316.未来の記憶
ウィンは、潜伏先の寂れた雑居ビルの一室へと戻っていた。
捕まった男たちから情報が漏れ、この場所が特定されるのも時間の問題だ。
「急がないと⋯」
事件の首謀者であるバトラーに繋がるデータとログを徹底的に処分しはじめた。
コンソールの光が、彼女の焦燥に満ちた横顔を青白く照らし出す。
『消去完了』の文字を確認し、この場を逃れるべく建物の外へと飛び出した。
夜の路地裏に出たその時、行く手にたたずむ人影が視界に入った。
「ウィン⋯」
その人影は、静かに自分の名を呼んでいた。
ウィンは足を止め、近くまでその人物が歩み寄ってくるのを待った。
しかし、街灯に照らし出された女性の顔には、まったく見覚えがなかった。
ウィンは即座に懐の銃を抜き、容赦なく銃口を相手に向ける。
「誰よ? あんた」
対する女性は両手を上げ、穏やかな声で答えた。
「危害を加えるつもりはないわ」
その声を再び聞いた瞬間、思考が一瞬凍りついた。
その独特な声のピッチ、強弱、そして周波数、どれもよく知る人物そのものだったのだ。
「ミュート? 」
「話せば長くなるわ。⋯でも⋯聞いてほしいの」
ミュリアはそう言うと、首の後ろにある接続ポートから有線接続用のケーブルを引き抜き、ウィンに差し出した。
ウィルスの強制注入、拘束ソフトによる身体の強制拘束、あるいは意識混濁など。
見知らぬ相手からのジャック接続の依頼など、いつものウィンであれば絶対に受け付けるはずがなかった。
特に追っ手が迫るこの逃走の最中、この場で動けなくなるリスクを冒すのは、もっとも愚かで致命的な行為だ。
しかし、ウィンはなぜか拒絶の言葉を口にすることができなかった。
目の前にいる見知らぬはずの女性の、今にも泣き出しそうな、しかし真っ直ぐに自分を見つめるその瞳。
(この接続を受け入れなければ、私は絶対に後悔する)
理性を超えた確信めいた直感が、彼女の警戒心をねじ伏せていた。
説明のつかない強い衝動に突き動かされるように、ウィンは覚悟を決め、受け取ったケーブルを自身の首の後ろのポートへ差し込んだ。
その瞬間、足元の地面が消失したかのような強烈なめまいがウィンを襲った。
(しまった!ウィルス⋯?)
思考回路を侵食する悪性コードを直感したが、それはウイルスなどではなかった。
脳内へダイレクトに流れ込んできた、信じられないほど圧倒的な情報量。
その規格外のデータ量がもたらした、一時的な過負荷だった。
落ち着いて脳内処理を始めると、次第にその膨大な内容が鮮明な形を結び始めた。
ミュリアがウィンに見せたのは、今回の誘拐計画がもし成功してしまった場合に訪れる、『未来の記憶』だった。
実態を伴う記憶の波、そして何より、この時間軸のすぐ先で、ウィン自身が破壊され、その生涯を終えてしまうという、残酷な事実だった。
たっぷり2分間、有線で接続し続けている間、ウィンの身体はその衝撃的な未来の内容から、何度も痙攣のような動きを繰り返していた。
ようやく接続を切り、ウィンはその少しぽっちゃりとした女性を見つめた。
「この誘拐を成功させてたら、そんな事になってたっていうの?それに、私の命は⋯」
あまりの未来の凄惨さと、己のたどる運命の過酷さに、ウィンの声が震えた。
そして、ウィンは目の前のミュリアを見つめ、痛切な表情で深く頭を下げた。
「私が、破壊されたせいで⋯あなたに、こんな長い間つらい思いをさせるなんて。⋯ごめんなさい⋯」
自分のせいで、残された相手に背負わせてしまうことになる、あまりにも長く重い過酷な運命。
その後、ミュリアはリベラに連絡を取り、佐々木のゲストハウスにウィンを連れて引き上げることに決めた。




