だった。だから理性に逃げていたのね。でも……理性を捨てて『ただの現実』として処理することに決めたら、こんなにも心が軽くなるなんて思わなかったわ」


私は自分の胸に手を当てた。


そこにあるのは、冷徹な静寂と、これから訪れるであろう完璧な崩壊への、透明な期待だけだった。



翌朝。


澄み切った秋の空から、冷たい日光がローゼンブルク城の中庭に降り注いでいた。


昨夜の宴の喧騒が嘘のように、館全体が重い沈黙に包まれている。朝もやが立ち込める中、一台の黒塗りの馬車が、音もなく城の門をくぐってきた。


御者台から下り立ったのは、一分の隙もない漆黒のフロックコートを纏った、背の高い男だった。白髪交じりの整えられたヒゲ、細フレームの眼鏡の奥で光る鋭い灰色のアッシュブルーの瞳。帝都屈指の古物商であり、王室の密偵でもある、フランツ・フォン・ヴェーバーその人であった。

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