第6話 先輩と息子 挿絵有り
「で、そのネズミは?」
笑い終えたレイラが、アレクの胸ポケットを指差した。
「マーカス爺さん」
「名前じゃなくて」
「俺の師匠」
レイラは口を閉じた。
白いネズミが、ひげを撫でている。
「……順番に聞こうと思ったのに、最初から分からない」
「俺も最初はそうだった」
『そこで納得するでない。ワシの教えで、どれだけ助かったと思っとる』
アレクは胸ポケットを見下ろした。
「分かってるって」
「今、何か言ったの?」
「小言」
レイラが、眉間を押さえた。
「……座ろう。長くなりそう」
*
食堂の隅に、窓際の席があった。
昼には少し早いらしく、客はまばらだった。厨房から煮込みの匂いが漂い、奥では女が皿を重ねている。
レイラは水差しと二つの杯を運んできた。
「お父さん、今は近くの農場へ行ってるの。揚水機が止まったって」
「相変わらずだな」
「壊れるものは、いくらでもあるからね」
水を注ぎながら、レイラがアレクの手を見た。
節の太くなった指。手の甲に残る古い傷。
「どこにいたの?」
アレクは杯へ手を伸ばした。
「海の向こう。ここじゃ見ない木が生えてて、冬でも暑いところ」
「一人で?」
「最初はな。途中から、爺さんがいた」
ポケットの縁に、白い前脚が掛かった。
「兄さんが、部屋ごと飛ばしてくれたんだ。目が覚めたら、知らない森だった」
レイラの手が止まった。
「ザイールさんが?」
「ああ」
額へ触れた手。
胸の奥に入り込んできた冷たさ。
アレクは、杯の水を見た。
「……あの時、屋敷で何が起きたのかは、まだうまく話せない」
レイラは、少しの間黙っていた。
「そっか」
水差しを置く。
「じゃあ、話せるところからでいい」
アレクは顔を上げた。
レイラは向かいの椅子へ座った。
「食べるものは、どうしたの?」
「部屋に金が残ってた。着替えとか、使えるものも。それを拾って、町を探して」
「言葉は?」
「通じないところもあった。だから最初に覚えたのは、パンと、いくらだ、だったな」
レイラの口元が、わずかに緩んだ。
「あなたらしい」
「腹は減るからな」
そう答えてから、アレクは杯を口へ運んだ。
向かいに座るレイラは、もう庭で一緒に土を掘っていた子供ではない。
けれど、話を聞く時に少し首を傾ける癖は、覚えているままだった。
*
表で、自動車の止まる音がした。
レイラが窓へ顔を向ける。
「帰ってきた」
やがて、入口の扉が開いた。
「レイラ。ハンスが怪我したって?」
男が、革の鞄を片手に入ってきた。
日に焼けた顔。眉間に刻まれた皺。
髪には白いものが増え、作業着の肘は別の布で継いであった。
アレクは椅子から立った。
「ヨハンさん」
男が、こちらを見た。
「……ああ。あんたが運んでくれたのか。助かった」
そのまま奥へ向かおうとする。
「お父さん」
レイラが呼び止めた。
「アレクだよ」
ヨハンの足が止まった。
振り返る。
アレクの顔を見た。
「……何?」
「アレク。ロス家の」
革の鞄が、床へ落ちた。
中で工具が鳴った。
ヨハンは、それを拾わなかった。
二歩、近づいてくる。
「お前……」
アレクは、何と言えばいいか分からなくなった。
「久しぶり」
出てきたのは、それだけだった。
ヨハンの手が、頬へ触れた。
顎を少し持ち上げられる。
顔を確かめるように、左右から見られた。
「大きく、なったな」
「十九だから」
「……そうか」
頬から手が離れた。
今度は、肩へ置かれる。
重かった。
「生きてたか」
ヨハンは、それきり黙った。
肩を掴む指に、力が入る。
アレクは目を伏せた。
「遅くなった」
「帰ってきたなら、それでいい」
アレクを抱き寄せながらヨハンの声が、少し掠れた。
*
「……ヨハン先輩?」
食堂の奥から、モルデカイが顔を出した。
後ろには、マリアがいる。
ヨハンが顔を向けた。
「モルデカイか」
「お久しぶりです」
「お前、また太ったな」
アレクが吹き出した。
モルデカイは、こちらを睨んだ。
すぐにヨハンへ向き直る。
「先輩は、少し痩せられましたね」
「動いてるからな」
マリアが父の横から顔を出した。
「パパのお友達?」
モルデカイの表情が和らいだ。
「学生の頃の先輩だ。さっき話した、機械に詳しい人だよ」
「ご飯の机で分解しちゃう人?」
ヨハンが、モルデカイを見た。
「何を教えてる」
「事実でしょう」
「お前も、そこで部品を売ってただろうが」
今度は、マリアが笑った。
モルデカイは咳払いをした。
「……それより、先輩。今、アレクと呼ばれましたか?」
「ああ。ルドルフの下の息子だ」
モルデカイの顔から、笑みが消えた。
アレクを見る。
ヨハンを見る。
もう一度、アレクを見た。
「ルドルフ先輩の?」
ヨハンが頷く。
「アレクサンドル・ロス。ブランカさんに似てるだろ」
自分の名が食堂に響いた。
アレクは、背中が少しむず痒くなった。
「……言う機会、なかったから」
モルデカイは答えなかった。
視線がアレクの顔から、手へ移る。
「そうか。だから、あの魔術か」
低く呟いた。
「食事の作法も、どこで覚えたのかと思っとった」
「母さんに、うるさく言われた」
モルデカイが、ゆっくり息を吐いた。
「先輩の息子を、船で働かせとったとはな」
「俺が密航したんだから、そこはいいだろ」
ヨハンの手が、まだ肩にあった。
「密航?」
アレクは、しまったと思った。
*
ヨハンがハンスの様子を見に行っている間に、アレクは顔と手を洗った。
戻ると、食堂の隅に椅子が増えていた。
モルデカイが、先に席へ着いている。
「密航の話までしなくていいだろ」
「聞かれたら答える」
「さっきは俺の名前も知らなかったくせに」
「名前を知らん相手の密航なら、見逃してええんか」
反論できなかった。
レイラが、笑いながら杯を並べた。
ヨハンも戻ってきて、革の鞄を壁際へ置く。
「医者は、もう来るそうだ。血が止まってるだけでも助かったってよ」
アレクは頷いた。
ヨハンが、隣へ座った。
「レイラに、少し聞いた。海の向こうへ飛ばされたんだってな」
「ああ。兄さんが、逃がしてくれた」
ザイールの名を聞いて、ヨハンは黙った。
食堂の奥で、皿が触れ合った。
マリアは父の隣へ座り、卓上の匙をそっと揃えている。
アレクは、膝の上で手を組んだ。
「屋敷には、戻れた?」
ヨハンが首を振った。
「近くまでは行った。何度もな」
手の甲を、親指で擦る。
「道は残ってた。手前の畑も、見覚えがあった。だが、屋敷のある辺りは、全部あの黒いものの中だ」
「……入れなかった?」
「入った奴はいた」
ヨハンは、アレクを見た。
「帰ってこなかった」
レイラが、水差しから手を離した。
「声も届かん。通信の魔道具も役に立たなかった。ルドルフのいた首都も、同じだ」
アレクは頷いた。
知っていた。
帰ってくるまでに、何度も聞いた話だった。
それでも、ヨハンの口から聞くと、違った。
「父さんも、まだ?」
「……ああ」
ヨハンは、杯へ目を落とした。
「すまん。何も、分からんままだ」
「ヨハンさんが謝ることじゃない」
アレクは、すぐに言った。
少し声が大きくなった。
「俺だって、十年かかったんだし」
胸ポケットの中で、マーカスが動いた。
アレクは、その上へ手を置いた。
「……戻って、確かめたいんだ」
ヨハンが顔を上げた。
「何が起きたのか。兄さんが、どうなったのか」
白い光の中へ沈んだ顔を、思い出した。
「俺だけ、逃がしてくれたから」
*
厨房から、湯気の立つ鍋が運ばれてきた。
「話の途中で悪いね。冷める前に食べとくれ」
食堂の女が、卓へ鍋敷きを置く。
レイラが立ち上がり、皿を受け取った。
ヨハンはアレクの前へ、深い皿を寄せた。
「まず飯を食え」
「……ああ」
「今日はここに泊まれるんだろうな」
その問いは、モルデカイへ向けられた。
「部屋は、これから頼もうと思っていました」
「なら、こいつを寝かせろ。続きはそれからだ」
「分かっていますよ」
言いながら、モルデカイはマリアの皿へ煮込みを取り分けた。
大きな肉を匙で切り、小さくしてから渡す。
「熱いから、ゆっくりな」
「うん。パパのも入れてあげる」
マリアが柄杓へ手を伸ばした。
モルデカイはその手に自分の手を添え、一緒に鍋からすくった。
ヨハンが、パンの籠を取った。
「おい、モルデカイ。そっちの皿も回せ」
モルデカイが、空いた皿を渡す。
「先輩、自分で取れるでしょう」
「お前の方が近い」
アレクは、思わず笑った。
「ほんとに後輩なんだな」
「お前まで調子に乗るな」
手元の皿から、湯気が上がっていた。
肉と根菜を煮た、見慣れた料理だった。
向かいにはレイラがいる。
隣では、ヨハンがパンをちぎっている。
マリアが、父に今日の怪物の話をしようとして、食べてからにしなさいと止められた。
アレクは匙を取った。
一口、食べる。
少し塩が強かった。
肉は柔らかく、根菜は端が崩れていた。
「どうした?」
ヨハンに聞かれ、アレクは首を振った。
「……うまい」
「なら、食え」
パンの籠が、もう一度回ってきた。
アレクは一つ受け取った。
まだ残っているのに、ヨハンがもう一つ載せた。
「そんなに食わねえよ」
「昔は、その半分も食わなかったからな」
レイラが、向かいで笑った。
アレクは文句を言うのをやめた。
パンをちぎり、煮込みへ浸す。
次の一口を飲み込むまで、少し時間がかかった。




