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紙くず。
亡き父が、病床で震える手で私に託した言葉。「エレノア、知性は力だ。土地や金は奪われることがあっても、頭の中に蓄えた知識と、それを記録した言葉だけは、誰もお前から奪うことはできない。理性を保ち、書物を守りなさい」
父が死ぬ直前まで拭いていた羊皮紙の匂い。暗い書庫で、蝋燭の火を頼りに一つ一つの文字を解読し、この領地の荒廃を防ぐために私が注ぎ込んだ、数千時間という膨大な時間。
それを、この男は、一興の劇場のために売却する、と言った。
踊り子のために。ただの浅薄な虚栄心のために。
私は、自分の胸の奥で、何かが静かに「ミシリ」と音を立てたのを感じた。
それは、これまで私を支え、私を「高貴な淑女」として繋ぎ止めていた、強固で冷たい理性の鋼の糸だった。
その糸に、目に見えないほど細い、けれど決定的なひびが入った。
「……エレノア?」
ふと、私の異常な静けさに気づいたのか、近くに座っていた老子爵が不安そうに声をかけてきた。
私はその声に応えず、ゆっくりと硝子杯をテーブルの上に置いた。カタン、という小さな音が、なぜか私の耳には世界が崩壊する音のように大きく聞こえた。
理性が切れる。
世間の人々は、理性が切れるという現象を、感情を爆発させて叫び散らし、物を壊し、泣き喚くことだと思っている。怒りに狂って我性を失うことだと信じている。
だが、それは違う。
本当の理性が切れる瞬間とは、完全に冷静になることなのだ。
感情という衝動すらも消え去り、相手を「同じ人間」として認識することをやめ、ただの「排除すべき障害物」または「不愉快な害虫」として処理するための、完全なる計算状態に入ることなのだ。
私の理性の糸が切れたとき。それは、私が「妻」であり「淑女」であることをやめ、彼らを生かしておくための配慮を全て投げ捨てることを意味する。
ジュリアン。あなたは知らない。
あなたが今着ているその上質なヴェルヴェットの服が、誰の計算によって購入できたのかを。
あなたが毎日傾けているその高級葡萄酒の輸入ルートを、誰が守っているのかを。
この城の兵士たちが、誰の命令によってあなたに反乱を起こさずに従っているのかを。
そして何より――このローゼンブルク男爵領の全財産の権利書と、王宮への献金額の裏台帳が、誰の指先一つで動くようになっているのかを。
あなたが私に頼り、私に生かされていたという事実にすら気づかないほど、あなたは愚かだった。
私が「理性」という重い鎖で自分自身を縛っていたからこそ、あなたは男爵として笑っていられたのだ。その鎖を、今、あなた自身がその手で断ち切った。
「エレノア様……? お顔色がよろしくありませんわ。やはり、大切な古文書がお手元から離れるのがお寂しいのですか? でしたら、私、ジュリアン様にお願いして、一枚くらいはお手元に残して差し上げてもよろしくてよ?」
セシリアが、嘲笑を隠そうともせずに私に向かって言った。彼女は自分がどれほど危険な猛獣の檻の扉をこじ開けたのか、全く理解していないウサギのような顔をしていた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
背筋をまっ振りに伸ばし、優雅に、完璧な所作で立ち上がる。
大広間の視線が私に集まった。ジュリアンもようやく私に目を向け、眉をひそめた。
「なんだ、エレノア。不満があるなら言ってみろ。だが決まったことだ。いまさら泣きついても……」
「いいえ、ジュリアン様」
私の口から出た声は、自分でも驚くほど美しく、透き通っていた。
まるで極寒の冬の朝、凍りついた湖面を渡る風のように、涼やかで、静かで、冷徹な声。
「何も不満などございません。あなたの素晴らしいご決断に、心より感服いたしました」
私はそう言うと、深々と、完璧な角度で頭を下げた。社交界で最も美しく、最も隙がないと言われた、ヴェルナー公爵家伝来の完璧な一礼。
ジュリアンは一瞬、拍子抜けしたような顔をし、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ふん、なんだ。拍子抜けだな。やはりお前には感情がない。まあいい、自分の立場が分かっているなら結構だ」
セシリアもまた、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
彼らは気づいていない。
私が頭を下げたその角度、その暗がりの中で、私の唇の端が、微かに吊り上がっていたことに。
理性の糸は、完全に切れた。
パチン、と。心地よい音を立てて。
ジュリアン。あなたが売ろうとしているあの古文書群の中にはね、ローゼンブルク家が過去三代にわたって王家に隠蔽してきた、決定的な「脱税と叛逆の記録」が含まれているのよ。
私が理性という鎖で縛られていたからこそ、それらは暗い地下室で眠っていた。私があなたを守るために、必死でその存在を隠し続けていたから。
でも、明日フランツ氏がそれらを引き取りに来て、検分を始めたらどうなるかしら?
フランツ氏はただの古物商ではないわ。王室財務庁の密偵としても動いている男よ。私が三年前から、万が一の時のために彼と個人的なパイプを作っておいたの。
あなたがセシリアのためにあの書類を売り払った瞬間、ローゼンブルク家は国家叛逆罪と莫大な脱税の罪で、全財産没収、爵位剥奪、そしてあなた方は処刑台へと送られることになる。
あなたがセシリアの笑顔を買うために払った代償は、あなた自身の首なのよ。
そして、私がこれまで秘かに蓄えてきた、私個人の名義の財産と、亡き父の残した本当の遺産は、すでに昨夜のうちに帝都の信頼できる銀行へと送金済みだわ。
明日、この城に残るのは、莫大な借金と、王室からの査察官と、絶望だけ。
「それでは、皆様。私は少々気分が優れませんので、お先に失礼いたします。どうぞ、素晴らしい宴の続きをお楽しみくださいませ」
私はもう一度美しく微笑み、旋回した。
シルクのドレスの裾が、静かに大理石の床を滑る。
背後で、再びジュリアンの能天気な乾杯の音頭と、セシリアの甲高い笑い声が響き始めた。
私は暗い廊下へと足を踏み入れた。
一歩、また一歩。
冷たい石造りの回廊を歩く足音だけが、静かに響く。
胸の中は、不思議なほど静かだった。激しい怒りも、悲しみも、何一つない。ただ、どこまでも透明で、どこまでも澄み切った、完璧な破壊の計算だけが頭を満たしている。
あなたの人生が切り刻まれる音を聞くのが、今から楽しみでならないわ、ジュリアン。




