戻れない道
その日、黄瀬哲夫の心は晴れやかだった。
長きに亘り、娘の幸せに全てを捧げて来た。 髪の毛は年を経て銀色になった。 娘の事を心配しすぎて頭頂部は薄くなった。 身を切る寒さも、目眩のする暑さにも耐え、娘の為に働き続けた。 身体は悲鳴を上げ、真っ黒に使い古された。
……ようやく努力が報われる。
……ようやく……“呪縛”から解き放たれる。
あの“忌まわしいバケモノ”はもういない。 裏切りの妻の代わりに誕生した“醜い悪魔”。 何度この手で殺そうかと思ったか。 その度に何度心を殺したか。
“本当の娘”の為……。 彼女を立派な女性に育てる為に“人殺し”の汚名を被る訳にはいかなかった。
通り慣れた自宅までの道のり。 悪魔が家に棲み着いていると考えると足取りが重くなった。
――しかし、今は違う――
娘は婚約者に裏切らせた傷心から立ち直り、ようやく幸福な家庭を築こうとしていた。
目に入れても痛くない愛娘。 悪魔に取憑かれたせいか、父に暴力を振るうこともあったが、それも全て過去の話。 新しい命を宿し母の顔となった娘はまるで聖母のようであった。
「……『生まれぬ先の襁褓定め』とは良く言ったもんだが、何事も準備は大切だろう」
自宅の門を前にして両手一杯に袋を抱えている哲夫。 袋には生まれてくる赤ん坊の為のオムツや洋服、オモチャまで詰め込まれていた。
「フフフッ♪ 遙のヤツ、そろそろ赤ん坊の名前も決めとかんといけないのに何をモタモタしてるんだ。
はぁ、全く……。 お父さんも早く孫の名前を知っておきたいんだがなぁ」
満面の笑みを浮かべながらも、残念そうに溜息を漏らした哲夫。 娘の夫が帰宅して来たら早く子供の名前を決めるように叱ってやろうと心に決めた。
……ドアの鍵は開いていた。
娘のサンダルが玄関に置いてある。
「不用心なヤツだな! もう母親になるっていうのに、何をやっとるんだ!」
鍵も閉めずに家で留守番をしている娘に対し、父はさすがに怒りを隠せなかった。
もうじき子供も生まれる大切な身体。
『……もし、暴漢などが押し入ったら』
哲夫は“忌まわしい過去”を思い出し、思わず感情的になった。
不機嫌そうな顔で玄関を上がった哲夫。 ところが、廊下を踏むと二階から涼しげな鐘の音が響きわたり、哲夫の顔に再び笑みが戻った。
『カラン、カラン……』
その音は、哲夫が孫の為に買ってあげた遊具の音であった。
恐らく、娘が遊具を使ってお腹の子供をあやしているのだろう。
「……まったく、まだ産まれてもいないというのに……」
生まれてもいない孫のオムツまで買って来た男が何をかいわんや。 ニッコリと笑みを称え、明日の幸福を夢想しながらゆっくりと廊下を歩く哲夫。
リビングのドアを開け、二階へ続く階段に目を遣った……その時だった……。
『――ピュン――』
それは鋭い風切り音だった。
哲夫の首に針で刺したような痛みが走ると、すぐに全身が耐え難い冷気に包まれた。
(な……なんだ……? 急に……寒……)
混乱する哲夫の目の前に、袋から飛び出したオムツや赤ん坊のオモチャがバラ撒かれた。
『……ゴトッ……』
まるで岩が落ちたかのような鈍い落下音が床に響いた。 哲夫の目には床に転がったヒヨコのオモチャが映っていた。
「……う、生まれた……孫が……俺の……孫が……」
その時、哲夫は幻を見ていた。
幸福の中で子供の誕生に笑みを浮かべる娘。 孫の誕生を祝う哲夫の頬から一筋の涙が伝う。
『遙……よく……頑張ったなぁ……』
皺くちゃになった浅黒い手が娘の手に触れたとき、娘の身体が眩い閃光に包まれた。
……哲夫の意識は白い星屑となって永遠に戻る事はなかった。
――
その光景はいつものように青白かった。
フローリングの床に広がる夥しい血の池の中に、三人の遺体が横たわっている。
真ん中で仰向けに寝ている者は妊婦であった。 瞳孔の開いた黒目を大きく開けて、恨めしそうに口を開いている恐ろしい形相。 お腹の中の子供は外の世界を見る事は無かった。
妊婦の両脇には男性の遺体が同じく仰向けに横たわっていた。 スーツ姿のサラリーマンは何が起こったのか分からずに、目を丸くして息絶えていた。 まるで大砲で撃ち抜かれたかのような大きな穴を胸に開けて……。
反対側に横たわる男性は首が無かった。 浅黒い肌をした男性という事は分かるが、年齢が分からない。 ……すると、床を見つめていた目線が奥の机へゆっくりと上がって行った。
机には初老の男性の首が置かれていた。 喜びの涙を流して永遠の眠りについている白髪の男性。 二度と覚める事のない夢を見て幸せに浸っているようだ。
三人の遺体を眺めている者は誰だか分からなかった。
ただ、床に映る影から辞書のような本を片手に持っている様子が伺えた。
『ブツ、ブツ……』と何かを呟く声は女の声であった。
女は何やら呪文のような言葉を口に出している。 床に映る本の影からまるで蛇のような舌が、女の身体に纏わり付く様子が見て取れた。
すると、青白い景色がにわかに赤く染まった。
そこかしこから灰色の煙が立ち上り、煙の中から『ポツ、ポツ』と火の手が上がった。
炎はすぐに燃え広がった。
猛烈な勢いで壁を焦がし、中央で眠る三人の遺体へと迫った。
『パチ、パチ、パチ……』
『――ボンッ――!』
家財道具に燃え移り空気が爆ぜる音が響くと、勢いを増した復讐の業火は瞬く間に三人の身体を包み込んだ。
真っ赤な炎が三人を包むと、青白い炎やオレンジ色の鮮やかな炎へと変わって行く。 鼻をつく臭気を立ち上らせながら、三人の遺体は真っ黒い炭となった――。
ゆっくりと道を歩く女の背後から、大勢の悲鳴が聞えてきた。
「黄瀬さんのお宅が燃えてるぞ!」
「――火事だ! 消防車を呼べ――!!」
近所の住民が黄瀬家から上がった火の手に気付き、騒然としている。
遠くから消防車のサイレンが聞えて来る。 燃えさかる炎の中で朽ちていく家を見つめながら、家にいた者達の無事を祈っている住民も見かけた。
恐らく、黄瀬家は近所に愛されていたのであろう。
……黄瀬家の悍ましい本性も分からない者達から。
「……復讐は……」
女は呟いた。 徐々に遠くなる喧騒を背に、ひたすら前に進み続けながら呟いた。
家族への復讐は自らの手で完遂した。 これ以上、憎む者などもういないはず……。
……そのはずだった。
「……復讐は……まだ終わっていない」
ところが、女の復讐はまだ終わっていなかった。
一体、誰に対する復讐なのか? 誹謗中傷をしたネットユーザー? 学生の時に自分を苛めた男子生徒達? それとも、彼女に悪意を向けた全員に対してなのか?
いずれにせよ、女は憎き家族をその手で殺め、自分の手で復讐を実行した。
そして、次の復讐も自分の手で実行する事だろう。
「復讐は……自分でしなければ……」
そうでなければ、身体を蝕む憎悪を消す事が出来ないと、女は知っていたのである――。
次の日、新聞の朝刊に住宅街で火災が発生したというニュースが報じられた。
閑静な住宅街にひっそりと建っていた“廃屋”から火災が発生し、焼け跡から三人の遺体が発見されたとの事であった。
警察は遺体の身元確認を急いだが、不思議な事に三人の身元は全く分からなかった。
近所の住民に聞き込みをしても『火災があった場所は以前から“廃屋”があっただけだった』との事で、誰も廃屋に人が住んでいた事など知らなかったのである。
結局、三人の遺体は『身元不明』として荼毘に付され、無縁仏として地蔵の下で眠りについた。
――
(……名前……)
(私の名……)
(……思い出せない……)
(でも、いつか聞いた言葉は思い出す)
『――“呪われた子”なんてこの世にはいないんだから――』
それはお腹の中に居た時に聞いた言葉。 思い出せる訳が無い。
しかし、喫茶店のママから出た同じ言葉がグルグルと頭の中を駆け巡り、懐かしい声に変わった時――その声が一度も見た事のない『母』の声だと思い出した――。
「……」
ステラは紅い瞳を持つ男の一言によって気を失った。
目が覚めると、ステラは薄暗い部屋のベッドの上にいた……。
「……ここは……スタッフさんが運んでくれたの?」
そこはステラにとって見覚えのある場所であった。 繁華街の場末にひっそりと建つ診療所――精神安定剤や鎮痛剤を大量に処方してくれる闇医者が運営しており、ステラもしばしば利用していた如何わしい診療所であった。
簡素なパイプベッドで寝かされていたステラ。 ネズミ色の壁に囲まれ、部屋にはステラが寝ているベッドしか置いていない。
ステラは下着姿で眠っていた。 手元にスマホが無く、所持品も何処にあるか分からない。 現在の日付、いつまで眠っていたのかも見当が付かなかった。
「イベントは大丈夫だったのかな?」
ステラは不安になった。 すぐにでもSNSを確認し、自分が倒れた後にイベントがどうなったのかを確認したかった。
それにスポンサーへの謝罪もある。 関係者へ事情を説明し、次のイベントに繋げなければならない。
ステラはベッドから起き上がった。
……診療所は不気味なほど静まり返っていた。
部屋は薄暗く、ドアのガラス越しから廊下へ目を向けると照明も付いていない。
『――ジィィィ――』
何処からともなく耳障りなノイズ音が聞えて来る。 急に耳元で聞えたかと思うと、遙か彼方から聞えてくるかのように遠ざかる不気味な音。
ステラはベッドの上で耳を塞いで顔を顰めると、所持品を探そうとベッドから降りた。
『……ピチャ……』
廊下に素足を付けると、ヌメヌメした冷たい感触が伝わってきた。 床に油でも撒かれているのか?
……いや、この鼻につく独特な鉄のような匂い。 それは青い靄がかかった部屋の中で充満した“憎悪の匂い”と同じであった。
「――誰か――! 誰か、いないの――!?」
ステラの叫び声はドアを突き抜けて廊下まで届いたはず。 しかし、微かなノイズ音しか聞えず、人が全く感じられなかった。
「……? 床に何かある……」
夥しい血が広がる床に幾つかの影が見えた。
「……あ……あ……あ……」
ステラが影に気付いた瞬間、彼女は言葉を失った。
ステラの眼前に映った光景――それは先ほど見た夢の光景と良く似ていた。
青白い靄に覆われた光景に似た、人間の遺体がそこかしこに転がる凄惨な光景であった――。




