第4話 汽車の来ない駅
汽笛が聞こえた。
アレクは顔を上げた。
港へ入ってくる船が煙を吐いているだけで、駅の時計は止まっていた。
針は十一時を少し過ぎたところで重なりかけている。硝子の内側には蜘蛛の巣が張り、かつて切符を売っていた窓口には板が打ち付けられていた。
『覚えとるのか?』
胸ポケットから、白い鼻先が覗いた。
「ああ。ここで船から汽車に乗り換えたんだったな」
アレクは、閉ざされた改札の向こうを見た。
線路は残っていた。
ただ、枕木の間から草が伸びている。
遠くでは、倒れた柵が片方のレールへ覆いかぶさっていた。
「母さんに、何度も座り直せって言われた。窓から離れなくてさ」
膝に載せられた包み。
母の手袋。
動き出した途端に後ろへ流れていった、港の建物。
覚えているものは、思ったより多かった。
「……帰りも、ここを通ると思ってたんだよな」
マーカスは何も言わなかった。
あの頃、汽車はこの先へ走っていた。
今は、線路の向こうに黒い結界がある。
十年前、兄を探して森へ入った時にも、同じ黒い靄を見た。
兄の体にまとわりついていた暗闇。
触れようとすると、魔力を吸い込むように揺れたもの。
あれが何なのか、まだ分からない。
ただ、汽車が来なくなった理由と無関係ではない気がしていた。
アレクは肩のずだ袋を掛け直した。
「爺さんも、汽車くらい乗ってみたいだろ」
『猫がおらんならな』
「そこかよ」
足元で、小石が鳴った。
「何をしとる。置いていくぞ」
振り返ると、モルデカイが自動車の脇に立っていた。
じゃらじゃらと身につけた金の鎖が、腹の上で光っている。
「今行く」
アレクは駅から離れた。
*
用意されていたのは、二台の魔導自動車だった。
一台は客車。
もう一台には、木箱と麻袋が積み込まれている。
荷台の横では、商会の男たちが革帯を締め直していた。運転席の脇には、短い火薬銃が留めてある。
「結構、積むんだな」
アレクが言うと、モルデカイは帳面から目を上げた。
「食料、薬、機械の部品。帰りは向こうの荷を買い付ける」
「何でも売るんだ」
「何でもは売らん。売れるものを売る」
その違いは、アレクにはよく分からなかった。
モルデカイは帳面を閉じ、こちらへ向き直った。
「改めて言っとくぞ。お前の仕事は、道中の護衛と、必要な時の魔力供給だ。荷を壊すなよ」
「もう分かったって」
「分かっとる人間は、猫一匹で賃金を全部なくさん」
後部座席から、笑い声がした。
「お兄ちゃん、こっち!」
マリアが窓から手を振っていた。
赤い髪を今日は二つに結び、膝の上には小さな籠を載せている。
「パパの隣、空いてるよ」
「俺の席そこなのか」
「ほかにどこへ座るつもりだ」
モルデカイが先に乗り込んだ。
車体が、ぐっと沈む。
アレクは反対側へ回った。
旅が始まるらしい。
今度は、隠れて乗らなくていい。
*
港を離れると、道はすぐに狭くなった。
石畳が途切れ、踏み固められた土へ変わる。
窓の向こうで、草に埋もれた線路が並んでいた。
「列車は、もう走ってないのか」
アレクの問いに、モルデカイが頷いた。
「向こうがああなってから、まともな路線としては使えん。残った区間だけ動かしても、維持する金が出んのだ」
「線路はあるのに」
「線路だけで汽車が走るか。機関車も、人も、燃料も要る」
モルデカイは窓の外を見た。
「昔は、この港からロス地方まで一息だった。五十キロほどだが、今は途中で何度も止まる」
「道が悪い?」
「道も悪い」
その言い方に、アレクは顔を向けた。
モルデカイは続けなかった。
代わりに、運転席の隣に座る黒服の男が、膝の上の銃を確かめた。
アレクも外へ目を戻した。
畑だったらしい土地が広がっている。
崩れた納屋。
屋根だけ残った家。
少し先では、新しい柵の内側で人が土を起こしていた。
「住んでる人もいるんだな」
「おる。全部が無人になったわけじゃない」
モルデカイは、膝の帳面を指で叩いた。
「だから、商売にもなる」
*
車が轍を越えるたび、尻が浮いた。
マリアは二度ほど楽しそうに笑ったが、三度目には籠を両手で押さえた。
「お菓子、割れちゃう」
「腹に入れば同じだろ」
「同じじゃないよ」
アレクは素直に謝った。
マリアが籠へ気を取られたところで、モルデカイが声を落とした。
「お前、この辺りに来たことがあるんか」
「……小さい頃に、少し」
「駅を、ずいぶん見とったな」
アレクは窓枠へ肘を載せた。
「昔のこと、思い出してた」
「そうか」
それ以上、尋ねてこなかった。
アレクは少し迷ってから、逆に聞いた。
「エーガー商会って、昔からこの辺まで来てたのか」
「ああ。私も何度か来た。あの頃は、魔導機械の売り込みでな」
「売れた?」
「よそじゃ燃料代の方が安くても、この辺じゃ話が違う。使える魔力が多ければ、魔導式の方が働く」
モルデカイの目が、アレクの胸元へ向いた。
「お前みたいなのが、どこにでもおれば楽なんだがな」
「俺が安くないぞ」
「賃金はもう決まっておるじゃろ?」
「……そうでした」
マリアが顔を上げた。
「お兄ちゃん、パパに負けたね」
「まだ始まったばっかりだ」
モルデカイは鼻で笑った。
*
しばらくして、マリアが眠った。
揺れる頭が窓へぶつかりそうになるたび、モルデカイの太い手がそっと支える。
やがて娘を自分の方へ寄せ、畳んだ上着を肩に掛けた。
アレクは外を眺めていた。
木々の切れ間に、山が見える。
あの向こうの景色も、覚えているだろうか。
『気を張りすぎるでないぞ』
マーカスの声が脳裏に直接ひびいた。
「……張ってねえよ」
小声で答える。
『昨夜も、ろくに寝とらんじゃろ』
「爺さんが枕を取るから」
『それを言うなら、あの部屋の寝台を最初に占領したのはお主じゃ』
アレクの口元が、少し緩んだ。
森の中へ落ちてきた寝台。
雨を防ぐために積み直した煉瓦。
残っていた服と、小箱に入っていた金。
使えるものを拾い集める間、アレクは何度もマーカスへ聞いた。
いつ帰れる。
どうしたら帰れる。
最初は、そればかりだった。
「……あの金、結構もったよな」
『お主が着るものに頓着せんかったからのう』
「食うものには、頓着したぞ」
『しすぎじゃ。知らん実を拾うたびに、食えるか聞きおって』
「解毒は上手くなったろ」
『褒めるところではない』
十年。
初めて薪を売った日のことも、鍋を焦がした日のことも、昨日のように思い出せる。
マーカスが白いネズミを連れてきて自在に動かした時は、頬が引き攣ったものだ。
思い出しながら、アレクは薄く笑った。
長かったのか。
短かったのか。
今は、よく分からなかった。
アレクは胸ポケットへ指を添えた。
「ちゃんと、戻ってきたな」
白い鼻先が、その指へ触れた。
『うむ』
その時、車が急に速度を落とした。
*
「止まれ」
黒服の男が言った。
道の先に、荷車があった。
片方の車輪が外れ、荷台が斜めになっている。
麻袋からこぼれた穀物が、土の上に広がっていた。
その傍らに、人が倒れていた。
アレクは扉へ手を伸ばした。
「待て」
モルデカイの声が、鋭くなった。
「まだ下りるな」
黒服の男は、銃を肩へ当てている。
後ろの車も止まった。
アレクは、倒れた人を見た。
その向こうで、何かが動いた。
初めは、犬かと思った。
四本の脚で立っている。
だが、前脚が長すぎた。
曲がる向きも、おかしい。
毛のない灰色の体が、荷車の陰から現れた。
頭に、目が見当たらない。
代わりに、首の横が裂けた。
濡れた赤いものが覗き、細い歯が何列も並んでいた。
その姿を見た瞬間、アレクの指先が冷えた。
兄にまとわりついていた暗闇とは違う。
だが、あの黒い結界の近くで感じた、魔力を濁らせる気配に似ていた。
「……何だ、あれ」
「分からん」
モルデカイが答えた。
「黒い結界の近くで見たという話はある。そこから出てくるとも言われとるが、確かめた人間はおらん」
灰色の頭が、こちらへ向いた。
「分かっとるのは、人を襲うことだけだ」
それが、飛びかかってきた。
*
銃声がした。
灰色の肩が弾けた。
体が横へ流れたが、意に介さない。
長い前脚が地面へ突き刺さり、体を引き戻した。
裂けた口から、甲高い音が漏れる。
道の脇の草が、揺れた。
一つ。
二つ。
同じ灰色の頭が、続いて現れた。
「伏せろ!」
黒服の男が叫んだ。
モルデカイがマリアを抱き込んだ。
アレクは扉を開けた。
『右にもおるぞ』
「見えてる」
足を地面へ下ろす。
飛びかかってきた一匹の口が、目の前で大きく開いた。
「遮れ」
アレクの指先に、小さな陣がともった。
光の円が滑る。
その外周を巡り、ひと回り大きな紋様を描き上げる。
左右に、新たな陣。
細い光が、それらを繋いだ。
灰色の体が、見えない壁へ激突した。
車の窓硝子が鳴った。
「人が乗ってんだぞ」
「退け!」
アレクは空いた手に、別の小陣を灯した。
腕を振ると、小陣が横へ走った。
その後ろに描かれた紋様から、光の線が道を横切った。
飛びかかっていた体が折れ、後ろの二匹を巻き込んで吹き飛ぶ。
土が抉れ、草が宙へ舞った。
別の一匹が、横から迫った。
アレクは半歩退いた。
長い前脚が、鼻先をかすめる。
「浮け」
新たな小陣が、灰色の脚の間へ滑り込む。
地面すれすれで円を巡り、その足元に紋様を描き上げた。
灰色の体が地面から浮く。
脚が空を掻いた。
「今度は、お前だけな」
アレクは握った拳を下へ向けた。
陣に流す魔力を、下へ押し込む。
浮いた体が、地面へ叩きつけられた。
鈍い音がした。
動かなくなった。
最初の三匹も、起き上がってこなかった。
アレクは、しばらく草むらを見ていた。
『……もうおらんようじゃな』
マーカスの言葉に、ようやく息を吐いた。
*
「お兄ちゃん!」
窓から、マリアの声がした。
「平気?」
「ああ。そっちも?」
マリアは頷いた。
その頭を押さえたまま、モルデカイが顔を出す。
「勝手に下りるなと言っただろうが」
「車ごと食われるよりいいだろ」
「だから、飛び出す前に一言言え!」
アレクは口を開きかけた。
閉じた。
「……次は言う」
「次がない方がええ」
モルデカイはそう言い、黒服の男へ指示を出した。
「荷車の男は無事か? お前、見てこい。あと後ろの連中にも、まだ銃を下ろすなと言っとけ」
アレクも荷車へ向かった。
倒れていた男は、生きていた。
腕には深い傷があり、服が血を吸っている。
「爺さん」
『まずは血を止めい』
アレクは膝をついた。
男が薄く目を開け、何かを言おうとした。
「動かなくていい。大丈夫だから」
袖を裂き、傷へ手をかざす。
「傷を閉じろ」
掌に灯った小陣が、指先へ流れていった。
その先で描かれた細かな紋様が、傷口を淡く照らす。
今度の陣は、小さなままでよかった。
*
応急の手当てを済ませ、男を荷物車へ乗せた。
前方には、商会も利用する街道の休憩所があるという。
そこまで運べば、寝かせる場所も、人の手もあった。
モルデカイは積み荷を組み替えさせながら、道の脇へ目を向けた。
灰色のものは、動かなかった。
アレクも近くから見た。
折れた脚。
肩の弾痕。
閉じきらない、首の口。
初めて見る生き物だった。
黒い靄ではない。
兄にまとわりついていたものとは、姿も違う。
だが、黒い結界の近くで感じた気配と同じものが、裂けた口の奥からかすかに滲んでいる気がした。
兄の暗闇と、この怪物は同じではない。
それでも、どこかで繋がっている。
『触るでないぞ』
アレクは手を止めた。
「……分かってる」
「アレク」
モルデカイに呼ばれた。
「助かった。荷も車も、無事だ」
アレクは振り返った。
「俺の仕事なんだろ」
「ああ」
モルデカイが頷く。
「その調子で頼む。道は、まだ続くぞ」
アレクは車へ戻った。
座席へ乗ると、マリアが少しだけ近くへ座り直した。
機関が低く鳴る。
車輪が、ゆっくり回り始めた。
窓の向こうを、古い線路が流れていく。
その先には、黒い結界がある。
汽車が来なくなった理由も、兄にまとわりついていた暗闇の正体も、まだ分からない。
それでもアレクは、線路の先へ目を向けた。




