標的
「ユウ君、●●と結婚して♡」
それは思い出すだけで身震いがする忌まわしい告白であった。
あられも無い姿で強引にキスを迫り、身体を擦り寄せる女に対し、大輔は母を殺害した時に見た醜悪な光景を思い出した。
「――止めてくれ――!!」
大輔が思わず女を突き飛ばす。 女はテーブルを巻き込んで床に転がった。
「ユ、ユウ君? ……●●の事、キライになったの?」
元から嫌いだった。 たまたま助けてあげただけなのに、勝手に言い寄って来て燈との学生生活を滅茶苦茶にしたのだから。 亡き父親に「女の子に手を出さない」と約束していたとはいえ、何度張り倒したいと思った事か……。
人形のような蒼い瞳から涙を流し、唇を震わせる女。 豊満な裸体をさらけ出し、美しい顔で大輔を誘惑する様は、まさに母の姿を思い出すようで虫唾が走った。
「●●……。 君に黙っていたけど、僕にはもう恋人がいる。
……だから、君の願いは受け入れられない」
大輔はついに燈の存在を仄めかしてしまった。
「――!? う、うそ……?」
女は大輔の告白が余程衝撃的であったのか、大きな瞳を目一杯開いて言葉を失った。
大輔は女の哀れな姿に一抹の同情が胸を掠めたが、すぐに頭を振って毅然とした声で別れを告げた。
「……ゴメン。 だから、もう●●とは会えない。 君だったら、きっといい人が見つかる――」
大輔が緊張した面持ちで女にそう言いかけた時、女の瞳に憤怒の色が滲んだ。
「――フザケンナ――!!」
女は怒声を上げた。 蒼い瞳は真っ赤に充血し、噛みしめた唇からは血が滲んでいる。
「ちょ……お、落ち着いて……」
狼狽する大輔に向って、憤激した女は一糸纏わぬ姿のまま信じられない言葉を吐いた。
「散々人を弄んでおいて『彼女が出来た』だって!? 私のお腹にはアンタの子供がいるんだから!」
「――えええっ――!?」
大輔は女が何を言っているのか理解出来なかった。 会うたびに大胆な誘惑をする女に対し、大輔は頑なに貞操を守って来たはずである。
女の偉大なる妄想は現実世界から飛び立ち、大輔も知らない星の彼方まで行ってしまったようだ。
「私の『――』をアンタの『――』であれだけ犯したのに、忘れただって!?」
耳を疑う卑猥な言葉を口に出し、大輔の狼藉を詰る女。 事実無根の話をまるで昨日あった出来事のように生々しく語り、仕舞いには「キィィ!」と金切り声を上げて物を投げつけて来た。
「アンタを殺して、お腹の子供と死んでやる!」
困り果てた大輔は仕方無く女を大人しくさせた。 一瞬で女の背後に回り込むと『ポカリ』と頭を叩いて彼女を気絶させ、ベッドへ運んで眠らせた。
こうして女の乱心を止めた大輔であったが『その場しのぎ』である事は彼にも分かっていた。
「……どうしよう。 また、伊奈様に相談しようかな……。
……いや……」
明日にはアメリカへ旅立たなければならなかった大輔。 伊奈に相談している時間はない。
とはいえ、彼がアメリカへ行っている間、この“メンヘラ女”が何をするか分からない。 ネット上で大輔の誹謗中傷を展開したり、学校に突撃して大暴れしたりすることは想像に難くなかった。
「……焔さんに相談してみるか。 あの人なら、同じ男として僕の気持ちを分かってくれるかも知れない」
大輔は焔にこの顛末を打ち明ける事にした。
こうして焔は桑原夫妻の自宅の一室で、大輔から“メンヘラ女“による被害相談を受けた。
――
大輔がアメリカへ行っていた期間は約三ヶ月――その間、大輔の身に異変が起きた。
忘れたくても忘れられなかった女の名を、ある日突然思い出せなくなったのだ。
そればかりか、夢にまで出て来てうなされた女の顔まで忘れてしまった。 女の顔をイメージしても”紫色の靄”に包まれてその姿を思い浮かべる事が出来ないのである。
(もしかして、焔さんが何かしてくれたのか?)
折しも、燈が桑原夫妻に対して激昂して落ち込んでいた時の事。 大輔の心にモヤモヤした霧が消え去った。
(これで、もう邪魔者はいなくなった)
アメリカへ帰れば、燈との幸福な学生生活が待っている。 愛しい燈は大輔の隣で亡くなった親友の事を思い出し、涙で頬を濡らしていた。
(燈、今までゴメンね……)
大輔は後悔していた。 自分の気の弱さから女につけ込まれ、もう少しで燈を危険の晒してしまう所であった。
大輔は再び『燈を護る』という決意を新たにし、燈と初めての口づけを交わしたのであった――。
大輔がアメリカから帰ると、不思議な事に女の存在が綺麗さっぱり消えていた。 大輔はまるで今まで悪夢を見ていたかのような不思議な感覚に襲われた。
やはり、焔が呪術を使って女の存在を消し去ってくれたのだろう。 そんな恐ろしい呪術があるかどうか大輔には分からなかったが、焔であれば何でも出来るだろうと勝手に想像して、焔に感謝した。
焔は大輔達より遅れて日本に帰国して来た。
大輔は焔に会って真相を確かめようとした。 ところが、焔は機械の鷹『イーリス』と行動を共にしており忙しいようだったので、結局事件が起こるまで大輔は焔と会えなかったのであった。
――その事件は、ステラと希海が出会った翌日に起こった――
大輔は燈と手を仲良く手を繋いで下校している時、ふと女の事を思い出した。
(あの女は本当にもう居なくなったんだろうか……?)
もはや、大輔の脳裏には女の影しか思い浮かんでこない。 彼女の名も、声も、顔も一切忘れてしまっていた。
それでも、何故か心に『ザワ、ザワ』とした違和感がする。
(影となった女が何処かで自分を見ているんじゃないか?)
そんな不安が頭をよぎった。
「大輔、どしたの?」
赤いリボンで結んだポニーテールを揺らし、燈が大輔に顔を向けた。
目尻の上がった涼しげな瞳を目一杯開いて不思議そうに首を傾げる小麦色の少女。 その可愛らしい仕草が大輔には堪らなく愛おしく思った。
「いや、何でも無い。 燈が『可愛いな』って思っていただけさ」
燈は大輔の言葉に一瞬嬉しそうな顔を見せたが、すぐに八重歯をピョコッと出してイジワルそうに大輔を揶揄いだした。
「またぁ♪ そんなセリフばっか言っているから、女の子が勘違いするんだよ」
燈の言う通り、大輔は時々体裁の良いセリフを吐く。 本音をそのまま言葉に乗せる場合もあるが、心とは裏腹の言葉を吐く場合もある。
いずれにせよ、彼の表現は“直球”である為に誤解され易いのである。
そんな大輔の言葉が燈にとっては「キザっぽい」と感じ、女にとっては「正直だ」と感じてしまった。
燈はそもそも大輔の事を信用している。 大輔が自分を愛してくれ、自分も大輔の事を愛しているという信頼感がある。
一方、大輔に盲愛した女は大輔の言葉に縋り、彼の言葉で心の安らぎを得ようとしていた。
つまり、燈は言葉よりも大輔の心を信頼しているのであり、女は大輔の表面上の言葉しか信頼していなかったのである。
「いちいち言葉にしなくたって、私が『可愛いこと』なんて知っているでしょ♡」
燈はそう茶化すと大輔の腕を取って寄り添った――。
「じゃ、大輔! 私、今日は手伝いがあるから夕方また連絡するね♪」
燈は週に一度、アム・セグラ人が運営する養護施設でボランティア活動をしていた。 養護施設は二つ駅を越えた緑豊かな町の外れにあった。
「えへへ、今日は楽しい外出日♪ もう、“おとう”と“おかあ”の顔なんて見たくない!」
燈は親に黙って大輔とアメリカへ行った罰として、両親から自宅謹慎を命じられていた。 今日は久しぶりにボランティアに行く為に外出を許可されていたのである。
大輔は燈の嬉しそうな顔を見て、自分も何だか嬉しくなった。
「はははっ! 気を付けて行って来なよ」
燈と駅まで同行した大輔は、改札を潜ろうとする燈に注意を促した。
「あはは、大輔は心配性なんだから! 帰る時に電話かけるからねっ♪」
燈はそう言って大輔に手を振ると、ポニーテールを踊らせながら駅舎の中へ元気良く駆けて行った。
――
伊奈の屋敷へ帰る途中、大輔は妙な胸騒ぎがしていた。
『なんか今日、メチャクチャ電車混んでる!』
大輔のスマホに燈からショートメッセージが届くと、大輔の不安が少しだけ和らいだ。
『燈、くれぐれも気を付けてね』
そう返事しようとした時、大輔の心に再び不安の影が過った。
(一体、何だろう……? やっぱり、燈が心配だ)
満員電車の中で燈がもみくちゃにされている光景が思い浮かぶ。 燈の周りは人のような形をした漆黒の影達が取り囲んでいる。
悍ましい影達は真っ黒い手を燈に向って次々と伸ばして行く。 艶やかな髪を掴み、彼女の制服を破き、小さな口を忌まわしい手で塞ぐ。
『――大輔、助けて――!!』
「――燈――!!」
大輔は道路の真ん中で叫んだ。 全身が汗にまみれ、心臓が『バク、バク』と焦眉の急を告げる。
額に包帯を巻いた高校生が突然道端で叫ぶ姿に、道行く主婦が驚いて立ち止まる。 一体何が起こったのか分からずに目を白黒させていると、高校生の目の前にいつの間にか真っ白い猫がいた。
「――ニャァ――!」
大輔は猫の鳴き声に気づき、顔を上げた。
「ナ、ナナ!?」
白猫は燈の親友『涼本清香』の忘れ形見『ナナ』であった。
『大輔君! 燈が――』
『――燈が危ない――!!』
清香の悲痛な叫びが大輔の頭に響いたその瞬間――。
突然、道路に一陣の突風が吹き抜けた。
「キャァ!!」
凄まじい突風に泡を食った主婦が目を閉じる。
「――!?」
主婦が目を開くと、目の前にいた高校生が忽然と消えていた。 白猫もいつの間にか姿を消している。
主婦はあまりの不可解な出来事に持っていた買物袋から手を離すと、茫然と呟いた。
「一体……何なの? ……あの子」
道路に落ちた買物袋からリンゴが飛び出した時、すでに大輔は駅のホームまで到着していた。
大輔が駅まで到着した時間はわずか数秒にも満たなかった。 大輔はおよそ10キロの距離を瞬間移動したかのように駆け抜けたのだ。
大輔が全速力で駆けたのはこの時が初めてであった。
「――間に合ってくれ――!」
線路に飛び出し、燈が乗る電車を追いかける大輔。 駅にいる者達は突然の風に驚いただけで、人間離れした稲妻のような速さで駆ける高校生に気付く者などいなかった。




