花言葉
森中伊奈の屋敷には一階に広い応接間がある。 応接間は来客を応対する時や屋敷の者達と会議する時に使用される部屋である。
中央には向かい合わせになった緑色のラシャ張りのソファーが置いてあり、立派な装飾のローテーブルが中心にあった。
床にはペルシャ絨毯のような重厚な絨毯が敷かれており、花柄の壁紙に覆われている壁には巨大な絵画が飾られていた。
逃げ惑う人間達を守護する六人の天使が描かれた古い絵画。 天使達の前には燃えるような紅い瞳を輝かせた蛇のような魔物が咆吼を上げている。
先頭には翼を持った天使が魔物と対峙している。 その姿は醜悪な魔物の口から吐き出す漆黒の炎から背後の姉妹達を護っているかのようであった。
天使は蒼炎迸る鎌で暗黒の炎を弾き返していた。 コウモリのような黒い翼と鳥のような桜色の翼を生やし、赤と黒のコルセットドレスを身に纏う妖艶な姿。 肩までかかった桜色の髪の先は先端を黒く染め上げている。 狐のような黒い耳、髪色と同じ毛色の太い尻尾を持った不思議な天使は長い年月が過ぎたせいで、インクが掠れて顔が見えなくなっていた。
伊奈は時々応接間に一人でいる時がある。 そんな時は、彼女がこの大きな絵画を懐かしそうに眺めている時であった――。
「――焔さん、コーヒーをお持ちしました」
伊奈のメイド『綾乃』が応接間へ入ると、中央のソファーに焔と大輔が向かい合わせに座っている姿が目に映った。 綾乃はゆっくりソファーへ近づくと、二人の間の挟まったテーブルに二客のコーヒーカップを置いた。
大輔は綾乃が置いたコーヒーカップを手に取って口元へ持って行く。 香ばしい匂いが大輔の心を落ち着かせると、向かいのソファーに座っている焔が大輔に声を掛けた。
「大輔君、そんなに心配しなくても大丈夫だ」
焔の声と同時に扉が閉まる音が聞えて来た。 綾乃が退室し、応接間は深閑とした空気に包まれた。
「……やっぱり、“あの女”は僕の手で殺さなきゃならない」
大輔は怒りを噛み殺し、顔を伏せた。
「そう思い詰める必要はないさ」
焔は大輔の不穏な言葉に頭を振って否定すると「妹の事は心配いらない」と再び大輔を宥めた。
「燈の存在が女に知られた以上、燈にはしばらく学校を休んでもらう。
自宅には親父とお袋もいるから女に襲われることはないはずだ」
燈は現在、学校を休み自宅療養中であった。
電車内で忌まわしい体験をした燈は“黒ヒョウ”に助けられた事を夢だと思っているようだ。 大輔が助けてくれたと信じて疑わず、目が覚めた後はしばらく大輔の傍から離れなかった。
『またいつ襲われるか分からない』
燈が両親と一緒にいるからって襲われないとは限らない。 それに愛しい燈が襲われたという事実以前に「あの女は燈を怖がらせた」――その事実だけでも大輔が女に対して殺意を抱く充分な理由になった。
一方、焔の立場はいくら妹が襲われたからと言って、女をそう簡単に殺す訳には行かない理由があった。
「大輔君、君の気持ちは良く分かるが、ここは俺に任せてくれないか?」
焔はそう言うと、大輔が忘れていた女の素性を話し始めた。
――
「ステラって……! この間、希海さんが会った女じゃないですか!?」
焔が大輔に付きまとう女が人気インフルエンサー『ステラ』であると指摘すると、大輔は仰天してソファーから飛び上がった。
大輔は希海と同じでSNSなどに興味は無い。 したがって、ステラも名前だけしか知らなかったのであるが、燈から『ステラという有名人が希海と会う』と聞かされていたので、「どうせ“ミーチューバー”か何かだろう」と想像していた。
(……まさか、僕に付きまとっていた女がそんな有名人だったなんて……)
大輔は困惑の表情を隠さずに再び頭を抱えた。
……しかし、大輔は彼女の素性を知っていたはずである。 女がステラと言う名のインフルエンサーだった事も、彼女の『本当の名前』も。
そして、ステラが大輔に語った悲しい過去も、大輔は今やすっかり忘れてしまっていたのだ――。
動揺する大輔を前に、焔は不審そうに首を傾げた。
(何故、ステラは“アラフェール・ライラ”で大輔君の記憶を封印したのだろうか?)
(……謎だ。 大輔君に知られたくない過去を隠そうとするだけなら分かる。 しかし何故、自分の名前、姿、インフルエンサーであった事すら忘れさせたのか?)
大輔は燈の事で頭がいっぱいなのか、スマホの待ち受け画面にしている燈の写真を眺めていた。
焔は自分の妹がこれ程まで愛されている事に気恥ずかしさを感じ、咳払いを一つした。
「……コホンッ! 大輔君、ステラの顔も思い出したくないと言うかもしれないが、我慢して聞いて欲しい」
焔はそう切り出すと、大輔と一緒にいた時のステラの行動で、大輔が記憶に残っている行動を思い出すよう促した。
すると、大輔は目を尖らせて焔に向ってこう吐き捨てた。
「行動ですか? あんな奴の行動なんて覚えていませんよ! それに、もうアイツの顔だってすっかり忘れました! いまさら何を言ったのかなんて――!」
忌々しそうに顔を顰める大輔。 ステラと一緒にいる事が余程イヤだったのだろう。
ところが、大輔はそう言ってスマホに目を向けようとした時『ハッ!』と目を見開いて、再び顔を上げた。
「……花……」
大輔の一言に焔は首を傾げた。
「……花?」
「はい、何時だったか……アイツは僕に“黄色い花”を渡して来たんです」
ある日、ステラは大輔に黄色い花が咲く鉢植えをプレゼントして来たそうだ。
その時、ステラは大輔にこう言ったという――。
「私の事……忘れないで……」
――
大輔はその“黄色い花”の鉢植えを屋敷の庭に植え直したそうだ。
「たぶん庭にまだ咲いていると思いますが、“黄色い花”とだけしか覚えてないので見に行っても分からないと思います」
伊奈は庭の手入れを毎日欠かさず行なっている。 ガーデニングが趣味である伊奈の事だから花が植えられている事に気付けば、その花を大事に育てようとするはずだ。
(……イナに聞けば分かるな)
その後、大輔はステラの行動をいくつか思い出し『ポツ、ポツ』と言葉に出したが、どれも焔にとって有益な情報ではなかった。
「……大輔君、ありがとう。 後は俺に任せて君は妹の傍へ行ってあげて欲しい」
焔がそう言って席から立とうとすると「もちろんです――!」と大輔の方が先にソファーから立ち上がった。
「それじゃ、僕はこれで失礼します」
大輔は焔に『ペコリ』と一礼すると、スマホを耳に当てながらそそくさと応接間を後にした――。
『私の事……忘れないで……』
ステラが大輔に願った祈り……。 それは彼女の行動とは真逆の矛盾した言葉であった。
焔は再びソファーに座ると、おもむろに目を閉じて伊奈を呼んだ。
「……イナ、聞えるか? お前の庭に黄色い花が植えてあるだろう?」
焔が独り言を呟くと、彼の頭の中から面倒くさそうな伊奈の声が響いてきた。
『……はぁ? 突然、アタシに声を掛けて来たかと思ったら、何を訳の分からない事をほざいている?
黄色い花なんてゴマンとある。 それだけで分かる訳ないだろう、この馬鹿野郎』
焔にだけは相変わらず悪態を付く伊奈。 しかし、焔は怒る事もなく、頭の中に声を掛ける伊奈に泰然と言葉を返した。
「いや、分かるはずだ。 お前なら……」
『……』
伊奈は焔の返事にしばらく沈黙した。 恐らく、庭に植えてある花を思い出しているのだろう……。
すると、ようやく伊奈の声が焔の脳内に響いて来た。
『……“マリーゴールド”』
「“マリーゴールド”?」
焔にはその花がどんな花なのか分からなかった。 黄色い花であることは大輔の話と花の名前から分かる。
伊奈は何故その花を大輔が植え替えた花だと思ったのだろうか?
『“マリーゴールド”の花言葉は「友情」「信頼」「愛情」……。
……そして「絶望」「嫉妬」……』
焔は“マリーゴールド”の花言葉を聞いて目を見張った。
「……絶望……?」
伊奈は庭に植えてあった“マリーゴールド”が絶望の闇を纏っていた事で、元々庭に植えてあった花ではない事に気付いたそうだ。
『お前も知っての通り、言葉というのは人間の魂によって色を成す。 光に満ちた魂であれば鮮やかな色を成し、影に覆われた魂であれば漆黒の闇を纏う。
鮮やかに彩られた言葉は幸福をもたらす一方、闇を纏った言葉は呪詛となり不幸をもたらす。
“マリーゴールド”に「絶望」という花言葉を乗せたとき、花は暗澹とした闇に包まれる。 逆に「愛情」という花言葉を乗せたとき、花は燦然とした光に満ちあふれる。
庭に植えてあった“マリーゴールド”は残念ながら暗い影に覆われていた。 これは何者かが哀れな魂を花言葉に乗せた結果……』
本来ならそんな花が庭に植えてあれば焼却するはずだが、彼女はそうしなかった。
「何故、お前は負の感情に満ちた花を庭に植えたまま育てているんだい?」
伊奈は焔の質問に答えなかった。 逆に『何故“そんな事”をアタシに聞いて来たんだ?』と焔に問い返した。
「なに、大した理由じゃない。 それより“真理の門”が存在する“イェネ・ヴェルト”の入口は見つかったのか?」
焔は伊奈の問いかけをはぐらかし、再び伊奈にボールを投げ返した。
伊奈はまだアラスカに滞在しており、アラスカを拠点にして“イェネ・ヴェルト”という場所を探していた。
『アホか、見つかっていれば悠長にお前と話なんかしているか』
伊奈は焔が投げたボールを受け取らず、呆れた声で焔に告げた。
『ステラという女は“鬼”になりかけている。 お前もそれは分かっているだろう?
そして、お前であれば女が“鬼”になろうが、簡単に消滅させる事が出来る。
それをわざわざ放置しているのは“ラヴィニアの書”の為か?
アタシにはお前の真意が分からない。 だが、大輔と妹の事が心配であれば、お前が二人を助けてやれ。 アタシが出る幕もないだろう』
伊奈は焔の力を認めていた。 あえて厳しい言い方をしているが、誰よりも焔の事を信頼しているのは伊奈であった。
「ああ、そうするよ。 ただ、“ラヴィニアの書”の為だけじゃない」
「絶望に満ちた者を救う為……。 お前がかつて“妹”にそうしたように――」
伊奈は焔の返事を聞くと『ふふっ……』と微笑を漏らし、通信を遮断した。




