孤独無き恨み
『黄瀬遙』――その女は“ラヴィニアの書”を警察署から持ち去った張本人であった。
遙は涼本翔琉教授の下で古文書を研究していた女子大生であった。
涼本教授は世界各地で宗教的儀式に使用されたという様々な呪物を研究していた。 その中でも異質な呪物――“ラヴィニアの書”と呼ばれる不気味な魔術書はとりわけ涼本教授のお気に入りの研究対象であった。
生徒達は涼本教授から魔術書の伝説も聞かされていた。
『憎悪を抱く者に復讐する力を貸す。 ……その者の魂と引き換えに』
もちろん涼本教授は「迷信であるが……」という一言を添え、魔術書の効果を学生達に説明した。 遙もおぼろげながら涼本教授の説明を覚えており「キモイ本だなぁ」という他人事の感想しか抱いていなかった。
遙は魔術書の事などどうでもよかった。 大学二年生であった遙にはすでに婚約者がおり、彼と幸せな生活を送っていたからである。 遙よりも五つ年上の『エリート商社マン』。 遙がアルバイトをしていたコンビニの客であった彼は遙を見染め、逢瀬を重ねた後に遙と婚約を交わした。
遙が結婚の準備の為に大学を中退した後、涼本教授は中学校を襲撃するという忌まわしい事件を引き起こした。
警察の発表によると、涼本教授は娘の自殺を教師と同級生のせいだと盲信し、理不尽にも学校を襲撃したとの事であった。 世間では涼本教授は軍が誤って輸送中に落下させた“冷凍弾”の犠牲になった被害者であるというウワサが蔓延っていたのだが、遙は『警察の発表の方が正しい』と確信していた。
遙は事件の一報を聞いて、すぐにあの恐ろしい伝説を持つ魔術書を思い出したのである。 涼本教授が魔術書の力を借り、娘を殺した学校に対して“復讐”をしたのだと確信した。
とはいえ、その時の遙には涼本教授が死亡した理由などどうでも良かった。 ましてや、魔術書など自分には関係無い。 遙には愛しいフィアンセと優しい父が傍にいる。 幸福に包まれていた彼女にとって、胡散臭い魔術書に思いを巡らせる余地はなかったのである。
遙の容姿は美しかった。
光沢のある黒い瞳は藍色のようにも見える涼しげな瞳であり、それでいて目尻が下がった愛嬌のある目をしていた。 艶のある黒い髪をお団子にまとめている上品な姿。 緩やかな曲線を描いた小さな顔は和服を羽織れば艶やかな“お姫様”と呼ばれた。
誰からも『清楚で品がある』と言われていた遙。 小さく丸い口から漏れる麗しい声から他人の悪口など聞いたことが無かった。
「黄瀬さんは羨ましいわね。 あんな器量の良い娘さんがいるなんて」
遙の父は近所からそう褒めそやされた。
誰もが羨む理想の娘――それが黄瀬遙という女性であった。
……ところが、そんな理想の娘には醜悪な本性が隠されていたのである。
――
遙には妹がいた。
妹は決して容姿が美しいとは言えなかった。 むしろ、道行く人々が顔を顰め、後ろ指をさすほど醜い容姿をしていた。
糸のように細い目は魚のように離れており、瞼はカエルのように腫れていた。 鼻は哀れにも潰れており、アゴは突き出て三日月のようになっていた。
背は小さく丸まっており、その様子はさながらイモムシのようであった。
遙はそんな“穢らわしい妹”を心の底から憎んでいた。
ただ、容姿が醜いだけではない。 妹が誕生したせいで愛しい母が亡くなったからであった。
母はお腹に宿した妹と共に自殺を図り、妹を残して死んでしまったのである。
「――お母さんを殺したバケモノめ――!」
いつも遙は妹に向ってそう断罪し、理不尽にも妹を虐待した。
手を上げる。 足で蹴る。 熱湯をかける……。 寒い雪の日に庭へ放り出し、暑い夏の日には物置に閉じ込めた。
遙が行なった数々の虐待は怒りを禁じ得ないほどに酷たらしかった。
しかし、父はそんな娘の悍ましい所業を止めようとしなかった。 あろうことか、自らも加担して目を覆いたくなる過酷な仕打ちを末娘に加えた。
本当なら妹は死んでいたはずだった。 父と二人で行なった人道に悖る壮絶な虐待で。
……ところが、妹は懸命に生きようとした。
『ゴミ』と言われようが。
『イモムシ』と言われようが。
『バケモノ』と言われようが……。
部屋の隅でひっそりと息を潜め、灰色に濁った細い目に絶望の涙を溜めながら必死に耐えていた。
遙はそんな健気な妹が尚更許せなかった。 妹が高校生になる日まで、繰り返し暴虐の限りを尽くしたのであった――。
遙の忌まわしい暴行も、妹が高校一年生になる頃には終息した。 虐待を止めた理由は単純に妹の力が強くなったという理由からであった。
遙は妹が高校生になってから、妹の容姿などまともに見た事がなかった。 遙と妹は自宅にいながらも殆ど顔を合わせる事がなかったのである。 妹はまだ学生のクセに明け方にコッソリ帰って来て、鳥が鳴く前に家を出た。
そんな妹との歪な生活が続いていたある日、遙は派手な服装をした若い女が自宅の門を潜っている姿を目撃した。
「何、アイツ? まさか、お父さんの……?」
『男手一つで娘を育てて来た父に、遂に愛人が出来たのか?』――そう思った遙は女に気付かれないようにそっと背後に近寄った。
すると、女の太股に見覚えのある火傷の跡がついている事に気が付き、遙は驚愕した。
(ア……アレは……! わ、私が“バケモノ”に付けた傷……)
女の足にくっきりと残った酷たらしい火傷の跡……それは、遙が中学生の時、妹の足に熱した鉄の棒を当てた時に出来た恐るべき虐待の痕跡であった。
遙は目を疑った。 女は確かに妹であった。 しかし、あの醜い妹ではなかった。
老婆のように背中を丸めて隠れるように自宅を出入りしていたはずの妹が、凜然とした美しい背中を伸ばして堂々と自宅の玄関を開けているのだ。
まるで別人となっていた妹の姿に遙は恐怖し、震え上がった――。
妹はそれから一ヶ月も経たずに家を出て行った。 遙と父に宛てた手紙を残し……。
『……必ズ復讐シテヤル……』
手紙に書いてあった文字は、妹の血で殴り書きにされた恐るべき決意表明であった。
遙と父は妹の復讐に怯えた。 最近、妹は町のチンピラや暴力団と交遊があった。 SNSを利用して如何わしいビジネスを始めており、妙に羽振りが良かった。 遙と父に復讐を実行出来る背景は充分にあった。
父は遙の為に警察へ相談し、復讐に備えた。 一週間、一ヶ月……いつまで経っても妹が二人に復讐する気配などなかった。
遙が大学を中退し、婚約者と結婚する事になった頃には、もう妹による復讐の恐怖など忘れてしまった。 遙は妹の事よりも自分の幸福な未来を想像する事で頭が一杯であった。
……ところが、遙の描いていた幸福な未来は儚くも崩れ去った。
遙の婚約者が結婚式の前日に行方不明になったのである……『裏切ったつもりはない』という書置きを残して。
父は娘を置いて忽然と姿を消した男に対して激昂し、男の実家へ怒鳴り込んだ。 すると、男の両親は飄々と「息子はそもそも金持ちの令嬢と婚約をしており、お宅の娘と婚約をした覚えはない」と開き直られ、警察を呼ばれた。
それ以来、遙は家に引き籠もるようになった。 精神を病んで父に暴力を振るうようになった。
あの目に入れても痛くなかった愛娘……。 「お父さん♡」といつも甘えて来てくれた自慢の娘。 そんな可愛かった娘が今や般若のような顔で自宅の壁を破壊し、金属バットを持って自分を追いかけて来る。
「これはアイツの呪いに違いない……」
娘に金属バットで滅多打ちにされながら、薄れ行く意識の中で父は悔やんだ。
「こんな事だったら、やっぱり俺が殺しておけば良かった。
あの醜い“呪われた子”を――」
この後に及んで尚、父は末娘の事を憎んでいたのであった。
――
妹が家を出てから一ヶ月後、遙はふと翔琉が研究していた魔術書を思い出した。
『憎悪を抱く者に復讐する力を貸す。 ……その者の魂と引き換えに』
魔術書にまつわる伝説を思い出した遙。 すると、遙の脳裏に婚約を反故にして自分の前から姿を消した恋人の顔が脳裏に浮かんだ。
「憎い……アイツが! ……殺す……殺してやりたい!!」
遙の心に怨嗟の火が灯った。
遙は居ても立っても居られなくなった。 すぐに魔術書が現在何処にあるのか調査を開始した。
魔術書の所在は数日で判明した。 涼本教授の死後、魔術書は夢見が丘警察署に保管されていたのである。
まるで導かれるように夢見が丘警察署へ向った遙は大学の学生証を提示して「涼本先生のゼミ生として、先生の遺留品を拝見したい」と事情を述べて、不気味な魔術書と対面を果たした。
魔術書は憎悪に反応するはずだった。 ……しかし、遙を目の前にしても表紙の悪魔は口をポッカリ開けたままで何の反応も示さなかった。
遙は立ち会いの警官に遺留品を引き取りたいと申し出た。 保管場所に困っていた警官は魔術書の実態など知らなかった為、快く遙の要求を受け入れた。
こうして、難なく魔術書を手に入れた遙。
『この本を使って“あの野郎”に復讐をしてやる!!』
そう願いつつ自宅へ戻り、魔術書に祈りを捧げた。
……ところが、遙がいくら祈ろうが、いくら叫ぼうが魔術書は何の反応も示さなかった。
ページを捲れば意味不明な謎の文字。 魔術書の力を借りれば『スラ、スラ』と読めるはずだと聞いていたが、遙には一文字も読む事が出来なかった。
「……アハ……アハハハ! そう……当たり前よ! 信じていた私がバカだった。
所詮は迷信……作り話だったのよ!」
その瞬間、遙の心は軽くなった気がした。 何故かもう復讐する気も失せてしまい、遙は魔術書を棚の奥へ放り込んだ。
魔術書が遙の憎悪に反応しなかった理由――それは遙が父に愛されていたからであった。 たとえ婚約者に裏切られた憎しみを抱こうとも、彼女のココロが孤独と絶望に支配されない限り、魔術書はリベンジャーに力を貸さないのである――。
それから半年後、遙はようやく落ち着きを取り戻して来た。 父が愛する娘の為に献身的な介護をしてきたお陰だろう。 遙は父の為にフィアンセへの復讐をすっかり諦め、新たな人生を歩もうと奮起した。
仕事を始め、再び明るさを取り戻した遙。 父はそんな娘に心から安堵し、黄瀬家に平穏な日々が戻ったのであった。




