表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】私の理性が切れたとき、あなたの人生も切れます  作者: 逆立ちハムスター


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/6

⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀

紙くず。


亡き父が、病床で震える手で私に託した言葉。「エレノア、知性は力だ。土地や金は奪われることがあっても、頭の中に蓄えた知識と、それを記録した言葉だけは、誰もお前から奪うことはできない。理性を保ち、書物を守りなさい」


父が死ぬ直前まで拭いていた羊皮紙の匂い。暗い書庫で、蝋燭の火を頼りに一つ一つの文字を解読し、この領地の荒廃を防ぐために私が注ぎ込んだ、数千時間という膨大な時間。


それを、この男は、一興の劇場のために売却する、と言った。


踊り子のために。ただの浅薄な虚栄心のために。


私は、自分の胸の奥で、何かが静かに「ミシリ」と音を立てたのを感じた。


それは、これまで私を支え、私を「高貴な淑女」として繋ぎ止めていた、強固で冷たい理性の鋼の糸だった。


その糸に、目に見えないほど細い、けれど決定的なひびが入った。


「……エレノア?」


ふと、私の異常な静けさに気づいたのか、近くに座っていた老子爵が不安そうに声をかけてきた。


私はその声に応えず、ゆっくりと硝子杯をテーブルの上に置いた。カタン、という小さな音が、なぜか私の耳には世界が崩壊する音のように大きく聞こえた。


理性が切れる。


世間の人々は、理性が切れるという現象を、感情を爆発させて叫び散らし、物を壊し、泣き喚くことだと思っている。怒りに狂って我性を失うことだと信じている。


だが、それは違う。


本当の理性が切れる瞬間とは、完全に冷静になることなのだ。


感情という衝動すらも消え去り、相手を「同じ人間」として認識することをやめ、ただの「排除すべき障害物」または「不愉快な害虫」として処理するための、完全なる計算状態に入ることなのだ。


私の理性の糸が切れたとき。それは、私が「妻」であり「淑女」であることをやめ、彼らを生かしておくための配慮を全て投げ捨てることを意味する。


ジュリアン。あなたは知らない。


あなたが今着ているその上質なヴェルヴェットの服が、誰の計算によって購入できたのかを。

あなたが毎日傾けているその高級葡萄酒の輸入ルートを、誰が守っているのかを。

この城の兵士たちが、誰の命令によってあなたに反乱を起こさずに従っているのかを。

そして何より――このローゼンブルク男爵領の全財産の権利書と、王宮への献金額の裏台帳が、誰の指先一つで動くようになっているのかを。


あなたが私に頼り、私に生かされていたという事実にすら気づかないほど、あなたは愚かだった。


私が「理性」という重い鎖で自分自身を縛っていたからこそ、あなたは男爵として笑っていられたのだ。その鎖を、今、あなた自身がその手で断ち切った。


「エレノア様……? お顔色がよろしくありませんわ。やはり、大切な古文書がお手元から離れるのがお寂しいのですか? でしたら、私、ジュリアン様にお願いして、一枚くらいはお手元に残して差し上げてもよろしくてよ?」


セシリアが、嘲笑を隠そうともせずに私に向かって言った。彼女は自分がどれほど危険な猛獣の檻の扉をこじ開けたのか、全く理解していないウサギのような顔をしていた。


私は、ゆっくりと顔を上げた。


背筋をまっ振りに伸ばし、優雅に、完璧な所作で立ち上がる。


大広間の視線が私に集まった。ジュリアンもようやく私に目を向け、眉をひそめた。


「なんだ、エレノア。不満があるなら言ってみろ。だが決まったことだ。いまさら泣きついても……」


「いいえ、ジュリアン様」


私の口から出た声は、自分でも驚くほど美しく、透き通っていた。


まるで極寒の冬の朝、凍りついた湖面を渡る風のように、涼やかで、静かで、冷徹な声。


「何も不満などございません。あなたの素晴らしいご決断に、心より感服いたしました」


私はそう言うと、深々と、完璧な角度で頭を下げた。社交界で最も美しく、最も隙がないと言われた、ヴェルナー公爵家伝来の完璧な一礼。


ジュリアンは一瞬、拍子抜けしたような顔をし、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「ふん、なんだ。拍子抜けだな。やはりお前には感情がない。まあいい、自分の立場が分かっているなら結構だ」


セシリアもまた、つまらなさそうに鼻を鳴らした。


彼らは気づいていない。


私が頭を下げたその角度、その暗がりの中で、私の唇の端が、微かに吊り上がっていたことに。


理性の糸は、完全に切れた。


パチン、と。心地よい音を立てて。


ジュリアン。あなたが売ろうとしているあの古文書群の中にはね、ローゼンブルク家が過去三代にわたって王家に隠蔽してきた、決定的な「脱税と叛逆の記録」が含まれているのよ。


私が理性という鎖で縛られていたからこそ、それらは暗い地下室で眠っていた。私があなたを守るために、必死でその存在を隠し続けていたから。


でも、明日フランツ氏がそれらを引き取りに来て、検分を始めたらどうなるかしら?


フランツ氏はただの古物商ではないわ。王室財務庁の密偵としても動いている男よ。私が三年前から、万が一の時のために彼と個人的なパイプを作っておいたの。


あなたがセシリアのためにあの書類を売り払った瞬間、ローゼンブルク家は国家叛逆罪と莫大な脱税の罪で、全財産没収、爵位剥奪、そしてあなた方は処刑台へと送られることになる。


あなたがセシリアの笑顔を買うために払った代償は、あなた自身の首なのよ。


そして、私がこれまで秘かに蓄えてきた、私個人の名義の財産と、亡き父の残した本当の遺産は、すでに昨夜のうちに帝都の信頼できる銀行へと送金済みだわ。


明日、この城に残るのは、莫大な借金と、王室からの査察官と、絶望だけ。


「それでは、皆様。私は少々気分が優れませんので、お先に失礼いたします。どうぞ、素晴らしい宴の続きをお楽しみくださいませ」


私はもう一度美しく微笑み、旋回した。


シルクのドレスの裾が、静かに大理石の床を滑る。


背後で、再びジュリアンの能天気な乾杯の音頭と、セシリアの甲高い笑い声が響き始めた。


私は暗い廊下へと足を踏み入れた。


一歩、また一歩。


冷たい石造りの回廊を歩く足音だけが、静かに響く。


胸の中は、不思議なほど静かだった。激しい怒りも、悲しみも、何一つない。ただ、どこまでも透明で、どこまでも澄み切った、完璧な破壊の計算だけが頭を満たしている。


あなたの人生が切り刻まれる音を聞くのが、今から楽しみでならないわ、ジュリアン。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
タイトルだけで、背筋がゾクゾクします! 続きが楽しみ!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ