第5話 天使の行方
「まだ着かないの?」
マリアが窓から身を乗り出しかけ、モルデカイに肩を引かれた。
「もう少しだ。座っとれ」
「さっきも、もう少しって言ったよ」
「さっきより近くなっとる」
アレクは後ろを振り返った。
荷物車は、少し距離を空けてついてきている。
荷台に寝かせた男を揺らさないよう、運転手は轍を慎重に避けていた。
「腕、大丈夫かな」
「血は止まったんだろう?」
「ああ。ただ、傷が深い。ちゃんと休ませた方がいい」
モルデカイは頷いた。
「なら、向こうで診てもらう。運んどる間にお前が心配しても、傷は塞がらん」
もっともだった。
アレクは前へ向き直った。
「……助けるって、倒して終わりじゃないんだな」
モルデカイがこちらを見た。
「今さら何を言っとる」
「俺、こういうのは慣れてないんだよ」
胸ポケットで、マーカスが小さく動いた。
『相手を吹き飛ばす練習なら、ようしてきたがな』
アレクはポケットを指で押さえた。
*
車が坂を上り始めた。
路肩には、何度も継ぎ足された石の壁が続いている。
その上に、洗濯物が見えた。
人の暮らす場所が近い。
アレクが窓の外を眺めていると、モルデカイが言った。
「さっきの魔術、治療にも使えるんだな」
「少しは。自分で怪我した時、困るだろ」
「誰かに習ったのか?」
アレクは胸ポケットへ目を落としかけ、やめた。
「まあ、そんなところ」
「私の知り合いにも、器用なのがおった」
モルデカイは膝の上で指を組んだ。
「壊れたものを渡せば直す。分からんところを聞けば教える。学生の頃から、そういう男でな」
「便利な奴だな」
「本人の前で言ったら、殴られるぞ」
アレクは口を閉じた。
「お前も学生だったんだ」
「私を何だと思っとる」
答えは、飲み込んだ。
モルデカイが目を細める。
「先輩が二人いてな。一人は、説明が長い。もう一人は、説明する前に分解する」
「それ、教わる方は困るだろ」
「困った。何が困ったって、分解した部品で食堂の机が埋まるんだ」
マリアが笑った。
「パパ、ご飯食べられないね」
「食えんかった。しかも、二人とも私より先に腹を減らす」
モルデカイは、少しだけ口元を緩めた。
「私は注文を取りに行く係だった」
「昔から商人だったんだな」
「金を集める役も、私だった」
「ちゃんと払ってくれた?」
「払ったとも。ただし、片方は食ったあとで財布を忘れたと言う」
マリアが、父の袖を引いた。
「パパが出してあげたの?」
「ああ」
「優しいね」
「貸したんだ。翌日には取り立てた」
アレクが吹き出した。
モルデカイは鼻を鳴らし、窓の外へ目を戻した。
「……あいつらにも、世話になったからな」
その声は、車輪の音に紛れそうなほど小さかった。
アレクは何か聞こうとした。
先に、運転手が口を開いた。
「見えました」
*
休憩所というには、ずいぶん大きな建物だった。
街道に面して食堂があり、その横に宿泊棟が続いている。
裏手には井戸と倉庫。
屋根を張り出した作業場には、荷車と自動車が一台ずつ入っていた。
門の脇に立つ男が、こちらを見て手を上げた。
モルデカイも窓から片手を出した。
「怪我人がおる。寝かせる場所を頼む!」
男の顔つきが変わった。
すぐに建物の中へ声をかける。
車が止まる頃には、何人かが駆けてきていた。
アレクは荷物車へ回った。
「着いたぞ。少し動かすからな」
寝かせていた男が目を開けた。
「……荷は」
「今は自分の心配しろよ」
「そういうわけにも、いかんだろ」
男は顔をしかめながら、起き上がろうとした。
アレクが肩を押さえる。
「荷物のことは、あとで説明してやるから」
「ハンスさん?」
作業場から、女の声がした。
工具を手にした若い女が、こちらへ歩いてくる。
作業着の袖を肘までまくり、腰には革の道具袋を下げていた。
「遅いと思ったら……どうしたの、その腕!」
「途中で、あれにやられた」
女が息を呑んだ。
すぐに工具を近くの台へ置き、荷台へ手を掛ける。
「こっちに寝台がある。担架、持ってきて!」
中から返事がした。
女は男の包帯を見た。
血は滲んでいるが、増えてはいない。
「手当ては?」
「俺が。血は止めたけど、まだ動かさない方がいい」
アレクが答えると、女は短く頷いた。
「ありがとう。下ろすの、手伝って」
*
男は、食堂の奥の小部屋へ運ばれた。
女が寝台の脇へ椅子を寄せ、休憩所の主人が薬箱を持ってくる。
近くの診療所へ使いを出すという話になり、モルデカイがその費用を引き受けた。
「先に診てもらえ。勘定は、落ち着いてからだ」
男は何度も頭を下げようとしたが、そのたびに女に止められた。
「分かったから。動かないで」
「部品も、積んでたんだがな」
「だから、それはあと」
叱られた男が、アレクへ目を向けた。
「この兄ちゃんが、助けてくれたんだ。あれを、あっという間に……」
女が振り返った。
アレクは戸口に立っていた。
部屋へ運び込む間は、男の体ばかり見ていた。
今になって、女の顔をちゃんと見た。
頬に、細い油の汚れが付いている。
後ろで束ねた髪から、一房だけがこぼれていた。
金色がかった茶色の、大きな瞳。
その目には覚えがあった。
「……レイラ?」
女の手が止まった。
「え?」
アレクは、もう一度その顔を見た。
庭の木の下。
土を掘っていた細い枝。
自分が何度も同じ話をするたび、呆れたように笑った顔。
「レイラ、だよな」
女が立ち上がった。
「あなた……」
こちらへ一歩近づく。
アレクの顔を見上げ、目を細めた。
短くなった銀髪。
日に焼けた頬。
目尻から顎へ、視線が移る。
「……アレク?」
その名前を呼ばれた途端、用意していた言葉が全部なくなった。
アレクは頷いた。
「ああ」
*
レイラの口が、わずかに開いた。
何か言おうとして、言えなかったらしい。
指がアレクの袖へ伸び、途中で止まる。
「生きてたの?」
「ああ」
「本当に?」
アレクは、もう一度頷いた。
レイラが袖を掴んだ。
強かった。
「……どこにいたの」
「遠く。ずっと、帰れなくて」
それ以上は、うまく説明できなかった。
レイラも、すぐには次を聞かなかった。
掴んだ袖を離さず、顔を伏せる。
アレクは、その手を見ていた。
爪の脇に、黒い油が残っている。
指の節には、小さな傷があった。
「お前も、無事だったんだな」
レイラが顔を上げた。
「あの日、お父さんと港に行ってたの。車の部品を取りに」
声が震えていた。
「帰る途中で、ああなって……お父さん、何度も戻ろうとしたけど、近づけなくて」
「ヨハンさんも?」
「生きてる」
アレクは息を吐いた。
思ったより長く、息を止めていたらしかった。
「……よかった」
レイラの眉が寄った。
「よかった、じゃないよ」
「うん」
「みんな、あなたも……」
最後までは言わなかった。
アレクも聞かなかった。
ただ、袖を掴む手が震えたので、その上へ自分の手を重ねた。
*
「知り合いだったのか」
モルデカイの声に、二人は振り返った。
戸口に、マリアと並んで立っている。
レイラは目元を拭き、頷いた。
「小さい頃に、一緒に遊んでました」
「そうか」
モルデカイは、アレクを見た。
何か言うかと思った。
だが、出てきたのは別の話だった。
「私は主人と荷の話をしてくる。医者が着いたら、呼んでくれ」
マリアの背へ手を添え、廊下へ出ていく。
「パパ、私もお話――」
「今は、こっちだ」
声が遠ざかった。
寝台の男は、枕へ頭を戻した。
「俺も、ちょっと目を閉じるかな」
気を遣われているのが分かった。
アレクは、急に居場所に困った。
*
廊下へ出ると、レイラはようやく袖を離した。
けれど、まだこちらを見ている。
「……そんなに変わったか?」
アレクが聞いた。
レイラは、黙って頷いた。
「背も伸びたしな」
返事はない。
「髪も切った」
「うん」
レイラの目が、肩へ移った。
くたびれた上着。
襟元。
荷車の男を運んだ時に付いた血。
それから、顔へ戻った。
「ちゃんと食べてた?」
「食ってたよ。むしろ、食うのは好きだ」
「寝てた?」
「……まあ」
『そこは、胸を張って答えられんのう』
胸ポケットから念話が飛んだ。
アレクは、ポケットを睨んだ。
「うるせえ。今、話してんだろ」
レイラの目が丸くなった。
アレクは顔を戻した。
「あ、今のはお前じゃなくて」
白いネズミが、襟元から顔を出した。
レイラがそれを見る。
アレクを見る。
また、ネズミを見る。
「……何から聞いたらいいの、これ」
「俺にも分からん」
レイラは長く息を吐いた。
そのあと、もう一度アレクの顔を見た。
今度は、泣きそうな顔ではなかった。
「昔は、あんなに可愛かったのに」
「は?」
「髪、さらさらで。顔も小さくて。お人形みたいだったのに」
「そこは忘れていいだろ」
レイラは首を振った。
「忘れられないよ。天使みたいだったんだから」
アレクの目つきが、さらに悪くなった。
「男に向かって、天使はねえだろ」
レイラは、その顔をまじまじと見た。
そして、深いため息をついた。
「……天使が、ヤクザになって帰ってきた」
「誰がヤクザだ!」
胸ポケットで、マーカスが腹を抱えていた。




